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第35話 青空の下で笑う

 その夜、僕は久しぶりに熱を出した。頭の重みに体が耐えられないような感覚があり、立とうとしても足がもつれてしまう。4人の女子に断りを入れた日は何もなかったのに、今日の出来事は自分の体に負担がかかるぐらい衝撃的で、重かった。縋り付いて泣いてしまいたかった。僕が振られたわけでもないのに。  夕餉も食べずに眠ってしまいたくて、三四に頼んで遠慮させてもらった。三四は驚いて医者を連れてくると言っていたけど、ただ疲れただけだから、そっとしておいてほしいとだけ伝えて、二階の角部屋に引っ込んだ。布団だって自分で敷いた。寝間着にも着替えた。体がしんどくてもそれら全てを我慢できた。でも、心を抉られてしまったような苦しさだけは、どうにも耐えられそうになかった。  真っ暗な部屋に、稲光が時々差し込む。大雨特有の明るさを浴びながら、眠れない時間を過ごしていく。僕は寝返りを打って窓の外を見た。さっき林が部屋にいたときに、窓の外に何を見ていたんだろう。普段この部屋から外を眺めている僕でさえ、見ようともしないような遠くを見ていたようだった。  部屋の襖がそっと開かれた音がした。雨音で僕はどうやら足音を聞き逃したらしい。僕は寝たふりをした。きっと聡一だろうと思ったが、今は聡一とうまく話せるような気がしなくて目を閉じてしまった。横寝をしている僕の背後に誰かが膝をついて、額に手を当ててきた。自分のものより少し分厚くて広い手で、僕は背後の人物が聡一だと確信した。額に手が置かれたのはほんの数秒で、また離れて行ってしまう。名残惜しさを感じながら僕は狸寝入りを続ける。聡一はしばらくそのまま僕の背後に座っていたが、それ以上の用はなかったのか立ち上がって部屋を出て行った。僕の様子を見に来てくれたということだけで、僕は嬉しかった。  次の日にはすっかり体は回復して、空も全ての汚れを洗い流したかのように清々しく晴れ渡っている。朝餉にもきちんと顔を出し、昨日の夜について心配をかけたことを謝罪した。努めて平静を装ったが、明日は学校があると思うと、胃が少しきりりと痛み普段通りの量を食べるのは難しかった。紀子は朝餉の席で、暑気中りに気をつけなさいと皆に言った。季節的にそう思ってもらえて僕としては有難かった。  久しぶりの晴天なので窓を開けて部屋に空気を通し、昨日返しそびれた座卓を聡一の部屋に届けたが、聡一は部屋にはいなかった。どこに行ったのかわからなかったが、紀子にすぐ戻ると言ってふらりと出て行ったらしい。借りた座卓はもとあった位置に戻して、僕は自分の部屋に戻った。  思いつく限り、できることをやった。そこからは試験範囲の勉強に専念した。ここで順位を落とすわけに行かない。唯一無二の親友が気を揉んでしまう。林がどう言うかわからないが、僕としては林の友達をやめるつもりは毛頭ない。だからこそ、明日が怖かった。明日、林が僕を見てどんな反応をするのかがわからなくて、怖い。嫌な想像が頭をよぎるたびに頭を振って考えないようにした。 「永太、入るぞ」 はっとして後ろを振り返ると、聡一が麦茶と饅頭を盆にのせて部屋に入ってきたところだった。もしかしてさっき聡一はこの饅頭を買いに行ってたんだろうか。僕の隣に座って麦茶と饅頭を座卓に置いた。 「最後にいつ飲んだ?」 言われて気付く。朝以来何も飲んでいない。僕は笑って誤魔化そうとしたが、聡一が心配そうにこちらを見てくる。昨夜と同じように額に手を当てて、熱がないか確かめられた。 「あまり根を詰めるなよ」 「それ、兄さんが言う?」 僕は笑いながら聡一に言った。聡一が高校時代の根の詰め方は、見ていて正直痛々しかった。お茶を淹れる練習だと言って、聡一の部屋にお茶を届けに行ったのも今では懐かしい記憶だ。言われた聡一も、ふと過去を振り返るように視線を泳がせて、自嘲気味に笑った。 「ありがとう。僕がお茶を淹れてもらっちゃった」 麦茶に手を伸ばしながら礼を言い、お茶を一口飲んで座卓に置く。視線を感じて聡一の方を見ると、聡一が何かを言いたげにこちらを見ていた。 「どうしたの?」 「あ、いや……」 歯切れ悪く聡一が言うので、僕は眉間に皺を寄せて聡一を見た。聡一はいい言葉が見つからないのか、後頭部を掻きながら「うーん」と唸る。 「その……お前は、高校に行きたいのか?」 聡一がそんなことを言ってくるので、僕は腕を組んで考えた。先のことだと思って何も考えてなかった。そもそも高校に行ってこいと言うような人も周りにはいないし、むしろ期待とかされてないだろうから言われないだろう。背中を押してくれるような友人たちもいない。でも、もし叶うなら聡一が通った高校を見てみたい気もする。 「……まだ、ピンとこないや」 濁すように答えると、聡一は「そうか……」と短く言って、立ち上がった。 「ちゃんと飲めよ」 最後に言い含めて部屋から去っていくところが聡一らしいと、僕は笑った。 * * * * *  僕はいつもより早く学校に着いた。教室にはまだ数人しかいないような時間なので大分早い。僕は荷物を置いて隣の教室を覗いた。いつもは自分よりも遅い林がすでにいた。僕に会いたくなかったのか、それとも僕と同じ考えだったのか。僕は肺いっぱいに空気を吸い込み、間仕切り窓から顔を覗かせて声にする。 「はーやしー」 呼ばれた林は驚きを隠そうともせず、僕を見る。僕は満面の笑みで言った。 「ちょっとツラ貸せヤー!」 人生で初めてこんな言葉を使ったなと自分で笑ってしまう。林はそんな僕を見て、顔に手を当てながら苦笑していた。 「……らしくないこと、するじゃん」 林が言う。僕もその通りだと思った。でも、それでも譲れないものもあると思う。 「たまにはそれもいいでしょ」 そういって先に廊下を歩きだす。林が後ろから走ってくる気配を感じながら、中庭へ向かった。    さすがに朝一から木の下で寝転んだりはしないが、いつも二人で話をする定位置なので、自然とそこに足が向く。木漏れ日を浴びながら僕は林を見た。林の顔は沈んだ様子もなく、ただ昨日はよく目を擦ったんだろうなと思うぐらい目元が少し荒れていた。 「で、改まって何の話? 僕、結構傷心中なんだけど?」 「い、言いづらくなるようなこと言わないでよ」 林がいつもの軽口に似せてそんなことを言ってくるから、僕も同じように返す。お互いの言葉に僕達は噴き出した。あぁ、よかった。林も歩み寄ってくれた。話したくないなんて言われたらどうしようって思っていた。 「林、僕は君とずっと仲良くしていきたい。僕のわがままを聞いてくれると嬉しい」 正直に話した。林は苦々しく、でも笑顔で応えてくれる。 「君、本当にいい性格してるよね。割と傷に塩塗る行為だと思うけど」 「そう、自分でも最近実感してる」 「胸を張って言うことじゃないんだよなぁ」 呆れ顔で僕を見てくる。いつもの林の顔に僕は安心していた。「へへっ」と思わず笑ってしまう。林は少し考えながら、不敵な笑顔を見せてきた。あれ、これは初めて見る顔だな。そして、こと林に関しては嫌な予感が当たってしまう。それが僕なのである。 「んじゃこっちのわがままも一つ」 林が一歩近づいてくる。逃げ腰になる自分を必死に律してその場にとどまろうとしたが、半歩だけ下がってしまった。 「僕、諦めないから」 は? 「聡一さんに振られたら僕のところに来てよ」 は…… 「はぁぁぁ!?」 僕は思わず叫んだ。さすがに一発ぐらい殴らせてもらえないだろうか。縁起でもないことを言うんじゃない! 晴れた空に白い雲が浮かぶ。二人の友情も、晴天なり。

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