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第45話 後悔先に立たず

 ちゃんと泣いたのかと聞いてきた林に、この顔見てもまだ言うかと返すと、枯れるまで泣かないときついぞなんて言うものだから、僕は笑いながら涙をこぼした。林の前で泣くのは違うだろって言っても、言われた本人は苦笑しながら続けた。 羨ましいなぁ花村は。泣いてる顔も涙も綺麗なんだから。 何馬鹿なこと言ってんの。あと傷心中の奴を口説こうとするんじゃない。 振った後に仲良くしようって言ってきた張本人が言う台詞かよ。 ぐうの音も出ないや。 ……なぁ、悪手なのは分かってるんだけどさ。 『僕にしとけよ』なんて言わないでよ? えっ、じゃぁ、『僕にしとかない?』 変わんないから。 そろそろ干からびちゃいそうだよ。ちゃんと飲んで。 ありがとう。いただくね。 愛情たっぷり入れといたよ。 飲みづらくなるようなことなんで言うのさ。 昨日はちゃんと眠れたの? 眠れたよ。 花村は嘘つきだなぁ。疲れた顔してるよ。 徹夜した時の林ほどじゃないよ。 さ、そろそろすっきりしてきたんじゃない? うん、そうかも……いや、どうかな。 ちょっとだけでもいいから寝ていきなよ。 はは……眠れるかな。 一緒に寝る?……そんな目で見るなよ。可愛いな。 言ってろ。 ……ほら、眠そうだよ。布団敷こうか? いや……いいよ。 遠慮すんなって。僕の香りに包まれながら寝なよ。 寝かせたいの寝かせたくないのどっちなの。 強情だなぁ。んじゃ好きなところで寝な?……大丈夫だってなんにもしないから。 それを言わなければさぁ……。 寝たらちゃんと帰るんだよ。夕方には起こしてやるから。 ……ありがとう。林。 「……花村ー? 寝たー?」 林は小声で永太に話しかけた。座卓の上で自分の腕を枕にし、顔を横にして寝ている永太は小さな寝息を立てている。目尻に当たる前髪が涙に濡れて張り付いているので、そっと払ってやっても永太は起きなかった。 他愛もない話をしながら、とめどなく出てくる永太の涙を見せてもらえたことに林は感謝していた。 素直に泣けない人には、きちんと泣ける場所が必要だと思った。甘え方を知らない人には、甘えさせてあげられる人が必要だと思った。それが今永太にはないんだから、自分が代わりを務めるぐらいさせてもらいたかった。たとえ永太を傷つける元凶となった罪悪感からくるものだったとしても。 「ごめんな。僕が聡一さんを焚きつけたんだよ。でも……こんだけ泣いてもきっと諦めないんだろ? 僕はあと何回傷ついて泣く君を見て、何回君に振られることになるのかな」 ただの一人語りだ。自嘲しながら想い人の寝顔を見る。さっさと諦めて、自分のところに堕ちてくればいいと思っているのは紛れもない事実なのに。 ――「林が好きになってくれた僕は、兄さんのことが好きな僕だよ」 永太が昨日吐いた毒が、今でもじくじくと林の胸を蝕む。 「なぁ、諦めてほしいんだろ? だったら、幸せにならないとだめじゃないか……がんばれよ、永太」  中学2年の夏。永太が高校に進むかどうかも知らない。自分自身が進ませてもらえるかもわからない。あとどれくらいの間、永太の隣に立っていられるかもわからない。 隠し切れない寂しさが胸いっぱいに広がって、林は一人ごちる。 「僕が良い奴でいられるうちにさ」 りぃんとまた風鈴が風の訪れを知らせる。林は無駄だとわかっていながら、人差し指を口元にあてた。  林に起こされて目を覚ました時、枕にしていた手の感覚がなくなっていて驚いた。どうやら結構な時間を眠っていたらしい。林が僕の顔を見て、 「ははっ! ひっどい顔」 また笑った。泣けと言った張本人の言葉だとは思えない。腫れぼったい瞼を指で強くなぞりながら、僕は窓の外を見た。夕方よりも少し早いぐらいの時間だろうか。まだ蝉も元気に鳴いている。今帰れば夕餉には充分余裕をもって間に合う。 「そんなにひどい? 顔」 「うん。二枚目が台無しで野次が飛ぶぐらい」 「言い草がひどすぎる……」 僕はいつの間にか出されていた麦茶に口をつけた。ほろ苦い味が口内に広がって、幾分かすっきりする。寝たせいなのか、泣いたせいなのか、心が凪いでいる。それでも、怖い。聡一に会うのが怖い。 「帰りたくない」 ぽつりと弱音を吐くと、前に座っていた林が突然立ち上がって僕の横に座り始めた。僕の手の中から麦茶が入った湯呑を奪って、座卓の遠いところに置いた。何故そんなことするのかわからなくて林の顔を見ると、林は静かに怒っていた。  無言で僕の肩を掴んで引き寄せてきた。林の腕の中に抱かれながら、さっきまで痺れていてうまく力が入らない手で林を引き剥がそうとするが、それよりも早く林が僕の左首筋に顔を埋めた。 「ちょ、はや――! ぃっ!」 ちりりとした痛みを首に感じて、思わず声が漏れた。やがて林の腕の力が緩んで解放されると、林がこちらに指をさしてくる。 「次そんな弱音吐いたら、そんなもんじゃ済ませてやらんから」 「なっ! こ、こんな見えやすい場所、馬鹿じゃないの!?」 ついただろうと思われる口付けの痕を擦る。眠っていた頭は完璧に目覚めた。僕は部屋の中に鏡を探すが見つからない。僕の言葉に林はにっこりと笑った。 「目立たないところにやり直しましょうか?」 「~~~~~っ! 遠慮します!」 そう言って自分の荷物を持ち上げると、林も腰を上げて見送りに立った。 玄関で草履を履いて振り返って、背後に立っている林を見る。林は腕組みをしながら何かを思案していた。何を考えているのかわからないが、林が口を開くのを黙って待った。 「…………あのさ、昨日のことなんだけど」 林が言い訳をするような表情で口を開いた。 「売り言葉に買い言葉だった、ということだけはわかっててほしいんだ。ちょっと軽率だったとは……思ってる、し、売ったのは僕なんだけどさ」 ごめん、と最後に付け加える林に、僕は肩を竦めた。その謝罪は僕が好きな人に喧嘩を売ってしまったという僕に向けられた謝罪で、決して聡一に向けてのものではない。そして聡一に謝罪するつもりはきっとないのだろう。 どんな内容だったのかは結局分からずじまいだったが、言える範囲でこちらに応えようとしてくれた。これは溜飲を下げるしかなさそうだ。 「わかった。許すかどうかは置いといて」 そう返すと、林は苦笑した。僕も笑顔で返す。 「次は、4日後だっけ」 「別に明日でもどうぞ」 「言うと思ったよ」 僕はそう言って、玄関のドアノブを握った。林は外まで見送りに来てくれるつもりがあるのか、草履に足を入れた。ドアを開けて外に出ると、蒸し暑い空気に包まれる。肌を刺す日差しがまぶしくて、帰ったら汗だく必至だろう。 「じゃぁ」 「またね」 そう言葉をかけあって、僕は帰路についた。 空気は暑いのに、聡一に会うと思うと体の芯が冷える。謝ったところで許されることでもないし、ただの自己満足なのも重々承知だ。それでも、聡一のそばにいられなくなってしまうのではないかという恐怖が勝つ。僕が諦めさえすれば義兄と義弟のままでいられたのに、越えてはいけない線を跨いでしまった。 僕は左の首筋をなでた。不器用な叱咤激励もあったもんだ、と思いながら親友に背中を押されるように歩いた。

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