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第36話 雷鳴に揺れ、覚悟に沈む
地面が割れるのではないかと錯覚するぐらい激しい雨が降って、俺は花村屋から母屋に駆け込んだ。そのわずかな距離でさえ、着ていたものが重くなったと感じるほどの水量が空から落ちてきている。今日は珍しく永太の部屋に林が来ている。さすがにそろそろ帰さないと親御さんが心配しそうだと俺は永太の部屋に向かった。ただ、期末試験に向けて頑張っている二人の邪魔もしたくないし、頃合いを見計らって声をかけようと静かに階段を登った。永太の部屋の前に立ってみると、何やら会話をしている。あぁ、これなら入ってもよさそうだなと声をかけようとした時だった。
『好きな人がいるような素振りが全く見えなくてね。でも、君はそういう嘘をつくような人じゃないから、本当にいるんだろうと思ったよ』
中から林の声が聞こえる。これは入ったらだめだ。男同士の艶聞に入ると言うのは野暮なもんだ。しかし、話題が自分の弟だ。聞いたらいけないと思う反面、兄貴分としては気になる会話な訳で、俺は好奇心のままその場に立ち尽くした。ただ、悪戯心に従ったこの行動を、俺は後悔した。林が吐露した内容は、彼が信頼している弟を除いて聞いてはいけないことだった。俺なんかが聞き耳を立てて聞いていい話ではなかった。罪悪感を抱え立ち去らねばと思った時に、弟の声が聞こえる。
『――思うものか。林は、林だ』
その答えに、やはり永太は優しい奴だなと思った。安心して廊下を歩きだそうと踵を返したとき、また林の声が聞こえる。
『ありがとう――――――花村、僕は、君が好きだよ』
絞り出すように放たれた言葉に、懇願するような声に、自分の鼓動が跳ねる。他人の告白を聞いたの初めてというのもあるが、相手が自分の知人と弟というのが、知らない仲ではないぶん、余計に頭が沸騰してしまう。特に永太にとっては唯一の友と言っても過言じゃない相手だ。永太の心境を思うとただ苦しかった。そして林の口ぶりを聞く限り、まるで振られることが分かった上での告白だった。それでも尚、言わずにはいられなかったのかと思うと、聞いているこちらの息が上がりそうだった。
『好きな人が、いるから……ごめんなさい』
永太の声が、重く心にのしかかる。林の言葉の通り、永太はそんな嘘をつくような子ではない。本当に別に、好きな人がいるのだろう。彼の世界がこの二階の角部屋から広がっていっていることに安堵しつつも、いつも俺や家族を想っている子が自分の元からいなくなってしまうのかと思うと、内心、複雑な気持ちになった。俺もきちんと弟離れしないといけない。
『うん、ありがとう。……花村、また学校でな』
林が別れの挨拶をしている。いけない、早く立ち去らねば、とすぐ目と鼻の先にある階段の一段目を降りようとしたところで、よりはっきりと聞こえてしまった。
『聡一さん、振り向いてくれるといいな』
突然出てきた自分の名前に、頭が真っ白になった。立ち去らなければならないという考えも吹っ飛んでしまうほどに。ほどなく襖が開かれ、林が出てくる。襖を閉めて、目が合った。林は一瞬狼狽えたが、何も言わずそのまま俺の隣を素通りし階段を降りていく。俺も彼の後ろをついていくように静かに階段を降りた。
雨音と足音が廊下に響いていった。彼の許可なく深い心情を知ってしまったこと謝罪せねばならない。ただ、どう声をかければいいかもわからない。むしろ彼は俺に謝罪されることを望んでもいないかもしれない。
「盗み聞きなんて、いい趣味してますね」
靴を履いている林から、明らかな敵意とともに言葉を投げられる。むしろそれが俺にはとても有難かった。自分の罪を素直に責めてくれる。永太の周りには、本当にいい人が集まるなと思った。
「……林君の帰りが心配で声をかけに。でも勉強の邪魔になるかと思って、そっと様子を見に行ったんだよ。言い訳にしかならないだろうけど」
年長者らしからぬ釈明に、自分で自分が情けなかった。自ら言うほどの一世一代の告白を終えた男に対し、自分がちっぽけ過ぎてそれ以上の言葉が出てこなかった。靴を履き終わった林が振り返ると、その表情は苦しさが滲んでいた。まるで飛び出しそうな心を抑え込もうとしているようだった。
「ご心配いただかなくとも、大丈夫です。それでは」
林らしからぬ不愛想さに、彼の葛藤を見た。玄関が開けられ、鮮明な雨音が激しさを伴って耳に入ってくる。
「気を付けて」
雨音で聞こえなかったかもしれない、そんな見送り方になってしまった。どうしようもない息苦しさを感じて、意識的に肺に空気を入れるが、吸っている空気が重い。湿気か、暑さか、己の内か。
鬱々とする気持ちを抱えて、俺は迷子のように歩いた。こんなに感情が乱されるのは久しぶりだった。大人になるにつれて感情を受け止めすぎないことに慣れてしまった。なのに、この感情は受け流せない。ちょっと前までは、永太の様子を見に行って「どうしたの?」なんて聞いてくれたら、解れて、悪感情なんて掬い上げられて、在りたい俺でいられたのに。今はそれすらできない。永太がいないと己の制御もできない未熟さを突き付けられているようだった。
濡れる縁側を歩いて、足の裏に感じる温い雨の感触と夏ならではの濃い土と緑の匂いを感じながら、雨に打たれる蔵が目に入る。
父さん、俺はどうすればいい? 永太の成長が喜ばしいし、世界が広がるのも嬉しかったはずなのに。俺がいつの間にか蓋をしていたみたいなんだ。あの二階の角部屋で、永太の世界が完結してしまっているみたいなんだ。
いつからだ。永太が俺を義兄ではなく、男として見始めたのは。わからない。今まで永太がくれたものが俺への愛故のことだったのなら。それはいつからだ。わからない。俺は永太の『兄ちゃん』に成れてなかったのか。自分だけが『兄ちゃん』に成れていたと勘違いして踊っていたというのか。まるで道化ではないか。いや、こんな中身のない、何かを演じないと生きられないような俺に永太が騙されているだけではないか。
そうでなければ――
「俺なんかを好きになるわけないじゃないか」
俺の独り言をかき消すように雷が響いた。
その夜、永太は夕餉に来なかった。三四から、疲れただけだから休むということが夕餉で皆に伝わった。心配だと言いながら、誰も様子を見に行くものは居ないのだろう。三四も仕事が終われば基本的に家族の時間だから、永太の部屋に上がるようなことはできない。俺は夕餉を早々に切り上げて、酒に誘われる前に自室に引っ込んだ。自分の部屋にない座卓を見て、そうか永太に貸しているんだったと思った。少しだけ広くなった部屋で、俺は畳の上に転がった。
息が詰まる。
俺がこの家に来たばかりのころなんて、永太がいない食事の席なんて当たり前だったのに、今ではただ苦しいだけの時間になってしまった。俺自身が7つも下の永太に甘え、依存している。こんなのは、よくない。『兄ちゃん』じゃない。
俺ももう寝てしまおうか。そう思って寝る準備を終えて、布団に入る。外では轟々と雨が降り、雷が鳴る中、体は疲れているのに頭がじりじりと覚醒していて眠りに落ちて行こうとしない。
俺は起き上がった。夜もとっくに更けてしまっている。明日は休みだが、それでも寝ていないとばててしまう。水でも飲もうと部屋を出て、階段に差し掛かったところで俺は立ち止まった。
永太の部屋の前で、しばらく立ち尽くす。寝付けない癖に頭はすでに寝ていたんだろうと思う。俺は静かに永太の部屋に入った。こちらに背を向けて寝ている永太の横に座って、そっと額に手を置いた。まだほんのり熱い。この年で知恵熱が出るほど、林の告白とその返事に心乱されたということに他ならない。実際、当事者じゃない俺が聞いていても重く苦しい時間だった。
俺は永太の額から手を離す。俺も腹を括らねばならない。俺から離れて行かねばならない。この安寧の場所を、手放さなければならない。そうじゃないと、いつか永太が壊れてしまう。
永太の寝顔を脳裏に焼き付けて、俺は自分の部屋に戻る。座卓がないので、棚の空いている場所に便箋を広げて、ペンをとった。
目から涙があふれて文字がゆがむ。あぁ、しんどいな。離れたくないな。俺が俺でいられる場所。怖いな。でも――俺は『兄ちゃん』だから。
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