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第38話 独占欲を隠して
今日は、林が家に来る日だった。また紀子が「平日に呼んだらお構いができない」と不満を漏らすが、むしろそれが狙いなのでどうしようもない。午前中に林に出す菓子を買いに行くと言うと、いくらか小遣いをくれて、西大橋の濡れ煎餅はどうかと紀子が言うので、場所がわからないと言うと、聡一が買いに行ってくれると言う。僕もついていきたいとわがままを言ったら、一瞬考えて、わかったと答えた。
4年前に綺麗になって帰ってきた自転車に聡一が乗り、後ろの荷台に跨って出発する。聡一の後ろ姿に抱き着きたくなる衝動を押さえながら、僕は荷台にしっかり捕まった。
「永太」
自分の前で自転車を漕いでいる聡一が不意に声をかけてくる。
「林君とは……その、仲良くやってるのか?」
意外な質問に僕は首を傾げた。
「うん、仲いいよ。どうしたの? 突然」
「いや……いいんなら、いいんだ」
なんだかとても歯切れが悪い。そういえば、林が最後に花村家にやってきたのはあの告白の日だし、林の名前を花村家で口に出したのは昨日が久しぶりか。話題にしばらく上らなかったから、そう思ったのだろうか。
「お前はすごいな」
「え? なに? なんて?」
「なんでもなーい」
聡一が意地悪くそういうので、僕はちぇっと口を尖らせた。
西大橋にあるという煎餅屋さんの前で、聡一は自転車を止めた。炭火で目の前で焼いてくれる煎餅の香ばしい香りがする。焼き目がついた煎餅を裏返し、きれいに焼き目がついたらはたれに漬け、紙に巻いて手渡してくれる。持ち帰りに不便だなって思ったら、聡一がその場で煎餅にかぶりついた。びっくりして僕が聡一を見ると、聡一は人差し指を唇に当ててにっこりと笑って見せた。大人になっても変わらないその姿に僕も笑って、もらった煎餅にかぶりつく。出来立ての濡れ煎餅は、まだ味が中まで入ってなかったが、たれの新鮮さと焼きあがったばかりの生地の何とも言えない香ばしくさっくりとした食感が口に広がった。これはおいしい。紀子はおいしいお店をたくさん知ってる。林が来るまでの間に冷めてしまうだろうけれど、きっとこれは冷えてもおいしい。
何枚か持ち帰り用に包んでもらって、僕はまた聡一の漕ぐ自転車の荷台に乗った。ただ、今回は煎餅を手で持っているので、体が安定しない。この自転車にはかごのようなものはついていないのだ。
「永太、ちゃんと捕まってろ」
「でも、手荷物があるから」
そういうと、聡一はうーんと考えてから、
「じゃ、片手で俺の肩につかまってろ。幾分かマシだろう」
「わかった」
僕は聡一の肩に手を置いて、驚いた。すごく張っている。仕事をすると肩も凝るだろうが、こんなに凝るものなのだろうか。
「すごい肩凝り……」
「ん? あぁ、やっぱり凝ってるか。運動できてないもんなぁ」
平然と言ってのける聡一に、体を動かして息抜きできる時間が無いのがかわいそうになった。
自転車は軽々と僕達を乗せて進んでいく。熱く湿った風も自転車に乗っていればそこまで気にならない。疲れがたまっている漕ぎ手の背中を見ながら、僕は何かしてあげられることはないかなとずっと思案していた。
「ねぇ、兄さん。今も体は鍛えてるんでしょ?」
「部屋でできるようなもんぐらいだよ」
「今度教えてよ」
「あぁ、今度な」
僕は、今の会話で寂しくなった。なんとなく距離を取られている。優しいのに、前ほどの親しさがどうしてか感じられない。これは先日から度々感じていたことだった。たまに出てくる聡一の屈託のない笑顔や態度に、気のせいだったらいいなと思いながら過ごしていたが、やはり何かが違う。どこがどうというのが言葉にならないが。
「兄さん」
「ん?」
呼んでも振り返ってくれない。自転車を漕いでるんだから仕方ないのかもしれないが、一緒に歩いていたら、きっとこっちを見てくれたのに。
「……なんでもない」
なんだよ、気になるじゃないか。記憶の中の聡一の声がする。目の前の本人は何も話してくれない。確信に変わる違和感に僕は涙が出そうになった。
* * * * *
林が来たのは、午後1時を回ったときだった。花村屋は卸問屋だが、店先に少し小物も売っている。なので大体の客は店先で声をかけてくる。林もそのうちの一人だった。
「お邪魔します」
にこやかに言ってくる林に、俺は席を立って母屋の方に案内した。林は知っているからいいと言ったが、俺は何も言わずに一緒に歩いた。
「恋敵に案内されるのは癪なんですけど」
林が声を低くして言ってくる。明らかに売られている喧嘩に俺は苦笑しながら、
「振られたのにまだ交流があって驚いているよ」
と答えた。林は一瞬俺をジト目で見たあとに、またにっこりと笑って見せた。
「永太は僕の愛を受け取ってくれてますよ」
「は?」
思わず声が出た。永太は承諾したのか? つまり付き合っている? と一瞬混乱したが、いや、先ほど俺のことを恋敵と言っていた言動と合わせると、そういうことではないのだろう。ただ、わざと紛らわしい言い方をされているだけだ。
「僕が愛を囁くと、真っ赤になって固まってたりね。とっても初心で可愛いですよ。見たことあります?」
本当かウソかわからない。なんて言えばいいかわからない。心がざわついてまとまらない。林の優越感に満ちた顔はまだ変わらず俺を見ている。その視線から逃れるように思考が逃げていく。
弟が目の前の友人に愛を語られている事実に確かに感じている不快感。いったいこいつは何を言っている。良い奴なのを知っているのに、なんでこんな嫌いになりそうなことを言われなきゃならない。心をかき乱してくるのかわからない。
――気に食わない。
わかっている。永太が好きなのは俺なんだろう? 目の前の男は俺が気に食わないだけだ。わざとじゃないにしろ、永太の好意を知ってしまったのにそのまま見て見ぬふりをしている俺が。わかっているんだ。
――鼻を明かしてやりたい。
林はすごいやつだ。振られても尚、永太がそばに置くことを許して認められている。それだけすごくて良い奴なんだってことはわかる。俺の弟は、人を見る目があるやつだから。
――こんなやつに負けたくない。
いや、本当は目の前のコイツは永太の優しさにつけこんでいるだけなのではないか?永太は努力家で、我慢強くて、こっちを気にかけて笑うような奴なんだ。なのにコイツときたら、真っ赤になって固まってる永太なんて見たことあるか、だと?
――永太を渡したくない。
「あぁ、裸見たら固まってたわ。前よりいい体してた。つまり、そういうこと?」
ぴしりと林の動きが止まったのを見て、俺は笑った。正面玄関を開けて、中に誘導する。林は俺を睨みつけながら、
「ここまでで結構です!」
と言って玄関に入っていった。閉められる玄関の戸を見て、俺はその場にしゃがみこんだ。夏の日差しが背中に突き刺さる。蝉の音が耳を覆いたくなるほどの大合唱で、まるで俺をあざ笑っているようだった。
「はは、かっこ悪……」
自分の中に確かに見つけてしまった、俺がありたい自分でいられるための存在を取られたくないと言う独占欲。7つも年下の男に対抗してやりたいと思う子供のような感情。理性を上回ってつい口から出てきた言葉を思い出して、俺は顔を覆った。
こんなの全然『兄ちゃん』じゃない。早くどうにかしないといけない。この感情の正体に行きついてしまう前に。
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