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第44話 罪の余韻
眼下に眠る聡一の寝息を確認して、僕は自分のしでかしたことを後悔した。どこに7つ上の酔っぱらった義兄を襲う奴がいるんだ。ここだ、ここにいる。今すぐ起きて僕を絞め殺してくれないだろうか。いっそのこと聡一の手にかかって死ねるなら本望なんだが。いやダメだ、聡一を犯罪者にするわけにいかない。むしろ犯罪者は誰だ! 僕だ!
自己嫌悪と混乱の中、頭を抱えた。いや、こんなことをしていても意味がない。明日、とりあえず誠心誠意謝ろう。そして、きちんと、振られないといけない。ひと月前のこの部屋で林がしたように。
僕はもう一度、聡一を見下ろす。左の鎖骨と胸にひとつずつ、自分が印した罪の痕が見える。僕はそっと手拭いで聡一の体を拭いて、下履きと寝間着を整えた。聡一の腹にタオル地毛布を掛けて、蚊帳を吊るした。蚊帳の中の、隅の方に丸まって僕は寝た。きっとこうやって聡一のそばで眠るのは最後になるのだろう。敷布団でもない畳の感触を感じながら、僕は声を上げずに泣きながら眠りについた。
目を開けたとき、窓から明るい光が差し込んでいた。はっと起きたとき、僕は寝慣れた布団の上で寝ていた。蚊帳も降ろされており、そして、昨日すぐ側で寝ていたはずの聡一の姿はもう無く、先に起きた聡一に布団へ移動させられたという事実に、僕はまた落ち込んだ。朝一番に謝罪する機会をまず逃した。そして、自分を襲った相手を布団に移動させてくれる聡一の優しさにまた涙が出そうだった。
朝餉は、利吉が起きてこなかったことによっておにぎりだった。昨日どれだけ深酒したのだろうと思ったが、紀子の呆れ具合から相当だったのだろうなと思った。
僕の寝起きの顔は相当酷かったらしく、紀子に心配されたが、大丈夫と言うとそれ以上の追求は無かった。
昼前になっても聡一の姿は見えず、ふらりと出ていったまま戻ってきていないと紀子が言うので、明らかに避けられているのが分かった。もしかしたら、昼も家で食べないつもりなのかと聞くと、そこまでのことは聞いてないと言うので、僕はどうしようかと思案した。あまり人目があるときに話すような事でもない。
「……聡一と、何かありましたか?」
紀子が問いかけてくる。僕は泣き腫らして動かしづらい瞼を持ち上げて紀子を見る。
「ちょっと、僕がわがまま言いすぎたんです。大丈夫です」
そう言うと、紀子の目が僅かに見開いた。そんなに驚かれるぐらい珍しいことを言っただろうか。僕は紀子を見つめると、紀子は首を傾げる。
「聡一は――」
紀子が一度そこで言葉を切り、言うか言わないか迷ったようだが、また口を開いた。
「聡一は、自分がやらかしたのだと言っていましたよ」
その一言に、僕はまた涙が出そうになった。そして、紀子はどこか安心したように昼食のために準備を始めようとしていた。僕は昼食を食べる気力もわかず、僕はお昼は要らないと言って出かけようとすると、紀子に「喧嘩ぐらいで食べなくなるのはいけない」と口に煎餅と梅干しを突っ込まれた。と言っても今日も暑いからと塩分が過多ではないだろうか。水筒に水だけを入れて、僕は出かけた。今日は宿題も持たないので鞄も軽い。まだ昼時のためか食べ物屋の前は人がごった返しているが、それ以外のところはまだ人もまばらだ。暑い中、人も虫も元気よく動いている。まるで僕だけが違う時間を歩いているように心が静まり返って暗かった。
僕は当初の予定通り林の家に向かった。今からゆっくり向かえば、昼ご飯が終わったあたりで林を捕まえることができるだろう。もし出かける予定だったとしたらどこかで時間をつぶして出直す予定だ。約束をせずに林の家に行くことが初めてなので少し緊張するが、昨晩の聡一の様子を知るためには致し方ない。
昼時だというのに、林の家のは以前来た時と同じようにひっそりとしており、人の気配がしない。声をかけるかかけないか迷っていると、玄関から林本人がちょうど出てきた。僕が玄関の前に立っていたことに驚き、林が声を上げた。
「わっ! ひっどい顔」
開口一番あんまりな言い草である。でもその通り過ぎるので正直何も言えなかった。僕はあまり開かない目で林を睨みつけながら口を開く。
「……どこか出かける?」
「今その予定は無くなった。入る?」
よくわからないことを言うので訝し気に見つめると、林は肩を竦める。
「そんな顔している奴放って散歩になんて行かないよ。上がって」
そう言って玄関のドアを開け放ち、僕を家に招き入れる。僕は小さく「お邪魔します」と言って上がり込んだ。やはり林の家には林を除いて今は誰もいないようで、静かな廊下を歩いて林の部屋に入る。林は部屋に入ると窓を開けた。出かける予定だったので閉めていたのだろう。なんだか申し訳ないなと思いながらそれを見ていると、林は僕に「座ってて。今麦茶しかないけど」と言ってまた部屋を出て行った。一人残された部屋で僕は促されるまま定位置に座り、ただぼんやりとしていた。林が廊下を歩いてくる気配がしたので部屋の入口を見ると、林が湯呑を2つ持って入ってきた。「手盆で失礼」と言いながら僕の前に湯呑を差し出す。揺れる茶色い麦茶を眺めながら、僕は湯呑を両手で包むように握った。林が座卓を挟んで僕の前に座る。これがいつもの僕達の定位置だ。
「で? どうしたの? 遊びに来たっていう雰囲気じゃないけど」
僕は麦茶から視線を上げることができなかった。本人を目の前にして話をどう切り出すべきか迷う。そのまま黙していると、林は焦れたようにまた口を開く。
「今は誰もいないからどんな話しても大丈夫だよ。親父も母さんも仕事。……まぁ、母さんは夕方前には帰ってくるけどね」
「……お母さんもなんだ。いつもいらっしゃるから、お手伝いはされてないんだと思ってたよ」
「たまにね。仕事が忙しいときとかは、店番してるんだ」
会話をしても、僕は視線を上げられない。窓辺からりぃんと風鈴が鳴って風が入ってくる。物憂げな音が僕の耳に入って、涙腺を刺激した。目に溜まる涙を落とさないように堪えていると、僕の手に林が自身の手を重ねてくる。
「――聡一さんと何があったの」
その一言で、僕の目から涙が落ちた。泣いたらだめだ。とくに林の前では泣いてはいけない。歯を食いしばって次の一粒だけはこぼすまいと目を瞑った。落ち着くように自分に言い聞かせて、大きく息を吸う。
「昨日、ちょっとね。でもその話をする前に、林に聞かなきゃいけないことがある」
僕は林の目を見た。その目は真剣そのもので、僕はそれに応えるべく意を決した。
「……昨日の夜、兄さんと何を話したの」
りぃんとまた風鈴が鳴る。林は少しバツの悪そうな顔をしていた。やはり何かがあったらしい。この前も林と聡一が二人で話をしていて変な会話をしていたようだし、きっと今回も僕の話題だったのだろうという予測だけはしていた。一際大きく蝉の声が聞こえたとき、林は言った。
「聡一さんはなんて言ってたの? それによっては答えられない」
「何も。林から何かを言われたとは言われてないよ」
僕が答えると、林は少しほっとしたような顔をした。どうやら林は僕に言えないようなことを言ったらしい。僕が睨みつけても、林は涼しい顔で返してくる。
「で、聡一さんと何があったの?」
林の質問に、僕は自分の罪をどこまで伝えていいか迷った。いや、言う必要もないのかもしれない。僕はため息をついて、答えられる事実だけを単刀直入に伝えた。
「……告白する前に振られた」
口から出た言葉に、自分で傷ついて僕は机に突っ伏する。そのあと盛大にやらかしていることをはおくびにも出さない。あぁ夜が怖い。でも、謝らなくちゃいけない。その気持ちだけが心を支配して息苦しさを感じる。
「そうか……」
そう言う林の目に、罪悪感と名の影だけが落ちていた。
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