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第42話 暴かれた激情
帰り道での聡一の貌は暗く、僕がいない間に林と何かあったんだろうことはわかったが、口を挟めるような雰囲気ではなかった。ただ無言で聡一の顔を盗み見るだけの時間は苦しく、別に会う約束はしていないが明日押しかけて林に詰め寄ろうと決めた。
帰宅して紀子に水ようかんを渡し、聡一とともに遅くなった夕餉を食べていると、利吉が「明日は休みだから」と聡一を酒に誘った。最初は仕事関係の話をしながら酒を注ぎ、注がれを繰り返し、だんだん利吉は饒舌になっていった。顔色が変わらないのに陽気そうな、あまり見たことのない父の姿だった。僕は珍しいものを見るように眺めていたが、紀子がそっと僕に近寄ってきて「長くなるから下がりなさい」と声をかけた。僕はまだ、愛想よく頷いて話す聡一の近くにいたかったが仕方ないので二人に声をかけて部屋に戻った。
階下から薄く聞こえる話し声に、まだ聡一は解放されていないのかと思うと可哀そうに思えた。僕は布団は敷いてあるものの、まだ寝ようと言う気も起きず借りてきた本を広げて読み進める。しかし目は滑って内容を読み取ることができず、頁をまた戻ってはを繰り替えし、自分の状態の悪さを痛感する。
気持ちが沈んで浮上してこない。帰り道の聡一の表情を思い出して苦しい。考えても仕方のないことを考え、思考が霧散し、何にも手がつかない。
ふと窓の向こうを見る。暗い夜空に薄く広がるようにかかる雲が明るい。僕は記憶の中の聡一に怒られながら窓を開けて空を見上げた。まるで雲がまとわりつかないようにと光を放っているような月がぽっかりと浮かんでいる。しばらくそれを見上げていたくて、桟に腰を掛け窓枠を背に座った。桟が当たって尻は痛いが気にもせず、ただ月が僕の心の靄も祓ってくれることを願った。昼間に蒸された空気が動いて肌にそっと触れていく。鈴が転がるような虫の声がそこかしこから聞こえてくるが、人の声はしなかった。
しばらくそのまま外の景色を見ていると、階段を登ってくる足音が聞こえてきた。僕は慌てて窓を閉めて襖の方を向く。何の声もかからずに襖がスッと開いた。顔色が変わってないのに、確実に酔っている顔をした聡一が立っていた。聡一は乾いた声で笑ってから、部屋の中に入って襖を閉めた。
「まだ寝てなかったのか」
畳に座る聡一に、僕は近寄った。聡一から香る酒の匂いがいつもより濃く、大分飲まされたらしいことがわかる。聡一は自嘲気味に笑いながら僕に話しかけてきた。
「そんな顔するなって、俺は大丈夫だから」
「大丈夫には見えないし……お水持ってこようか?」
心配する僕を尻目に、聡一は笑いながら手を振って要らないと言ってくる。酩酊しているわけではないが、正直座っているのもしんどそうな聡一を心配するなという方が難しい。
「兄さん、ちょっと横になろ?」
「いや、俺は――」
「いいから! 話は寝ながらでもできるでしょ!」
聡一の背中を押して自分の布団に誘導する。聡一は渋々布団の上に横になった。横になると寝間着の裾が少し乱れて足が見える。聡一がこちら向くと、そば殻の枕が音を立てた。タオル地毛布をそっとかけてあげると、聡一の顔が少し和らいでいた。ほらみろ、やっぱり無理してたじゃないか。ただ寝かしたはいいがもしかしたら聡一には少し暑かったかもしれない。僕は風邪をひきやすい体質だったから習慣的に夏でも綿の敷布団に麻のシーツを敷いて寝ていたが、一般的にみんなはい草の製品を使っていることの方が多い。僕はうちわを手に取って、聡一に仰いであげた。そういえば今日林のうちでもこんなことしていたな、と思うとちょっと笑いがこみあげた。
「どうした」
「ううん、何でもない。思い出し笑い」
聡一が聞いてくるが、僕は今日の帰り道のことを思い出して言葉を濁した。聡一が優しく微笑みながら「なんだよ、気になるな」って言ってきたもんだから、少し心が震えてしまう。記憶の中ではない聡一に僕も微笑みだけで返した。
「今日は、ずいぶん付き合わされたんだね」
僕がそう言うと聡一の顔がまた陰り、視線を逸らされた。どこに聡一の傷があるのかわからなくて、僕は最近余計なことしか言ってないのではないだろうかと不安になる。
「……酒の力でも借りなきゃ、言えそうになかった」
聡一がぽつりとそんなことを漏らすから、僕はそんなに言いづらいことを言われるのかと身構えた。僕の表情をみて、聡一がゆっくり体を起こす。僕がまだ寝てるように言って聡一の肩を押して戻そうとするが、聡一にその手を握られる。
「永太」
苦しそうに僕の名を呼ぶ聡一の目は、直視するには綺麗すぎて儚かった。深刻な雰囲気に、僕は何も言わずに聡一の言葉を待った。
「俺の、懺悔を聞いてくれるか」
聡一から飛び出た言葉に、僕は一瞬自分の耳を疑った。たまに子供のような悪戯心を見せることはあるが、基本的に曲がったことが嫌いで正義感あふれるこの男が何か罪を犯したとでも言うのだろうか。僕は静かに頷いて聡一の言葉を促す。
「ひと月前に、林君が家に来ただろう」
この前ではなく、ひと月前。林が家にくる機会はそんなにないので、僕は「あの日」のことだと思った。篠突く雨が降った、林から告白を受けたあの日。家族みんなは仕事だったはずだ。
「あの日の、会話を、俺は……」
だからあの告白を聡一が聞いているはずがない。
「立ち聞きするつもりはなかったんだ。ただ、本当にすまないと思っている」
どこから? どこまで? 僕たちはあの日どういう会話をしていた?
「永太」
聞きたくない。
「聞きたくない」
気付いたら言葉に出ていた。それでも尚聡一は口を開く。
「永太」
「聞きたくない!」
耳を塞ぎたくても両手はすでに聡一の手の中にある。僕は必死に顔を振るが聡一は願いを聞き届けてはくれない。何を言われるのかがわかる。僕は振られる。告白すらさせてもらえずに、振られてしまう。
「聞け、永太」
聡一の言葉一つひとつに僕の体は震えて、聡一を直視することもできずに目を閉じる。聞きたくない。怖い。嫌だ。お願いだから言わないで。
「お前が感じているのは、恋じゃない」
僕は目を開いた。頭が真っ白だ。
「お前の世界はまだ広がり始めたばかりで、まだ狭い。ずっと狭い世界の中で生きてきたせいで、一番仲が良かった俺にそんな『勘違い』をしているだけだ。もっといろんな人との付き合いが増えていけばきっとわかる。お前は俺のことがそういう意味で好きって話じゃないんだよ」
言葉がばらばらに崩れて聞こえる。振られるどころの話じゃなかった。僕の気持ちすら、まるで答案の間違いのように訂正されようとしている。何を根拠に? 聡一から示された僕の世界の狭さについては、正直ぐうの音も出ない。僕は社交性のある人間でもない。だって、必要がなかったから。僕の世界は聡一が全てだったから。そこを指摘されたら、言い返せない。
「幼いお前を構い倒してお前の世界に蓋をしたのは、俺だ。俺のせいでそうなっちまった。お前が悪いわけじゃない。だからこれは俺がちゃんと正さないといけない」
自ら籠もった世界だったのに、なんでも自分のせいにしようとする。相手のことを考えて、自分の非を探す。そうあるべきとして生きる見本みたいな人だから。
「ちゃんと、いい『兄ちゃん』をやってやれなくて、ごめん」
その最後の言葉に、僕の中の理性がちぎれる音がした。
僕は手首を返して聡一の手を振りほどき、逆に聡一の手首をつかみ返した。僕は怒っていた。僕の全てを否定した聡一の「兄ちゃん」という呪いに。
「さっきからずいぶんとひどい事を言うじゃない」
僕は口を開いた。見せてやろうじゃないか。聡一が狭いと言った世界で育った――――醜悪さ を。
「僕はずっとずっと嫌だったよ。その『兄ちゃん』っていうの。何度もそれを辞めさせるにはどうすればいいかって考えたさ。でも貴方が『兄ちゃん』に拘るから、貴方を尊重してずっと待ってた。でもそれが間違いだったんだね。『兄ちゃん』じゃない貴方を見せてもらえるのを待つんじゃなくて――」
僕は全身の力全部を使って、聡一を布団に組敷いた。
「――暴いて見るべきだったんだね」
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