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第41話 毒を浴して
生まれて初めての銭湯は、なんとも面白い体験だった。湯船に浸かっていると、あまり見ない顔だとか、肌が焼けてないだとか、とにかく知らないおじいちゃんに話しかけられた。体が茹りそうで上がろうとしているのに、とにかく話が長いので出るに出られず、ふと静かな林を見ると浴槽の端に頭を預けて寝始めていたので、慌てて叩き起こして浴槽から出た。
手拭いで体の水分を叩くようにとってから脱衣所に入ると、蒸し暑さが減って涼しさを感じた。僕達が来た時よりも、閉店時間も近いことから人が減っていたせいかもしれない。とにかく手早く着替えて脱衣所を出た。番台でラムネを注文して受け取る。草履を履いて銭湯の外にある縁台に二人並んで座ってラムネを開けた。ガラス玉を栓で押して、しばらくそのまま泡が引くのを待ち、喉を潤す。カエルの声を聴きながら、僕は夜風に吹かれて空を見た。
「林」
「ん?」
ラムネを飲みながら応える林に僕はまるでラムネで酔ったかのように自然と笑いながら言った。
「楽しい! ありがとう。提案してくれてよかった」
林がぽかんと口を開けて僕を見ていたが、僕はその時にはもう林を見ていなかった。ラムネ瓶の先に口をつけて空を見る。温いはずの夜風が火照った肌をなでるが、体の内側の方が熱くて涼しく感じる。その熱い体内を冷えたラムネが通って行って、さらに涼しい。のどではじける炭酸がまるで夏の夜空に浮かぶ星のように小さく瞬いて、心が躍る。
「なんか本当、久しぶりに楽しかった」
自分でも戸惑うぐらい気持ちが浮足立って、素直に気持ちを吐露していた。きっとこういうのが、一般的に言う羽目を外すということなんだろう。
何も言わない林をもう一度見ると、林は穏やかな顔をしていた。まるで慈しむような、愛でるような表情をしていて、僕は自分が無神経にはしゃいでしまったことを恥じた。自意識過剰と揶揄されるかもしれないが、こういうのを気を持たせる行為というのだろう。
あからさまに僕の態度が変わったのを見て、林は苦笑した。
「早く僕のところに落ちてくれば、楽になるよ」
林はいつも、軽口に乗せて僕に好意伝えてくる。それは甘い毒のようで、僕の心を蝕もうとしてくる。言葉一つひとつが僕の心を落とすことはない。今思うと、否定せずに受け取るという条件が罠だった。好意を受け取らないということができない。受け取ったものを捨てることができない自分はその罠にかかり続けるしかない。ただ、たまに心に積もった林の言葉が僕の中の何かを麻痺させる。根競べとは、よく言ったものだと苦笑する。
だから僕も、たまに林に毒を盛る。
「林が好きになってくれた僕は、兄さんのことが好きな僕だよ」
林の表情が一気に曇る。それを見ると僕の良心が痛むが、歪な関係が生んでしまった対価としては安いものだ。林は視線を逸らして苦々しく反論する。
「聡一さんを好きでない君がいない時点で、それについて肯定はできないよ。検証もできない」
「兄さんを好きじゃない僕なんて、僕じゃないさ」
気まずくお互い押し黙る。手に持った瓶の中身がなくなっても、僕達は縁台から立ち上がれずにいた。カエルの声に混ざって自転車の走る音が聞こえて、僕は音のする方を見た。自転車の明かりがちらついて目を細めるが、あれはたしかに聡一だった。
聡一が縁台の前で自転車を止めたので、僕は立ち上がった。
「兄さん!? どうしたの?」
「どうしたもあるか。迎えに来たんだよ」
聡一は僕の反応に少し呆れるような声を出した。林の方を見ると、顔に「邪魔」と書いてあった。さっきまで気まずい中座ってたのによく言うよ。いや、言ってはいないんだが。
「ほら、もう行こう。腹も減った頃だろう」
聡一が言うので、僕と林はお互い顔を見あった後、聡一に手に持っているラムネの空瓶を二人で掲げるように見せた。まぁ、炭酸で膨れた腹などすぐにしぼんでしまうが。
「なるほど、腹が減っているのは俺だけか」
と聡一は笑う。そうやって笑っている聡一は、僕の記憶の中の聡一と重なってほっとした。
聡一は、それでも諭すように言ってくる。
「もういい時間だ。これ以上遅くなると親御さんが心配する。行くぞ」
と言いながら自分は自転車を降りて押し始める。進む方向が家とは違う方向なので、僕は首を傾げた。
「兄さん。どこ行くの?」
聡一は振り返りながら呆れ顔でため息をついた。自転車を押しながら僕達のところへ戻ってきて、小さい声でだが真剣な面持ちで告げる。
「……お前たち、昔何があったかもう忘れたとか言わないよな? 林君の両親の気持ちも考えろ」
言われて気付く。中学校に上がって環境が変わり、遠い昔のことに感じていたが、まだあの事件の日から4年しか経っていない。林の両親は特に、林の身に何が起こったかもわかっている分、心配も一入だろう。林の方を見ると、罰が悪そうな顔をしていた。
僕らは、まだどうしようもなく子供なのだ――聡一から見ても。
「……林、行こう」
僕は肩掛け鞄と風呂敷を持って、まだ縁台に座る林を促す。林は頷いて立ち上がった。
道すがら他愛もない話をして、林の家まで歩いた。その間だけは、前と変わらない聡一の姿に確かに安堵しながら、この時間がずっと続けばいいと思った。林も僕の前では恋敵のように扱う聡一も、本人を前にするとまるで借りてきた猫のようにおとなしい。そういえば人前では上手くやるとか言ってたなぁと思い出して、林の徹底ぶりに脱帽した。
林の家に着いたら、林の母親が家の前で待っていた。こちらを見つけて、遠くから見ても明らかにほっとした様子の母親を見ると、少し申し訳ない気持ちになった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
家族の挨拶を見ながら、僕は林の母親に言った。
「すみません、遅くなりました」
「こちらこそ、こんな時間まで付き合わせちゃってごめんね」
林の母親が、思い出したと手を合わせて続ける。
「頂き物なんだけど、水ようかんちょっと持って行ってくれない? でも、荷物が増えるとアレかしら」
「大丈夫ですよ。私がいますから。でもいいんですか?」
すっかり仕事中の顔になってる聡一に、林の母親は笑いながら機嫌よく「もちろんよ」と言って家に入っていく。
「永太、荷物持ってるから、取りに行ってきてくれるか」
聡一の言葉に僕は風呂用具を包んだ風呂敷を自転車の荷台に乗せ、肩掛けカバンを聡一に手渡し、林家の玄関まで走っていった。
「いい体してました」
永太がいなくなるやいなや、まるで本性を現したかのように言ってくる林に、俺は思わず苦笑した。
やっぱりそれが目的か。珍しいとは思っていたのだ。永太が突然銭湯なんて言い出したから、何かあったんだろうと思っていたが、林が唆したのだろう。
「……俺に対抗しようとするなんて、随分と余裕が無いようで」
売り言葉に買い言葉。こんな姿は正直永太には見せられないが、とにかく鼻につくのだから仕方ない。
だが林からの追撃が来ず、俺は永太が入っていった玄関のドアから視線を林自身に向けた。林は真剣な目でこちらを見ていた。
「余裕なんて言ってられるわけないでしょう。こっちは振り向かせるのに必死なのに。貰えるのが当たり前だと思ってると、足元掬われますからね? 僕に」
永太に依存している自覚がある分、貰えるのが当たり前という林の言葉に、ぐうの音も出ない。
「俺はただ、永太に人並みの幸せを感じて欲しいだけだよ。あの子は幼少の頃、なんの自由もなく育ってきた。やっとあの子は自分の人生を歩み始めてる。それを、|俺の《こんな》ところで躓かせるわけにはいかないんだよ」
俺は正直に胸の内を言ったつもりだったが、林は呆れたように夜風に吹かれる前髪をかきあげた。
「自分は応えられないのに、願ってるのが他者に委ねる『人並みの幸せ』っていう時点で、大分利己的ですね。ま、それを貫き通して永太のことを考えるなら、やることはひとつだと思いますけど?」
やることは一つ。つまり、永太を諦めさせてやれということだ。7つも下の子供に正論を説かれて、俺はただ押し黙った。
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