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第47話 心託して
全部隠しておきたかった。隠しておくつもりだった。醜悪な感情も、執着も、依存も、認めなければ無いのと同じだ。俺が全部抱えて離れてしまえば、永太の世界は広がらざるを得ない。俺という蓋がいなくならないと、永太は羽を伸ばして飛んでいけない。「兄ちゃん」という張りぼての自分を嘘で塗り固めて生きてきた。嘘の上塗りをしたところで大したことなんかない。そう思っていたのに、もう少しでうまくいくはずだったのに。
――「貰えるのが当たり前だと思ってると、足元掬われますからね?」
永太の首筋に咲いている花弁に気付かされる。俺が離れても、永太は誰かの物になるだけで、永太の中で俺からアイツに挿げ替えられて、そうして生きていく可能性に。
臭いものと決めつけて蓋をしていた感情に溺れた瞬間、林に、永太に、俺自身に腹が立って、気が付けば永太の白い首筋に齧り付いた。
離れたくない。離れなくてはいけない。こんなに感情的に醜い自分になりたくなんかなかったのに。見せたくなんかなかったのに。7つも年下の男に、手玉に取られてあっけなく「兄ちゃん」でいられなくなった。
「ずるい」
そうだ。
「嘘つき」
そうだな。俺は、卑怯者だ。
そのあとは、二人して深く口付け合った。何度も、何度も。二人でべそべそ泣いて、抱き合って眠った。永太もわかっていたのだろう。俺が自分のことだけ考えて、気付いた恋慕に蓋をして、永太の気持ちも置いて行くことを。それでも執着して、アイツにだけは気持ちを寄せないで欲しいと思っていることも。こうやってくっついていられるのも今のうちだということも。
その次の日も、そのまた次の日も、何も言わずに二人で抱き合って眠った。
仕事の引継ぎについてあらかた済んだ頃、今度は引っ越し作業に追われるようになった。先に送るものと手荷物とを分けていく。たった8年住んでいただけの部屋に、ずいぶんと物が増えていた。捨てそびれた高校の教科書なんかはどうしようかと思って部屋の隅にまとめて置いていたら、いつの間にかなくなっていた。後日永太の部屋で見つけたとき、笑いながら「泥棒」と言ったら、永太はにっこりと笑った。
出発が3日後に迫った日、俺はいつも通り永太の部屋を訪れた。
「永太、これはもうお前が持ってるべきだ」
そう言って俺は懐から手拭いを取り出し、中に包まれていた鍵を見せた。俺が落ち込むたびに救ってくれたものの鍵だ。俺が出ていく以上、あの白い小物入れがあるところに揃えて置いておくのが道理だし、持ち主のもとへ返すべきだ。永太は物憂げにその鍵を見て、そっと受け取った。
「何もかも、置いてっちゃうんだね」
手拭いで手の中のそれを大事に包み直して、永太は言う。俺は何も言わずに永太の頭をわしゃわしゃとなでつけた。きれいな艶のある黒髪が揺れて乱れる。いつも嬉しそうにしていた永太が、この時ばかりは複雑そうな顔をしていた。そんな顔をさせてしまうのが自分なんだというのが、辛くもあり嬉しくもある。
「手紙、書くよ」
「盆と正月は帰ってくるぞ?」
「それでも、書くよ。あに様は、見かけによらず弱虫だから」
なんとか俺の心を繋ぎとめようと模索する弟に、俺は苦笑した。その気持ちだけで充分やっていける。大丈夫だから。俺のわがままなんか聞かなくていいから。お前はちゃんと俺から自由になれよ。どんな結果になっても、笑っていられるぐらい一人で強くなって見せるから――。
花村屋の面々には、とことん惜しまれた。逆に俺がいなくなった方があるべき姿だと思うが、皆優しいから口には出さない。理一郎の仕事ぶりは、やはり俺がいなくなると言うこともあってか余計に身が入るらしく、普段口を出さないところまで出すものだから、まぁしばらくやりづらいかもしれないがお互い慣れるだろうと思う。今年の春から働き始めた征二はしっかりと兄の背中を見ており、周りとの軋轢を生まないようにうまく立ち回っている。いつかきちんと征二が理一郎の手綱が握れるようになったら、花村屋は安泰だ。
利吉は相変わらず何を考えているのかわからないが、ぽつりと「一緒に飲める奴がいなくなるのは、寂しいな」と言った。「来年になったら、理一郎が飲めますよ」と言うと、利吉は「あいつは、ちょっとめんどくさそうだなぁ」とこぼしたのがおかしかった。血は争えない。充分あなたの酒は面倒だった、と思いながらも口には出さなかった。
俺が花村家を出ることについて、紀子が何も言わなかったのがむしろ驚きだった。
「だって貴方、ここが好きじゃなかったみたいだから」
なんてあっけらかんと言われた時はひっくり返りそうになった。「それでも、貴方が尽くそうとしてるのは、わかってましたよ」と言う母の言葉に、ちょっとだけ気持ちが漉いた。
理一郎と征二については、俺がいなくなるということに少し驚いてはいたようだが、「元気で」と言うだけでそれ以上のことはなかった。どうせまた顔は見ることになるからと、取るに足らないことのように扱われたのが逆に有難かった。
「よし」
出発当日の早朝、荷物の確認をして俺はぐるりと自分の部屋を見渡す。もぬけの殻というには物があるが、すっかり片付いた部屋を見て、俺は頷いた。膨らんだ重いリュックサックを背負ったところで、廊下を歩く足音が聞こえる。開け放たれている襖の向こうから永太の姿が現れた。永太は何も言わずに俺の部屋を見渡し、また寂しそうな顔をした。
無言でお互い見つめ合っていると、外から入るひと夏の生を叫ぶ蝉の声が部屋を満たした。
「……今日も暑そうだ」
なんと言えばいいかわからなくて、そんな他愛もないことを言ってしまった。永太は苦笑しながら「そうだね」と応えた。永太が指をもぞもぞと絡めながら俺を見るので、俺は仕方なく両手を広げる。永太は一瞬迷いながら、俺の胸に飛び込んできた。リュックサックがあるせいで背に回せない手が、俺の腰を抱く。俺はしっかりと永太の背を抱いた。
「元気で」
「あに様も」
短く言葉を交わして、名残惜しさを振り切って離れた。
永太が部屋の隅に移動して、置いてあった筒状の旅行用鞄を持ち上げた。
「重いぞ? 大丈夫か?」
「いつまで子ども扱いするのさ」
肩に担ぎながら永太は俺の物言いに笑った。そんな持ち方したらまた肩に痕をつけると思ったが、口には出さなかった。俺は永太に先に行くよう促したが、永太は肩を竦めて「大荷物の方がお先にどうぞ」と譲られた。苦笑しながら俺は廊下に出て、永太の部屋の前を通って階段を降りる。りぃんと、永太の部屋にかかっている風鈴が澄んだ音を出す。この音を聞くのもしばらくないのかと思うと、少し感慨深かった。
見送りには紀子と永太が来てくれた。紀子も花村屋の仕事があるのだからいいと言ったが、すっと鋭い目で「あなたは馬鹿なのですか?」と言うものだから素直に謝った。駅までの道を歩きながら、向こうについたら連絡をするように、体には気を付けろと、何度も言う紀子に、俺はその都度わかりましたと答えた。
駅にはすでに黒くて大きな汽車が止まっていた。盆の時期を過ぎた汽車は比較的空いており、三号車に乗り込んでも難なく席に座ることができた。
別れの時が近くなると、鼓動が少しずつ主張を始める。リュックサックをおろして、窓から永太が持ってくれていた旅行鞄を受け取る。
汽笛が鳴り、煙突から煙が吐き出された。
「では、行ってまいります」
「気を付けて」
声をかけても、永太は何も言わなかった。きゅっと結ばれた唇が最後まで開くことはなかった。がたんと動き始めた汽車を見て、永太の瞳から涙がこぼれたのが見えた。
窓から見る景色が速度を伴って流れていき、永太と紀子の姿はすぐに見えなくなってしまう。
途端に寂しくなった心細さを、受け取った旅行鞄を抱きしめることで慰めた。しばらくして、車掌が切符の検札に回り始めて、俺は旅行鞄を開いて切符を取り出そうと巾着袋を探した。車掌に切符を見せてからまた同じ場所に戻そうとしたが、旅行用鞄の中に見慣れない木箱が入っていることに気付いた。簡素な菓子箱のような形状のそれを取り出して紐を解き、中を覗く。
丁寧に折りたたまれた綺麗な手拭いの上に、黄みがかった薄紅色の珊瑚をあしらったバチ型かんざしが入っていた。
あぁ、やられた。俺は木箱に蓋をして、額に当てた。――これは、永太の心だ。受け取れないと言ったのに、持たされてしまった。自分の代わりに持って行けと、心だけ。
「やっぱ……敵わないわ」
どれだけ置いて行こうとしても、勝手についてくるんだから。絶対これは、俺の負けだ。永太から逃げられそうにもない。俺は笑いながら溢れる感情に涙をこぼした。
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