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第46話 恋慕焦がして

 家に着いた時には、まだ紀子は夕餉の支度をしていた。手伝うことはあるかと聞いてみたが、顔を洗ってこいと言われただけだった。余程ひどい顔らしい。 素直に顔を洗ってから台所に入り、台拭きをもらって居間の座敷机を拭いた。全員分の箸置きと箸を持ってそれぞれ持ち主がいつも座っている席に配置していく。僕が何の指示もなくできるすべてのことが終わってしまった。並べ終わったと声をかけようとまた台所に入ると、ちょうど勝手口が開いた。入ってきたのは聡一だった。  目が合う。一度逸らされた後、もう一度聡一が僕を見た。今度はなかなか視線がずれない。 「おかえりなさい」 「……ただいま」 僕が声を発すると、聡一が応じる。聡一の視線はまだ僕の目を捉えたままだった。聡一の感情を読み取れるだけの精神状態にないのか、ただ射貫かれるようなまっすぐな目に、僕の固い心臓にヒビが入りそうだった。浅くなりそうな呼吸を整えて、僕は言った。 「兄さん、あとで、時間をください」 聡一の目が一度しっかりと閉じられて、一呼吸おいてまた開かれた。 「わかった。風呂に入ったあとに部屋に行く」 「ありがとうございます」 僕が視線を下げると、聡一はやっと勝手口から動いた。土間から上がって、外の熱さを纏った聡一が僕の隣を通って歩いて行った。緊張が解けてふと紀子の方を見ると、紀子はこちらを見ていた。目が合うと、また夕餉の準備に戻っていく紀子の背中を見る。心配させてしまっているんだろうなぁ、と思うと少し後ろ暗い気持ちになり、風呂場の準備を申し出て台所を後にした。  夕餉では二日酔いが回復した利吉が聡一を酒に誘っていたが、紀子の「あなた」という一言と強い一瞥で閉口していた。さっきの聡一とのやり取りを気にしてくれたのかと思うと、ますます紀子には頭が上がらない。  風呂の順は利吉が最初に入り、僕は紀子の前なので最後から二番目になる。聡一の方が先になるので、僕はとにかく手早く済ませた。濡れた髪を手拭いで拭きながらふと目に入った鏡を見ると、左の首筋にくっきりと赤い痕がついていて、「林め……」と毒ついた。僕はそのまま手拭いを首にかけて脱衣所を出て、足早に階段を駆け上がり自分の部屋に入った。息を整えながら、汗が引くのを待った。  廊下を歩く音が聞こえる。こんな時でなければ心が躍る足音も、今はまるで処刑執行人のもののように感じる。 「永太、入るぞ」 「……はい」 僕の返事を待って、聡一が部屋の襖を開けた。寝間着をきっちりと着て背筋を伸ばした聡一は、まるで利吉のような印象を受けた。僕は首にかけていた手拭いを座卓の上に置いて、畳の上に正座をした。向かい合うように聡一が畳に座る。気まずい沈黙の中、うるさい心音に鎮まれと念じながら肺に空気を送り、両手を前についた。 「昨夜は……無体を働き、申し訳ありませんでした。謝って許されるとは思っておりません」 頭を深々と下げ、そして、そのまま続ける。 「でも、貴方のことを好きになってしまったことを、無かったことには……できません」 手が、声が、震える。聡一が今どんな顔をしているのか見えない。でも見るのも怖い。 「……どうか、ご容赦、ください」 長い沈黙が下りる。僕は、聡一が何も声を発さないので、そのまま土下座を続けた。どう謝ればいいかずっと考えていた。これが最善だとは思わない。例え最善の謝罪をしたとしても、許されるとも思っていない。ただ、謝罪する時間をくれた聡一の優しさに縋るしかなかった。 「俺も」 長い沈黙の後、聡一が口を開いた。 「永太の気持ちを蔑ろにしてしまい、申し訳ありませんでした」 衣擦れの音がして、僕は顔を上げた。聡一が手をついて頭を下げている。僕は慌てて聡一に近寄って、聡一の肩を掴んで体を起こそうと力を入れるが、聡一の体はびくともしない 「待って、待って、顔を上げて」 声をかけても、聡一は頭を上げようとしない。昨夜酒に酔っていたとはいえ、僕がこの男の体を組み敷けたのは夢だったのかと思うぐらい微動だにしない聡一の肩に僕は手を添えた。 「俺の都合で、お前に弟であることを強いようとした。俺がお前の兄でいる為に……それが、嫌がられているとは思ってなかったが」 苦笑しながら聡一が頭を上げた。聡一の口からそう言われると、僕の心も抉られた。確かに昨日そう言った。自分の意図とは別に捉えられている。 「そういう意味じゃない! 兄さんは兄さんでいいんだよ。でも、そうじゃなくて、『兄ちゃんだから』って辛いのも嫌なのも全部我慢してるのが、嫌だったんだよ!」 慌てて訂正するが、聡一は自嘲気味に笑うだけで僕の言葉は届かない。どうすればこの分からず屋に気持ちを伝えられるのか、納得してもらえるのか、考えても出てこない。 「ねぇ、僕に優しくしてくれたのは、全部『兄ちゃん』だからなの? 違うでしょ? 理一郎にも征二にもこんな風に優しくしてた? もっと言うなら、初めて会った林にだって、僕が大好きなあに様として接してたよ! それも全部僕の『兄ちゃん』だからなの!? 違うでしょ!」 聡一の肩の寝間着が皺になるぐらい掴んでも、聡一の表情は変わらない。 「永太」 優しい声音が響く。聡一が僕の肩に手を置いて、寂しそうに笑った。 「俺は、花村家を出るよ。義父さんにも、もう昨日伝えてある」 息が止まった。意味が分からなかった。 「俺の生家の方の伝手を頼って、遠方の鉄工所で働かせてもらえることになった。こちらの引継ぎが終わり次第、ここを出るよ」 ただ揺れる聡一の瞳が哀しげで、話が頭に入ってこなかった。聡一が瞬きして、やっと頭が動く。 「いつ……から、そんな、準備……」 「お前が、熱を出した日から」 僕が熱を出した日。それは、あの林から告白を受けた日。そして、聡一に僕の気持ちが知られてしまった日。聡一が、僕との距離を取り始めた日。全てに合点がいってしまう。別れの準備をされていたということに。 「そんなに、前から?」 「……あぁ」 重い肯定に、僕は俯いた。 「なんで……」 その問いに、答えは返ってこない。 「永太、もっと外を見ろ。友達も増やして、人に関われ。色んなものを見ろ。自由になれ」 自由になれ、俺から――そう言われているようだった。 「そんなの、望んでない」 「永太」 呼ばれて、顔を上げる。聡一の悲しそうな目が、唇が震えていた。 「……お前の気持ちは、受け取れない」 ――あぁ、言われてしまった。とうとう、言われてしまった。 僕は虚ろになった心に従って、視線を聡一から逸らした。もう見られなかった。縋り付いて泣いてしまいたかった。振られたら、縋り付いて泣きたくなってしまうことをやっと知った。――僕は知らないことばかりだ。 突然、僕の視界が動かされる。聡一に腕を引かれ、虚ろだった心が揺れ動く。しっかりと力強い手が僕の背に回って抱きしめられる。 どうして。 そう思った瞬間に、聡一が僕の首筋に嚙みついた。 「ぁぐっ!」 悲鳴が自分の口から漏れた。そして気付く、聡一が嚙みついた場所には、すでに痕があったはずだ。見つかってしまった。だが、見つかったからと言ってなんだと言うのだ。こんなことするなんて、まるで――。 聡一の口が僕の首から離れる。噛みついた本人の顔を見た瞬間、僕の目から涙がこぼれた。 「ずるい」 受け取れないって言った。 「嘘つき」 僕の言葉に、聡一の瞳から涙がこぼれ落ちた。 ゆっくりと僕が顔を近づけると、聡一はただ目を瞑った。聡一の唇はもう逃げようとはしなかった――。

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