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第40話 勝負の行方
約束の3日後になり、僕は林の家に向かって歩いていた。燦々と降り注ぐ陽の光に、茹だるような暑さが加わって、少し歩くだけで息苦しさを感じる。陽が高い時間ということもあり、この時間に外を出歩いている人もほぼいない。暑い上に今日は特に荷物も多いので、より体が重く感じた。
林の家も今日の花村家同様、少しでも風を通そうと玄関のドアが開け放たれており、窓もすべて開いていた。あまり大きな声を出す気力がなかったので、正直有難かった。
「ごめんください」
声をかけても誰もいないのか、返事がない。おや?林の母親もいないとは珍しいと思いつつ、家の中を覗く。林の家族には信頼されているのか、いつでもあがっていいよとは言われているが、それでもやはり出迎えが無いのに入るのは気が引ける。
「林ー? はいるよー?」
声をかけても本人が出てくる気配もない。玄関で草履を脱いで揃え、廊下を歩いて林の部屋の前まで行く。それまでにある部屋も見える限り照明もついておらず、誰もいなかった。林の部屋を覗くと、座卓に頭をつけて寝ている林の姿が見える。普段座っている林の向かい側に荷物をおろして、林の隣に行く。
「おーい」
と言って肩を叩くと、林の頭がすっと持ち上がる。林の顔を見て僕は驚いた。目の下に明らかに疲れがたまっている。焦点がぼんやりとしていてすぐに瞼が落ちそうだった。
「もしかして徹夜したの?」
「……負けられない戦いがここにある」
「むしろ敗残兵にしか見えないよ」
林の本気度を見て恐ろしくなった。何が彼をそこまで駆り立てると言うのか。性欲か? 性欲なのか? とりあえず勝手で悪いが押し入れを開いて、眼前にあった敷布団を引き出した。座卓の隣に手早く敷いて、すぐに林のもとに戻る。
「林、布団敷いた。とりあえず寝よ」
「はは、一緒に?」
軽口が聞こえてくるが、林は全く移動しようとしない。僕は少し苛つくのを我慢して、問答無用で林の腕を自分の肩にかけて立たせようとする。それを林が「待って待って」と言うので、さらに腹が立ったが我慢して話を聞く。
「宿題、比べよう……」
林が頭をふらつかせながらそんなことを言うので、さっきまで枕のように林の顔の下にあった学習帳に目を向ける。僕は呆れ顔で林を見ながら苦々しく言う。
「林の勝ちだよ。いいから寝て。寝てる間に僕が追い付くから」
林は満足そうに笑って、布団に這っていった。そのまま枕に顔を埋めて動かなくなった。どうやら本当に限界だったらしい。静かになった部屋に、蝉の声が響く。あまり風も吹かないのか窓辺に下がる風鈴さえも奏でようとしない。外から来たばかりの自分には籠った熱がひどい。僕は自分の宿題よりも先に手荷物から水筒を取り出して麦茶を口に含んだ。林がいつ起きるかはわからないが、起きたらまずは説教からだ。こんな時期に徹夜なんかしていたら倒れてしまう。賭けどころじゃないだろうに。ため息をついて、僕は林の学習帳を持ち上げた。先日の最後の頁から辿って、大分無茶をしたらしい進行具合を見る。別に自分も怠惰に過ごしていたわけではない。いつもよりは何割か増しで進んではいたのだ。林の学習帳を閉じて、置く。
やってやろうじゃないか。徹夜なんて馬鹿やった奴に一泡吹かせるために、僕は鉛筆を握った。
林が起きたのは、林の母親が差し入れのおやつを運んできてくれたずいぶん後だった。夏なので夕方というにはちょっと早く、窓から西日が強まるような時間。寝ていたことに驚いたのか勢いよく上体を起こそうとしてまた布団に沈んだ林に、僕はうちわで風を送るのをやめて、大分前に出されたお茶に口をつけた。
「今、何時?」
「5時ぐらいかな」
寝起きで掠れた声で聞いてきた林に、僕は視線も送らずに答えた。しばらく林は黙っていた。まぁ、深く眠ったあとはすぐには立ち上がれないのはわかる。
「……ごめん」
「何に対してかな?」
謝罪を聞きながら、僕はお茶を座卓に置いた。片付けていなかった宿題を鞄にしまい始める。僕が身支度を整え始めたのに気付いて、林が視界の端でもぞもぞと動いているのがわかる。
「待たせてごめん」
「そういう謝罪は聞きたくないなぁ」
そう言って僕は荷物を抱えて立ち上がった。林が「待って待って」と言いながら這って布団から出てきて、僕の浴衣の裾を掴む。まるで縋るような林を見下ろす。
「……徹夜してごめん」
二個目にしてやっと出てきた謝罪を聞いて、僕は窓の外をみた。移動時間を考えると時間が足りないかもしれない。
「林、あとどれくらいで立てる?」
「……あともうちょい……でも、なんで?」
林が僕を見上げてくるので、僕は手に持っている風呂敷を見せた。
「行きたいんでしょ? 銭湯。閉まっちゃうよ」
林が一瞬ぽかんとした顔をして僕の顔見上げてくるので、流石に首がつかれるかと思って林の視線に合わせるようにしゃがみこむ。
「わざと賭けに負けたわけじゃないから。そこは勘違いしないでよ。ただ、勝っても負けても、銭湯ぐらい一緒に行けばいいかって思っただけ。ただ、家の風呂ばっかりだったから銭湯のことよく知らないし、ちゃんと教えてよ? あ、帰りが遅くなることは、林のお母さんがわざわざ連絡してくれたから、僕の家にも伝わってる。でも銭湯が閉まっちゃ意味ないでしょ」
僕の言葉を聞いて、林は体を丸めて畳の上で動かなくなった。くぐもって聞き取りづらい声で林が言う。
「……違う意味で勃ちそう」
置いて行こうかな、と僕は本気で考えた。
銭湯までの道を歩きながら、僕は林に説教をした。そして、林が眠っていた時間で僕も林の進捗に追いついた上、眠い頭でやった林の宿題は間違いが散見されたことを伝えると、林は肩を丸めてしゅんとしていた。
銭湯に入ると、すぐ下駄箱があり「履き間違えに注意」の立札がしてあった。正面には番頭さんが座っており、その後ろに女湯と男湯への暖簾を下げた戸がそれぞれ番頭を挟んで左右にあった。僕はまるで門番のようだなと思った。林が番頭に近づいて行って財布を出すので、僕もそれに倣って支払いをする。男湯と掲げられた戸を開けると、中は仕事帰りと思われる人がたくさんいた。身動きが取れないほどではないにしろ、やはり混み合う時間なのだろう。脱衣所には脱衣棚と竹籠が置いてあり、小さな鏡も壁に設置されていたが、誰も使っていないのかその前の床に誰かがひっぱりだした竹籠が放置されていた。林の先導で僕は脱衣棚の前に立った。脱衣籠の中で風呂敷を広げ、中の物を取り出してから浴衣を脱いだ。手ぬぐいと洗面器を持って浴場に入る。からりと滑りの良い戸をあけると、中から湿った熱気が押し寄せて全身の肌をなでる。壁に何個も蛇口がついており、その前に小さな風呂椅子が蛇口の数だけ置いてあった。
僕は林の隣に座って持参した洗面器と石鹸を使って体を洗っていく。林は約束通りなるべくこちらを見ないようにしていたように感じる。むしろ僕が勝手をわかってないせいで林を見てしまうのは申し訳なくなった。体を洗い終わって、家の湯船と比べると5つ分ぐらいは大きい湯に入る。お湯は少し熱めで、長く浸かるのは難しいかもしれない。
寝てない林には結構厳しい熱さなのではないだろうかと思って林を見る。いつもより口数が少ない林に、不自然さを感じる。僕は頭に手ぬぐいを乗せながら目をつぶっている林に小声で話しかけた。
「大丈夫?」
そうすると、林はやっとこちらの方を見たが、すぐに目を閉じてしまう。
「大丈夫」
「いや、大丈夫に見えないし。寝てないから体調悪くなった?」
林の短い返答に、僕は不安を覚えて聞いてしまう。林は少し顎を上げてから空を見るようにして目を開けた。そして静かに口を開いた。
「心を殺さないと、反応しそうで」
本当にどうしようもない返答で僕は閉口した。本当に心配して損した。
広い浴槽には他の利用者が数人入っているが、夏という季節もあってか、やはり長湯する人は少ない。むしろ体だけ洗って出ていってしまう人もいる。いろんな人が銭湯を利用しているが、大体の人が日に灼けて黒い肌の人が多く、その中で白い自分の体が少し恥ずかしかった。
「聡一さんってさ、花村よりもすごいの? 体」
突然林が話しかけてきた内容が内容だったので僕は少し返答に困ったが、静かに頷いた。すると林は、深いため息をついて、頭に乗せていた手ぬぐいを目に当て始めた。
「花村が体鍛え始めた理由がわかった気がするわ」
そう言う林に、僕は小さく「でしょ」と答えた。
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