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第15話

 一週間が経ち、律はアメリカに旅立ってしまった。始業式までには帰って来ると言っていたが、こんなに長い間離れていたことがない。寂しさが少しずつ降り積もって息苦しくなる。  祖母の回復が予想以上に早く、母親も八月に入ってすぐ帰ってきた。  主婦業は卒業し、課題も終わらせてしまったいまなにもやることがない。  ベッドでゴロゴロと怠惰な時間を過ごしていると鬼の形相をした母親が部屋の扉をばんと開けた。  「あんた、いつまで寝てるの!?」  「だってやることないし」  「じゃあ外で遊んできなさい!」  「こんな炎天下で外に出たら死ぬだろ」  日中はサウナのように蒸し暑い。外に出たら熱中症になってしまう。  それに朝から高温注意報が出ているので不用意な外出は控えるようにと新婚の衣田アナウンサーが言っていた。  「いいからどっか行きなさい!」  「って言われてもな」  「図書館でも児童館でも色々あるでしょ!」  「中学生で児童館はやばいだろ」  「なんでもいいからどこか出かけなさい! あんたがいると部屋掃除できないの!」  沸点が振り切れている母親から逃れるように財布と携帯を持って家を飛び出した。  こういうときに部活をやっていないと暇をもて余してしまう。  涼しいし本もあるから時間つぶしにちょうどいい図書館に向かった。  途中でコンビニを見つけ涼むために入ると冷たい風が火照った身体を冷やしてくれる。ついでに飲み物を買おうと雑誌コーナーの前を通ると伊吹が立ち読みしていた。  「よ、伊吹」  「なんだ千紘か」  「なんだってなんだよ」  つっけんどんに返すと伊吹は口元を綻ばせた。笑ってくれたと胸を撫で下ろす。夏祭りのとき見かけた伊吹は異様な雰囲気だったので、どんな反応が返ってくるか内心どきどきしていた。  「彼女と待ち合わせ?」  「別れたよ。ただの暇つぶし」  「俺も」  「気が合うね」  二人で笑うとレジにいた店員がこちらをじろりと覗き、伊吹と目配せをして外を出た。  「律は?」  「アメリカ」  「まじで?」  本場の英語を学ぶために留学することを説明したら、伊吹は目を眇めた。  「ほんとあいつってお坊ちゃまだな」  「昔からそうだよ」  「同じアルファなのにこうも違うかね」  皮肉ともとれる伊吹の言葉になにも返せなかった。いろんな才能に恵まれている伊吹でさえ、家庭の事情で開花させられず歯痒い思いをしているのだろう。  コンビニ前の公園に移動して木陰になっているベンチに並んで座った。ほんの数分歩いただけなのに汗でびしょ濡れだ。そういえばコンビニで飲み物を買おうとしていたのに忘れていた。  「あっつ~死にそう」  「飲み物買ってくるよ。なにがいい?」  「なんでもいい。あ、金」  財布を出している間に伊吹は近くの自販機に向かい、すぐに戻って来た。手にはスポーツドリンクと炭酸飲料水の二本が握られている。  「どっちがいい?」  「じゃあスポドリ」  「そう言うと思った」  「よくわかるな~はい、お金」  「いいよ、こんくらい」  スマートなやり取りはやはり女の子慣れしている感があり、大人っぽい。  それに服装も凝っている。班目模様の黒い半袖シャツとスキニーが伊吹のスタイルの良さを最大限活かしている。髪も無造作にスタイリングされていて、学校とは雰囲気が全然違う。  炭酸を飲む喉仏をぼんやり眺めていると伊吹は「一口飲む?」と見当違いなことを訊いてきた。  「伊吹がモテるのわかる気がする」  「なにそれ」  「男の俺から見てもカッコいいもん」  「どこがよ」  「自販機で違う種類の飲み物買ってきて選ばせてくれた。私服がオシャレ」  「普通でしょ」  「それを普通って言うところが凡人の俺とは違うわ」  目をじっと見返して言うと伊吹は鼻で笑った。  「まぁオレの場合は手慣れてると言うのかね。遊び人というか」  「てかなんでそんなに彼女取っ替え引っ替えしてんの?」  「愛してくれるから」  真正面から見た伊吹の瞳は氷を張った水たまりのように澄んでいるけどなにも映していない。  このまま溶けていなくなってしまう気がして、伊吹の腕を掴むと驚くほど冷たかった。  「今度は千紘が愛してくれる?」  からかうような言葉なのにその目はとても真剣だった。  頭もよくて、運動もできて、女子にモテまくりの伊吹がこんななんの取り柄もない自分に縋っている。  なぜだか嬉しい。伊吹と初めて会ったときの違和感が名前もわからないままどんどん膨らんで自分の一番大事な部分になり替わろうとしている。  「オレ、ぶっちゃけ男もイケるよ」  耳元で囁かれた言葉に全身の産毛が逆立つ。  (威圧フェロモン出してるな)  アルファにはオメガを屈伏させる威圧フェロモンを発することができる。 ベータは感じないが、小さな棘にちくちく刺されるような空気を感じた。  伊吹にうなじを撫でられる。そこはいつも律が触れてくれる大切な場所。それなのに威圧フェロモンに当てられたせいで瞬き一つできない。  「なんてね」  伊吹はぱっと手を離し、いつも通りの笑顔に戻った。やっと深く呼吸ができる。  「冗談きついって」  「悪い悪い。つい、ね」  「ついで済まされるもんか」  「……でも男もイケるのは本当だよ」  また伊吹の表情に影が入る。置き去りにされた子どものような顔は千紘の良心を痛めさせるのには充分だった。  「うちの母親、番ーー父親がいないんだよ」  「亡くなったの?」  「どこの誰かわからねぇんだって」  伊吹の母親はオメガ専用の風俗で働いていたらしい。そこで夜毎にいろんな男と関係を持ち、伊吹を授かった。  「でも母親は女の前にオメガだ。アルファに依存しないと生きていけない。だからずっと男の尻を追いかけ回してる」  嫌悪を含んだ声は母親を軽蔑しているのだろう。オメガがアルファを求めるのは本能だ。わかっていても許せない部分があるのだろう。  本来なら母親から受けるはずだった愛情を女の子たちで埋めようとしているかのかもしれない。  目を奪うような宝石は実は低賃金で働かされる労働者のお陰であるような裏事情を知った後味の悪さが残る。  「なんでそれ俺に話すの?」  「わかんない。千紘ならいいかなって思って」  「なんだそれ」  「律には内緒だよ」  伊吹に小指を出されてどうしようか悩んだ。約束は律との絆を固くする大切な行為。それを他の誰かとしてもいいのだろうか。  でも、ここで約束しなかったら伊吹は不安になるかもしれない。  罪悪感が胸を掠めたが小指を差し出して伊吹のと絡めると安心したように微笑んでくれた。  家に帰ると律から『そっちはどう?』という簡潔なメッセージがきていた。  『元気。律は?』と返すと間髪いれずに着信が鳴った。  「もしもし?」  『ちぃ? いま平気?』  「大丈夫。急に電話きたからビックリした」  『声聞きたくなって』  顔が見えないけれどやはり律の声はいつもより抑揚がはっきりしている。アメリカの空気に浮かれているのかもしれない。  「そっちいま何時?」  『朝の五時過ぎ』  「そんな早起きして大丈夫?」  『ちぃと話したかったし』  やさしい声音にほっと息を吐く。なんだかいろんなことがあって疲れた心に律の声が染みる。  『伊吹と会った?』  「今日偶然コンビニで会ってちょっと話したけど」  『……あいつ』  なにやらぶつぶつと言い始めたが小声で聞き取りづらい。どことなく律の声音が変わった気がする。  「律?」  『なんでもない。またメッセージ送るよ』  「うん。体調には気をつけてね」  別れを告げて通話を切る。携帯がじんわりと熱い。律の体温にしては高すぎる。でもないよりましだとしばらく胸に抱いていた。

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