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第17話
新学期が始まってすぐ伊吹が転校することになった。女子たちは泣き崩れ、最後の日は全学年の女子と近隣の中学の女子まで押しかけるほどの人気っぷりだった。
けれどもそれは校門前だけに留まり、誰一人として家までついていこうとする子はいない。伊吹が頼んだのだろうか。
両手に抱えられた花束やプレゼントの紙袋や教科書の入った通学カバンを肩に下げる後ろ姿はどこか寂しそうに見える。
伊吹の家に行った以来メッセージも通話も無視していたが、勇気を振り絞って伊吹に声をかけた。
「よかったら持つよ」
「……ビックリした。もう話せないかと思った」
そう言っておどける伊吹は以前となにも変わらない態度で罪悪感が胸をかすめる。
「ごめん、ずっと返事できなくて」
「いいよ。オレが完全に悪い。どうかしてたわ」
伊吹は乱暴に前髪を掻きあげ、あの日のことを心から謝罪してくれている。
「律は?」
「担任と面談」
「さすが優等生」
澄んだ青空を見上げる伊吹はここじゃないどこかを求めているような横顔をしているように見える。
居場所を探し求める迷い子のような伊吹がこのまま消えてしまいそうで慌てて話題を変えた。
「てかこの前転校してきたばっかなのにもう転校すんの?」
「そう。母親が新しい男見つけたからね。今度は東京」
東京といえばビルや人がごちゃごちゃしていて埃っぽいのに先進的なイメージがある。きらびやかな人の多い街にいても伊吹は目立つだろう。
「四ヶ月くらいしかいなかったけど、いままでの人生のなかですごく濃い時間だったよ」
「そんなにこの街が気に入った?」
「千紘に会えたから」
どう返せばいいのかわからず立ち止まると先に進んだ伊吹が振り返る。
夏の終わりを告げる風が一陣吹き、伊吹の長い前髪を揺らした。露わになる亜麻色の瞳は泣き出す寸前のように細められる。でもすぐ元に戻った。
「髪、律に切ってもらってないの?」
「帰国してからも忙しいみたいで」
鎖骨まで伸びてしまった髪を撫でた。
律は帰ってきてから塾や習い事に忙しく、まともに顔を合わせられていない。
「最後に切ってやろうか」
「え、でも」
律が帰国したら切ってもらう約束をした。でも今朝担任に早く切るように指導されてしまったし、このままでは成績に響く。ただでさえ勉強ができないから生活面だけでも優等生でいたかった。
あっちこっち駆け回る律の背中を思い出し、首を縦に振った。
「……じゃあお願いしようかな」
「いいよ。じゃあいつもの公園で切るか」
荷物を一度家に置いくる伊吹を待っている間に百均でケープを買った。ハサミは伊吹が家から持ってきてくれた。
『オレ、男もイケるよ?』
冗談とも本気ともつかい言葉。愛に飢えていると言った寂しい人。どれだけたくさんの人から好意を寄せられても伊吹の乾いた心を潤せるには程遠く、もっともっとと愛を求めている欲しがりな男。
「どうして伊吹は満たされないんだろう」
ハサミの動きが止まり、背後の伊吹が息を呑んだ。数秒おいてからまたじょきじょきと切り始める。
「親からあんまり愛されなかったっていうドラマとかよくある話」
「でもさ、お母さん番作ってないんだろ?」
「そうだな。でもアルファの尻ばっか追いかけてるよ」
「もしかして伊吹のためじゃない?」
「オレの?」
振り返ると伊吹は信じられないものを見るような表情をしている。
「だってオメガはヒートがあるし、番がいた方が安定するって言うだろ。それなのにずっと番がいないのはお母さんのなかで伊吹の父親として相応しい人がいないからじゃない」
こんなのただの想像だ。伊吹の母親に会ったことすらないから人となりをなにも知らない。
でも家の様子からきちんと生活し、仕事をしているようだった。それに新しい男を見つけるたびにちゃんと伊吹を連れて行っている。
それって充分愛されているのではないか。
「ごめん、妄想だけど」
「そうだよ……オレの母親見たこともないくせに」
「こんなこと言われてウザいよな」
「いや」
一言区切ると伊吹に後ろから抱きしめられた。ふわりと香る柑橘系の匂いに心臓がざわざわと騒ぎ始める。
「母親のことちゃんと見たことなかった。ただの男好きのババァだと思ってたけど……千紘の言う通りかもしれない」
腕に力が込められる。切実な声に息が苦しくなった。
「母さんはヒートのたびにシェルターに行ってくれてた。オレがいると危ないもんな」
実の子どもといえど、アルファだったら否が応でも発情してしまう。伊吹に迷惑かけないようにしていたのだろう。
「仕事もいくつも掛け持ちして。ヒートもあって長期に休むからまともな職につけてないけど……食うものに困ったことはなかったな」
柔らかな毛先が襟足を擽り身を捩るとうなじにキスをされた。
「うわぁ!」
仰け反るとケープの溝に溜まっていた髪がふわりと舞って風に飛ばされていく。
「そんな反応しなくてもいいじゃん」
「伊吹が変なことするからだろ」
「ごめん、もうしない」
「油断できねぇな」
触れられてしまったうなじをごしごしと拭うと伊吹は悲しそうに笑った。
「あと少しで終わるよ」
「さっさとしてくれ」
もう一度背中を向けてケープを広げる。小気味よいハサミのリズム。蝉の鳴く声。走りすぎていく小学生のランドセルの音。
この当たり前の風景をもう伊吹と見られなくなるのは寂しい。
出会ってたったの四ヶ月。語れるほどたくさんの思い出があるわけでもない。
それでも伊吹と過ごした時間は雨上がりにかかる虹のようにきれいでいつまでも憶えていられるような確信があった。
「住む場所わかったら教えて」
「なんで?」
「また遊ぼうよ」
「千紘……」
「てかよく考えたら東京まで電車で一時間くらいだもんな。そんな遠くないし」
「ありがとう」
伊吹が泣いているような気がする。でもそれを拭うことはできない。
伊吹が泣き止むまで木漏れ日から覗く青空を見上げていた。
伊吹は元々器用らしく髪を切るのが上手い。マッシュヘアーという髪型にしてもらい垢ぬけたような気がする。
最後にもう一度別れを告げて、笑顔の伊吹に見送られながら家へ帰った。
とろとろ歩いていると家の前に律の姿があった。制服姿のままのところを見ると教師との面談が終わってすぐ来てくれたのだろう。
「ちぃーーってなにそれ?」
「なにが?」
近寄ってくる律は目くじらをたてている。またなにか怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。
そこで伊吹に髪を切ってもらったことを思い出し、咄嗟に頭を抱えた。
「美容院行ったの?」
「伊吹に……」
名前を言いかけて口を閉じると律は眉間の皺を深くさせた。
「だからそんなに伊吹の匂いさせてんの?」
「だって今日担任に早く髪切れって言われちゃったし……律も帰国してからバタバタしてたじゃん」
「でも約束しただろ」
「ごめん」
指切りまでして約束したのに自分で破ってしまった。もしかしてハリセンボンを飲まされてしまうのだろうか。
律の怒った顔が近づいてきてぎゅっと目を閉じる。もしかして殴られる? 身体を震わせていると首筋に律の固い毛先がちくりと刺さった。
「な、なに?」
「ここが一番匂いが強い。やっぱマーキングされてる。くそ、あいつ」
ぶつぶつと話す律の声が怖い。いままで聞いたことのない険のある言い方に体温が下がっていく。
「ねぇこんなに匂いが濃いってことは触られただけじゃないよね?」
うなじにキスをされたことを思い出し、顔が勝手に熱くなる。その反応を見て律はさらに眉間の皺を深くさせた。
「もしかしてキスされた、とか?」
伊吹の唇の熱が首筋に蘇り、耳まで熱い。
「……最悪」
「ごめん、だからーーんっ!」
白い八重歯を剥き出しにして首筋に噛みつかれた。肌に歯が刺さり痛い。ぐっと息を飲むとさらに力が込められ、皮膚を突き破り血の匂いが鼻をかすめる。
「こんな大事な場所、誰にも触らせないで」
律の唇のはしに血がついている。ずきずきと首が痛く、手で触れると歯並びがわかるほどくっきりとした歯型が残っていた。
アルファがオメガを番にするときにうなじを噛む。それと同じ行為をされた。
(こんなに切羽詰まった律を見るのは初めてだ)
唇についた血を手で拭ってやると律に頬を撫でられた。その表情はまだ硬い。鼻先をこすり合わせ、背伸びをして額をくっつけた。
「怒ってる?」
「それはもう伊吹を殴りたいくらい」
「ごめん」
「いいよ。俺も帰国してから時間なかったし」
汗ばんだ額をくっつける。なんだか身体がポカポカしてきた。
「もしかして熱ある?」
「わかんない」
「とりあえず家入ろう」
足元が覚束ないので律に腰を支えてもらいながら部屋に入った。
「着替えた方がいいよね」
「いい……とりあえずこのまま」
律の腕を引っ張ってベッドの上に押し倒した。目を白黒とさせる律は状況が読み込めないのか間抜け面だ。
(なんか可愛い)
律の首に額を擦り寄せる。肌と肌が触れ合って気持ちいい。ぐりぐり頭を擦りつけてると痛いよ、と怒られた。
「ねぇ、律はどうして俺にマーキングしてたの?」
「……気づいてたの?」
「いつから?」
唇を引き結んで答えようとしない律の頬を抓った。
「なんで教えてくれないの」
「ちぃに引かれたくない」
「伊吹に言われるまで全然気づかなかったんだよ」
伊吹の名前を出すと途端に律の表情が曇る。
ーーなんでいつも律のフェロモンまとわせてんの?
その答えを知りたい。もしかして律も同じ気持ちなんじゃないかと期待してしまう。
「きっと律の思っているようなことにならないよ」
じっと見つめるとようやく腹をくくったのか律は目元を赤くさせた。
「初めて会ったときからちぃのことが好き」
「え、そんな前から?」
初めて会ったのはお漏らし事件のときだ。予想よりも長い年月さに驚いてしまう。
「俺、実は小学校の受験失敗してんだ。両親の母校だからすごく期待されてたんだけどダメでさ」
そのときのことを思い出しているのか律の表情が翳った。
「両親はショックでまともに会話してもらえないまま引っ越して公立の学校に行って……そんなときちぃに出会ったんだ」
「小一でお漏らししたヤバい奴に?」
そう言うと律は笑った。
「あの日、泣いているちぃを助けたのはただの気まぐれなんだよ。でもちぃは笑ってくれた。ありがとうって言ってくれた。誰かに感謝されたのが初めてで、それだけで俺の世界が変わったんだ」
お漏らしをしてしまってもからかうことなく律はズボンを洗濯して、親に黙っててくれた。
(救われたのは俺の方だよ)
大人びた表情の裏側に大きな傷を抱えていたなんてちっとも気づかなかった。
律に手を握られる。ごつごつした大きな手のひらは努力した人の証のようにたくさんのまめがあった。
「生き方を教えてくれたのがちぃだ。だからそんなちぃのそばにずっといたい」
律の黒い瞳に力が漲る。どんな答えがきても絶対に揺るがないという意志が垣間見え、口元を綻ばせた。
「俺も律のこと好きだよ。気づいたの最近だけど」
心臓が忙しなく動く。まつ毛の本数まで数えられそうな距離感は恥ずかしいのにずっと見ていたいような気持ちにさせられる。
律の手がうなじを辿り、ピリッとした痛みに顔を顰めた。
「この痛み、忘れないでね」
「……うん」
「ちぃは魅力的だから心配だよ」
「こんな平凡なやつのどこが魅力あんだよ。それは律の方だろ」
「わかってないな」
律の目の色が真剣なものに変わる。
「キスしてもいい?」
「いいよ」
律が顔を寄せてきて唇を重ねた。柔らかくて甘い感触はすぐに離れていく。
「律のファーストキス奪っちゃった」
「それはちぃもでしょ」
照れを隠すように律は顔を背けたが耳が赤い。
「ずっとそばにいてね」
「今度こそ約束守るよ」
律と小指を絡ませて、指切りをした。
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