20 / 36
第20話
体育祭は十月中旬とは思えないほど暑く、記録的な夏日を更新した日に行われた。少し走るだけじんわりと汗をかくが、日陰にいれば涼しい風が入ってくるのでまだマシだ。
中学までとは違い、高校の競技レベルが高い。騎馬戦や台風の目、棒倒しなど授業で一切やっていない競技がここぞとはがりにお目見えしてルールも理解できぬまま駆り出される。
人数合わせとはいえ、迷惑にならないよう走ったり飛んだりして疲れた。
出番が終わり、テントを張った陣地からグラウンドを眺めていると律の姿が見えた。腕を伸ばし、入念にストレッチをしていると頭に巻いた黄緑色のはちまきが風でゆらゆらしている。
「次は組対抗リレーです」
放送に合わせてグラウンドの中心に各クラスの代表者が現れる。校舎が違うアルファの面々も現れて、校庭の温度が跳ね上がった。
「せーの、律くーん!」
普通科の女たちのかけ声に律は手を振って応えると黄色い絶叫が響いた。
甲高い声に頭がずきりと痛む。目を開けているのも辛くなってきて、椅子の背もたれに頭を預けて瞼を閉じた。
「具合い悪いの?」
目を開けるといつのまにか三吉が隣に座っていた。みんな応援に出払ってしまったらしくテントには三吉と二人だけだ。
「……頭痛い」
「病院行った?」
「行ってない。少し休んでれば治るし」
再び目を瞑ろうとすると三吉が顔を近づけてくるので驚いて椅子から落ちてしまった。
「な、なに?」
「瀬名川くんのフェロモンがすごい。付き合ってるんだ」
「えっと、それは」
「嘘ついてもフェロモンでわかるよ。ベータにはわからないから安心しな」
「そ、そうか」
「でもアルファには気づかれるだろうね」
グラウンドに視線を向ける三吉に釣られて顔をあげる。律と同じ黄緑色のハチマキを巻いた人はアルファのクラスだ。
「そんな匂う?」
「もうべったりと。すごく牽制されてるなって肌にビシビシ感じる」
一体フェロモンとはどういう仕組みなのだ。
「でも瀬名川くんのフェロモンとは別の匂いもする」
「どういうこと?」
「……この前保健室であげた薬効いた?」
「すげぇ効いた。あれ飲んで寝たら治ったよ」
三吉のアーモンド型の瞳がわずかに見開かれた。
「そう」
「メーカー教えてよ。帰りに薬局で買うから」
「あれはーー」
三吉の声がかき消されるくらいの歓声が響き、ぎょっとしてグラウンドを見ると見知らぬ男がクラスメイトを掻き分けてこちらに走ってきた。
「見つけた。行こう!」
「え、なに? ちょっと!」
いきなり腕を引っ張られてグラウンドを走らされた。周りからいいなーと歓声とも僻みとも受け取れる声を聞きながら、なぜ知らない男と手を繋いで走らされているのか意味がわからない。
そのままゴールテープを切り、よく知りもしない連中に囲われた。
「ありがとう! きみのお陰で一位だ」
「お題なんだったの?」
「お題?」
一体なんの話だ。首を傾げると男が説明してくれた。
「今年からクラス対抗リレーに借り物競争が加わったんだよ。俺のお題はこれ」
男が掲げた紙には「グレーの靴を履いた人」と書かれていた。確かに千紘はグレーのラインが入ったスポーツシューズを履いている。
「なかなか見つからないから心配だったけど、よかった。本当にありがとう!」
どんと背中を叩かれて前につんのめった。男は背が高く力が強いらしい。
よくよく見渡すと周りにいる人は黄緑色のはちまきを巻いていた。アルファ科だ。
(だからクラスの女子が悲鳴をあげていたのか)
具合いが悪いなか無理やり走らされたのでクラクラして気持ち悪い。立っているのも辛くてその場に座り込んでしまった。
「あれ? これって瀬名川の匂い?」
「なんでこの子からするの?」
アルファたちに見下ろされて、背中に嫌な汗が流れた。三吉の言う通りアルファにはわかってしまうらしい。
どう言い訳しようと頭をフル回転させたいのに頭痛が酷くてなにも考えられない。
「それよりなんか……甘い匂いしない?」
男の声に他の人たちもくんくんと鼻を鳴らす。
「確かに。蜂蜜みたいな」
そして一斉に視線を向けられ、全員の瞳孔が開ききってギラギラとしている。
さっきまでの和やかな雰囲気とは違う。獲物を前にした肉食獣のような剣幕に喉が鳴った。
(怖い)
頭痛はどんどん酷くなっていき、吐き気もする。その場で嘔吐しないように口を押えるので精一杯だった
「ちぃ!」
群衆の隙間を縫うように律の腕が伸びてきて抱きしめてくれた。慣れ親しんだ温もりにほっと息を吐く。
「……この匂い」
「匂い?」
さっきからみんななにを言っているのだろう。
「みんな離れて。ちぃはこれを着て」
周りをしっしと追いやった律は体操服を脱いで頭に被せられた。律の鍛え上げられた上半身が露わになり、事情を知らない一般生徒が歓声をあげる。
「な、なに?」
「保健室行こう」
鼻を押さえた律に促されて保健室へと連れて行かれた。
誰もいない廊下を進み、校庭の歓声がくぐもって響く。律に何度問いかけても口を引き結んで答えてくれない。
頭痛や倦怠感はあるけど、律のそばにいるとなぜか和らぐ。繋がれた手をぎゅっと握って上を向くと律は耳まで真っ赤にさせて、頭に被せられた体操服で顔を覆われてしまった。
「先生、簡易キットありますか?」
「どうしたの?」
「早く……キット。それと抑制剤」
隙間から目だけだすと保健室には養護教諭が待機していた。律はろくな説明をしていないのに保健医はすぐに理解したらしい。こちらを見て顔を青ざめている。
「ちょっと待ってね」
手早く準備している保健医をぼんやりと眺めているとようやく律と目が合った。
(さっきのアルファ科と同じ目をしてる)
ギラギラとした野獣の目は鋭く光る。その表情がいつもと違って怖い。居たたまれなくなって下を向いた。
「ここに座って指出して。ちょっとチクってするから」
人差し指を出し、ホチキスみたいな器具に挟まれてパチっと音のあとに指先から点とした血が出ている。
「じゃあこれ飲んで」
養護教諭に錠剤を渡されて飲んでいると律は別の色の錠剤を口に放っているのが横目で見えた。
「……これは」
「オメガですか?」
「簡易だからわからないけど、可能性が高いわ」
「オメガって……俺が?」
言葉が理解できず、思考がストップした。
「ちゃんと病院で調べてもらった方がいいわ。いま書類を書いてあげる」
いままでベータとして生きてきた。それなのに急にオメガに変異したと言われて「はい、そうですか」と納得できない。
これからどう生活が変わってしまうのか不安ばかりが雪みたいに積もってきて、息が苦しくなる。
でも、と一縷の望みが光を灯す。
じっと律の顔を見た。なにも感情が湧き上がってこない。
本当にオメガに変異していたら、律の運命の番だったらきっと冷静ではいられないだろう。心も身体もかき乱されて律を求めるに違いない。
それなのに自分の身体にはなんの変化もなかった。
(つまり俺は律の運命じゃない?)
いや、まだオメガと決まったわけではないし不安定なのかもしれないと自分を慰めた。
「用意できたわ。これを持ってすぐ病院に行きなさい」
「あ、はい……でも体育祭は」
いまは体育祭の途中だ。まだ出場する競技は残っている。
「そんな状態で出る方が危険よ。私の方から話しておくから早く帰りなさい」
「わかりました。そうします」
保健室を出て教室に荷物を取りに行く間、一定の距離を空けて律が付き添ってくれていた。
「じゃあ帰る」
「気をつけてね。わかったら連絡して」
「うん。面倒かけて悪い」
「面倒だなんて思ってないよ」
こんなときでも律はやさしい。第二次性が変異したと言われて事情が飲み込めないなりに冷静でいられるのは律が支えてくれているからだろう。
(律を好きになってよかったな)
顔をあげると律は眉間に皺を寄せた。
「フェロモン出てる」
「そ、そうなの?」
「抑制剤飲んでるはずなのにな。一応念の為」
律の顔が近づいたと思ったら首筋を強く吸われた。肌がざわざわする感覚に変な声が出そうになり必死で堪えた。
「俺のフェロモンで牽制したからしばらく大丈夫だよ」
「……ありがと」
襟足を撫でるとほんのり温かい。相変わらずフェロモンは感じないけれど律の想いが残っている気がする。
事前に連絡しておいた母親と途中で合流したが、突然のことで母親も悄然としている。
病院で血液検査をしてオメガという診断が出され、高齢の医者は淡々と説明をしてくれた。
「オメガに変異する場合何個か理由があります。まず元々オメガ因子があって、なんらかのキッカケでオメガになったとか」
「うちはみんなベータしかいなくて」
「では身近にアルファの方はいますか?」
「近所の幼馴染一家が」
母親が答えると「なるほど」と医者は頷く。
「幼少期からアルファのフェロモンを浴びてオメガに変異したかもしれませんね。十八歳まで第二次性が変わることは稀にあります」
「……そんな」
「抑制剤も発達してますし、ピルもあります。最初はヒートが不規則ですが、そのうち安定してきますよ」
「……はい」
「以前より法整備もされてて、オメガでも暮らしやすい世の中に変わってますから、そんなに悲観しなくて大丈夫ですよ」
医者の形式的な慰みの言葉に母親は頷くだけで、なにも救われていないだろう。自分も同じ気持ちだった。
帰り道、二人っきりになると母親は泣き出してしまった。
「ごめんね……オメガに、させてしまって。母さんのせいだ」
「なんで母さんのせいになるんだよ」
「ごめんなさい。ごめん、本当に」
顔を覆って泣きじゃくってしまうので周りの視線が痛い。母親の背中を擦りながら無意識に襟を伸ばす。
帰りがけに医者からネックガードを貰った。フェロモンにあてられたアルファに無理やり番にさせられないようにするためだ。
特に男のオメガは希少で狙われる確率は女よりも高いと釘を刺され、その言葉が余計に母親を追い詰めてしまったらしい。
家に着いてからも母親は泣くばかりで、早めに寝室に行くように勧めた。
医者の言う通り法整備はされ、ヒート休暇も取りやすいと聞く。だがその内実、差別や偏見はなくならず、オメガは人口が少ないということもあって生きづらい。
千紘の幸先を憐れんで母親は絶望に打ちひしがれてしまったのだろう。
いままで普通の道をなんの問題もなく生きてきて、急に後ろから突き飛ばされて奈落の底に落とされてしまったような絶望感に心を蝕まれる。
電気も点ける気にならず膝を抱えて座っていると携帯が震えた。液晶画面には律の名前。
「律と運命だといいな」
唯一の救いはそれだ。律と運命で繋がれていたら律の夢を叶えてあげられる。
通話ボタンを押した。
「もしもし」
『病院どうだった?』
「……オメガに変異してるって」
『そっか』
「ねぇ、いま外出られる?」
『大丈夫だけど』
「下で待ってて」
通話を切って玄関を出た。ちょうど律が家から出てくるところが見えて手を振る。
「ちぃ……」
ネックガードを付けた姿を見て、律の目がわずかに開いた。
(やっぱり気になるよな)
そっと撫でると鉄製の首輪はひんやりと冷たい。
「体調は?」
「平気。体育祭どうだった?」
「ちぃのクラスは学年で二位だったよ」
「てことは律のクラスが優勝か」
当たり障りのない会話をしていると昨日までと全然変わらない。そのことにほっと胸を撫でおろしつつ律を見上げた。
(……やっぱりなにも変化がない)
衝動的になにかしたいとか熱が上がるような情動がない。やっぱり運命じゃなかったのだ。
その事実が肩に重くのしかかる。
表情に出さないよう顔に力を入れた。
「話せてよかった。なんか安心した」
「ちぃがベータでもオメガでも変わらないよ。俺の大切なちぃのままだ」
「……よくそんな臭いセリフを言えるな」
「だって本当のことだし」
つんとすませる律の横顔を見て、態度が変わらないことが悲しいのだとは言えなかった。
ともだちにシェアしよう!

