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第32話 すれ違う心
――「おい、永太」
聡一の声が聞こえる。そして、目の前に聡一の顔が見える。あぁ、あに様だ。僕は両手を伸ばして聡一の首に抱き着いた。いい夢だな。あに様が出てきた。僕の愛しい人。ずっとこうしていられたらいいのに。最近仕事で疲れてそうだけど大丈夫? あまり遊んでくれないとさすがに僕も寂しい――。
「こら、寝ぼけてるだろお前」
耳元ではっきり聞こえた聡一の声に、僕は一気に現実に引き戻された。慌てて手を離すと、聡一が少し離れて呆れ顔でこちらを見てくる。僕は恥ずかしくて顔を隠した。
「お前寝るならちゃんと布団敷いて寝ろ。風邪ひくだろう」
「…………はい」
消えてしまいたい。そう思いながら、僕は畳を転がった。
あれから約4年が経ち、僕は中学2年生に進級した。声変わりもして、もう少しで聡一に追いつきそうなぐらい身長も伸びた。理一郎と征二は、高校には進学せず花村屋を手伝っている。そもそも周りから進学の話も出てこなかったし、本人たちも全く希望していなかったので、当たり前と言えば当たり前だ。
聡一はというと、高校を卒業してから花村屋で正式に仕事をし始めたので、中学校卒業と同時に花村屋の仕事を始めた理一郎より1年遅く本腰を入れた運びとなる。それまでの3年間、週末だけ仕事を手伝っていた実績もあるため、あまり苦労せずにみんなと馴染めたようだ。先に花村屋で働いている理一郎と、学歴がある聡一。この二人のどちらが後継者に選ばれるのかと、花村屋お家騒動が活発化していた。さらに今年に入って、征二が花村屋に入ったことで、理一郎派の勢いがついているようで、紀子の神経が余計に張りつめている。
僕は夕餉の後に寝転びながら本を読んでいたら、どうやら眠ってしまっていたらしい。僕は起き上がって窓の外を見た。細かい雨が窓を叩き、雨どいを流れる水の音が室内に響いている。春の雨は冷えるから好きではないが、僕はこの音が嫌いではなかった。小さい頃はほぼ寝込んでいたし、話し相手なんていなかったから、雨でも降ってないと理一郎と征二の楽しそうな声が遠くに聞こえて苦しかったのを覚えている。――聡一がこの家にやってくるまでは。
聡一を見る。疲れた顔をして、聡一も窓の外を見ていた。僕が成長してあまり風邪をひかなくなっても、聡一はこうして僕の部屋に来てくれる。まるで日課のように。
「……兄さん、大丈夫?」
僕は聡一に声をかけた。聡一はこちらを見て、自嘲気味に笑う。先ほど寝ぼけて抱き着いたときにも思ったが、聡一はどうやら酒を飲んだらしい。対して強いわけでもないのに、利吉が進めると断わらない男だから。まだ二十歳になってない理一郎がそれを見ていつも羨ましがって、俺も飲ませてほしいとせがむのがいつもの光景だ。聡一は「あーぁ」と声を上げて畳に寝転がった。
「その呼び方を聞くと、お前も大人になったんだなって思うよ」
寂しそうにそんなことを言うもんだから、僕は苦笑した。僕はこの前、林の前で盛大にやらかしてしまったのだ。ずっと気を付けていたのに、気が抜けていたとしか思えない。林の前で聡一のことを「あに様」と呼んでしまったのだ。林は優しい奴だから揶揄うのは一回だけにしてくれたが、やはりちょっと、いや、かなり恥ずかしかった。思わずその場でしゃがみこんでしまうぐらいに。そして決めたのだ。呼び方を改めようと。
僕は聡一の横に肘枕をしてまた寝転んで、聡一の顔を見た。僕が大人になったなら、聡一は大人の色香が出たように思う。変な虫がつかないか、僕は気が気じゃなかった。
「……大人として見てくれるの?」
「ん?なんて言った?」
僕が思わず呟いた言葉を、聡一は聞き返してくる。僕はにっこり笑って誤魔化した。
「久しぶりに腕相撲しない? 僕、林には勝てたよ」
「お! いいぞ」
お互いに向かい合うように腹ばいになって、右手を組む。聡一の手は、昔より分厚くなったように思った。腕も僕のと比べてまだ逞しい。
「よーい……どんっ!」
掛け声とともに腕が震えるぐらい力を込めた。だが、聡一の腕はびくともしない。聡一が余裕そうに笑っている。
「~~~~あぁぁぁぁぁ……」
必死に抗うが、僕の腕がどんどん倒されていって、最後には畳についてしまった。全く歯が立たず、僕は笑いがこみあげてきた。聡一も童心に帰ったように笑っている。
「永太、強くなったな」
「本当?」
「ホントホント」
笑いながら聡一が僕を褒める。僕はうれしくなって、もっと頑張って体を鍛えようと思った。体を鍛えるのが趣味の林の父に教えてもらった入門のような運動方法を、聡一に隠れてやっている成果の現れだった。
ひとしきり笑った後、聡一は立ち上がった。あぁ、もう今日はこれでおしまいか、と僕は思った。
「よし、寝るか。お前も早く寝ろよ」
聡一がそういって部屋を出て行こうとする。
「うん、おやすみ兄さん」
「ん、おやすみ」
聡一の姿が襖の向こうに消えるのを見送って、僕は布団を敷いた。照明を落とし、敷布団に座って窓の外を見る。雨足は収まりそうにない。部屋に響く雨音を聞きながら、明日の朝には止んでればいいなと思いながら布団に入った。
* * * * *
「だから、今日はそんなにやる気なんだね」
昨日聡一に言われたことを話すと、林は頬杖を付きながらそう言った。
今日、僕は林家に招かれていた。中学校に入って勉強の幅が広がり、小学校とは違い試験もきっちりある上、学年順位が貼り出される最悪の制度がある為、定期的に林の家で勉強をするようになった。僕の家でもいいが、そんなことをするとまた紀子が張り切り出すかもしれないので、僕の家ですることはほぼ無かった。そして勉強の小休止に僕は腕立て伏せを始めたことにより、今、林から半眼で見られているわけだ。
「……はぁ、疲れた……」
僕は畳に転がって息を整える。林はため息をついて聞いてくる。
「もう普通に動けるようになってると思うけど……まだ鍛えるの?」
「ん? んー……まぁ、ね」
体を起こして林に言う。あの神輿行列でみたときの聡一の体を思い出すと、もう少し引き締まっていたと思う。運動が好きというのは一種の才能なのではないだろうか。
「……聡一さんのため?」
突拍子もなく出てきた名前に、僕は林の方を見た。林の目に、なんだか何かを探るような真剣さが見えて、一瞬言葉が出なくなった。体を鍛えようと思ったのは聡一のためというよりは自分のためだった。いきなりそんなことを言われるとは思わなかった上に、勝手に並行して「体を鍛えたら聡一のためになるか」という脳内議論が始まってしまった。聡一のためと言われると、前向きに検討しようとし始める自分の思考回路に笑えてきてしまう。
林と視線がぶつかり、沈黙が下りた。昨日の雨で冷えた風が開いていた窓から入り前髪をなでていく。目が乾いて僕が瞬きをすると、林は苦笑した。
「――なんてね……用を足してくる。戻ったら勉強を再開しよう」
林がそう言って立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。なんだか林の様子がおかしい感じつつも、理由がわからなくてすっきりしない。僕は気分を変えたくて窓を閉めた。
「……変なの」
窓を閉めてみたところで変わらない気分に、僕はぽつりと呟いた。
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