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第10話
律のことが気になってしまってなかなか寝つけない。寝返りを打ってはベッドサイドに置いてある無言の携帯を見上げた。
連絡をしようか。でもなんと言えばいいのだろう。ごめんね、もう伊吹とは話さないと言えば満足するのか。
でもせっかくできた友だちなのだ。律とは親友だが、だからといって交友関係を制限されるのは癪だ。
じゃあどうすればいいのだ、と振り出しに戻りぐるぐると回りってしまい月の位置がだんだんと傾いても止まらなかった。
「たっく、いい加減起きなさい!」
母親の怒声に飛び起きてベッドから転げ落ちると鬼の形相をした母親が犬歯を剝き出しにしていた。
「……律は?」
「しばらく朝は早く登校するって夜連絡きたの。あんた、りっくんになにしたの」
「別になにも。てか俺が悪いような言い方なんだよ。可愛い息子を信じないとか母親失格だぞ」
「だいたいあんたたちが喧嘩するときは千紘が悪いって相場が決まってるのよ」
幼少期からずっと見守ってくれてきた人の言葉は重い。ずしりと頭の重さが増した。
子どものときからどんなに喧嘩しても次の日まで持ち越したことはない。大抵律が先に折れて謝ってくれるのでそれにいつも便乗していた。
「いいからさっさと支度しない!」
尻を叩かれたので慌てて着替えて朝食を済ませた。いつも律は早めに来てくれるからゆっくりと過ごせるが、今日はそうもいかない。
両手で抱えられるだけ菓子パンを持って外へ飛び出した。一人の登校なんて初めてではないのに隣に律がいないだけで自分の半身を失ったようにバランスが悪い。左側の空白が存在の大きさを物語っているようだ。
そわそわと走っていると見知った後ろ姿をみつけた。
「おはよう、伊吹」
「おはーーって髪やば」
重力を無視して天を仰いでいる髪型を見て伊吹は目を丸くしている。
「乾かしてから寝ないとやばいんだよね」
「いつもそこまで酷くないだろ」
「いつもは律がーー」
言葉を中途半端なところで切った。律の顔を思いだすと胸が苦しくなる。
「なに、瀬名川と喧嘩してんの?」
「別にそういうわけじゃ」
「ま、オレはこっちの方が都合いいけど。パンもらうよ」
お気に入りのクリームパンを取られても取り返す気分にはなれなかった。
教室に着くと律は地蔵のように椅子に座っている。こっちを見てもくれない。
(このままじゃ嫌だ)
こんなに話さなかったのは初めてだ。たった二日で律がどれだけ大きな存在なのか痛感する。
朝食も登下校も律がいないと色を失った虹のように味気ない。
隣に律がいてくれないと安心できない。
自分を奮い立たせるためにこぶしを握り、律の席に近づいた。
「律……あのさ」
言い終わる前に律は席を立ち上がった。目も合わせてもらえず、隣を通り過ぎる彼からは拒絶の空気を感じる。
小学生のとき律から借りた消しゴムを折ってしまったときも、宿題を写させてもらったノートを麦茶で濡らしてしまったときも言い合いになったがすぐにいつも通りになれた。
律が次の日まで怒っているということは相当腹を立てているのだろう。
どうしてそこまで伊吹を敵視するのか理由がわからない。
話しかけても逃げられるならどうすればいいんだ。
けれど寝不足のせいで感情が制御できない。悲しみが怒りへと変わる。
(あの横柄な態度はなんだ。女子じゃないんだから無視ってダサいだろ)
マグマのような怒りが脳天から噴火した。
「莫迦!!」
律の背中を殴り、本鈴が鳴ったのも無視して教室を出た。途中担任に声をかけられたが無視をする。いまはそれどころではない。
頭が茹だち、律への怒りで視界が真っ赤に染まった。
どこへ行こう。もうこのまま帰ってしまおうか。どうせ両親は仕事でいないし、動画を見ながらお菓子を食べよう。
そう思うととてもいい考えな気がしてきた。鞄を取りに戻ろうと身体を反転させると髪を乱した律が立っていた。
「……なに?」
律は眉間に皺を寄せ、顎に梅干しをつくっている。いまにでも泣きそうな顔は初めて見た。
けれど苛立ちが抑えきれず、ぎろりと睨みつけて自分の方が立場が上なのだと誇示した。
「ちぃ、あの……」
「無視した!」
「ごめん」
「さすがに傷つく」
「本当ごめん」
「……莫迦」
律の学ランを引っ張って頭を預けた。ふんわりと香る律の匂い。いつも当たり前に隣にいて気づかなかった大切な存在。
(律がいないとダメみたいだ)
ちょっと無視されたくらいでまるで世界が崩れ落ちるような絶望感を味わった。もうこんな思いは二度としたくない。
「なんで無視したんだよ」
「別になにも、」
「ちゃんと言ってくれなきゃわからない!」
「……羽賀と仲良くするから」
「だからしょうがないって言ったろ。席も隣で家も近いし、サンピス仲間だし」
「わかってる。仕方がないって。でもちぃが他の誰かと仲良くしてるの見るとーー」
言葉を区切った律は学ランを掴んでいた千紘の手に自分のものを重ねた。大きくて日に焼けた手。なんでも手に入る魔法の手なのに不安げに震えている。
「胸が苦しい」
ぎゅっと強く掴まれた。顔を上げると律の肌のキメの細やかさがわかるほど近い。
(背伸びしたらキスできそう)
桜色の薄い唇がすぐそこにある。柔かそうだな。唇ってマシュマロの食感と似ているんだっけ。
「ちぃ?」
「あ、ごめん。違うこと考えてた」
「……こっちが真剣に話してるのに」
でもすぐ律は笑顔を取り戻す。そして寝癖だらけの毛先をくるりと指に絡ませて、うなじを撫でられた。
「でもちぃには俺がいないとダメみたいだね」
「そうだよ。ちゃんと朝起こしてくれないと」
「うん」
「寝癖も直せよ」
「わかった」
「一緒に帰ってくれないと寂しいよ」
「俺も一人で帰る道ってこんなにつまらないんだと初めて知ったよ」
「律のせいだからな」
「だからごめんって」
謝る律が可笑しくて何度も責めた。でもその度に怒りが消えていき、安堵に変わる。
安心したら涙が溢れてきた。
友だちとちょっと仲違いしただけで泣いちゃうなんてダサい。そう笑い飛ばそうとしたのに目尻に溜まった雫に唇を寄せられた。
マシュマロより柔らかい唇が目尻から頬へと移動する。唇まであと少しというところで離れてしまう。
「俺のフェロモン薄くなってる」
「フェロモン?」
「マーキングはしておかないとね」
「……意味がわからない」
「いいんだよ、ちぃはそのままで」
よく理解できなかったが律の清々しい笑顔を見られたからよしとするか。
「律も伊吹と仲良くすればいいじゃん」
「てかいつから名前呼び? そこも気に食わない」
「名前の方がいいんだって。律もそう呼べば?」
「それは却下」
「頭でっかちだな」
「羽賀はどうも好きになれない」
「アルファ同士なのに?」
「それは関係ない」
うだうだ言い始めたが律の本音が聞けてよかった。
前よりもずっと律との絆が深くなれたような気がする。
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