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第28話

 頭のずきずきとした痛みで目が覚めた。視線を動かすと見慣れない白い部屋にいる。右腕はなぜかギブスで固定されていて、真新しい包帯が尋常ではない状況を伝えてくれていた。  「目が覚めましたか」  ベッドの脇には白衣を着た男が親しみやすそうな笑顔を浮かべている。目尻に皺を刻ませ、厚ぼったい唇がたらこのように見えた。  「初めまして。私は伊武と言います。ここは東都中央病院です。千紘さんが転んでガードレールに頭をぶつけて運ばれてきました」  そうだ。「運命の番」がいたから逃げ回っていた。だがうっかり足を滑らせ頭をぶつけてしまったことを思い出す。  「身体を支えきれず右腕は骨折、擦り傷や打撲もあります。頭はこぶ程度ですが、念の為あとでMRI検査もしましょう」  伊武は淡々と説明をして、タブレットになにかを書き込んでいる。あとから来た看護師は怪我の箇所を丁寧に教えてくれ、他に痛むところはないかと訊かれて首を振った。  ノック音がして目だけを向けると青ざめた両親が入ってきた。ミイラ男のような姿を見て、母親はわっと泣きだした。  「千紘……よかった、無事で。千紘」  母親に抱きしめられ傷が痛む。看護師が慌てて引き剥がそうとしてくれたが、母親の腕の力が強くされるがままだ。  「まったくこの子はいくつになっても落ち着きがないんだから」  「心配かけてごめん」  両親には迷惑をかけっぱなしだと頭を下げた。  「僕も入ってもいいですか?」  両親の後ろから顔を出した人物に目を瞠った。  「……伊吹」  「久しぶり、千紘」  バケットハットと黒いマスクを取った伊吹は再会を悦ぶように目を細めた。  (まさか、そんな)  身体の内側よりもっと奥ーー本能が再びわんわんと警鐘を鳴らし続けている。  「オメガに変異してるなんて知らなかった。なんで教えてくれなかったんだよ」  喉を絞められたように言葉が出てこない。この違和感は間違いなく「運命の番」だ。伊吹は表面上普通にしてくれているが、感じているはずだ。  看護師が伊吹を見てきゃっと黄色い悲鳴をあげた。  「もしかしてあの羽賀伊吹くん!?」  「どの羽賀伊吹かわかりませんが、最近ではテレビにも少し出させてもらってます」  羽賀が遠慮がちに笑うと看護師は握手を求めて伊武に怒られていた。  「倒れた千紘を羽賀さんが救急車を呼んで、ここまで付き添ってくださったのよ」  「本当ビックリしたんだから」  伊吹に手を握られる。嫌なのに緊張していた心が綻ぶような安心感も得られ、その二律背反する気持ちについていけない。  繋がれた手にさらに力が込められる。  「やっぱりそうだ……千紘は僕の運命の番です」  「おい! 急に、そんな」  「事実なんだからいいでしょ」  伊吹の取りつく島もない態度に焦りが募る。  母親は目を丸くしたまま固まってしまっていた。  「それは本当なの?」  「間違いありません」   伊吹の確信に満ちた言葉に母親はさらに困惑した表情を浮かべ、こちらを見やった。嘘ではないと示すように頷くと母親は眉をハの字にさせている。  千紘自身でもまだ飲み込めていないのに母親に理解しろというのは無理な話だ。  「すいません、ちょっと」  伊吹は慌てて病室を出て行った。外で話しているから電話がきたのかもしれない。  すぐに戻って来た伊吹は帽子とマスクをつけていた。  「仕事があるので戻ります」  「忙しいのにごめん」  「いいよ。明日も来るから。てか毎日来る」  「そこまでしなくても」  「番になるんだからこれぐらいさせて」  「運命の番」だが、必ず番になる必要はないのにまるで決定事項な言い方だ。  「だから別に番にはーー」  「じゃあ明日ね」  千紘が言う前に伊吹は病室を出て行ってしまった。  翌日にMRIで検査したが脳に異常はなく、一先ず安心した。  約束した通り伊吹は欠かさず毎日見舞いに来てくれる。でもどこから聞きつけたのか伊吹のファンが押し寄せ、外来はパニック状態らしい。  入院棟には関係者以外立ち入り禁止にしているため自分の生活は変わらない。看護師から教えてもらってもどこか異国の話を聞いているように現実感がなかった。  「今日の調子はどう?」  「そんな毎日変化はないよ。仕事は?」  「近くて撮影してたからちょっと抜けさせてもらってる」  砕けた笑顔に安心する。伊吹のそばにいると心地よくて、身を委ねたくなってしまいそうになり頭を振った。  律の顔が脳裏をよぎる。  別れているから浮気でもなんでもない。でも律が好きだという気持ちを裏切っているような行為に嫌気がさす。  でも突っぱねることもできない。やはり運命の番がそばにいてくれると気持ちが安定する。子どものときお気に入りだった毛布にくるまれているような心地よさを手放したいのに手放せない。  本能と理性が常にせめぎ合っていた。  「柳さん、診察の時間ですよ」  「伊吹、ちょっと待ってて」  「いってらっしゃい」  伊吹に見送られ、診察室へと向かう。出迎えてくれた伊武は相変わらず人好きのする笑顔だ。アルファらしいが威圧的な態度もせず、一貫して紳士的で好感が持てる。  「今日は千紘さんに紹介したい人がいるんです」  そう前置きされて身構えた。  伊武は日本で第二次性を研究している第一人者で海外に研究チームを持っていたり、学会を開いて論文を発表したりと高い評価を得ているらしい。特に抑制剤の開発に力を入れ、千紘のように薬の効かない人のために力を注いでくれている。  普段は人気で予約が取れないらしいが(こう訊くと美容師みたいと言ったら三吉に怒られた)千紘が薬の効かない数少ないオメガだから優先して診てもらえる。  そんな伊武が会わせたい人とは誰だろうか。こぶしをぎゅっと握っていると奥の扉から出てきた人物に言葉を失った。  「……律、どうして」  「ちぃ?」  「おや、お二人はお知り合いでしたか?」  「幼馴染で」  伊武は皺の溜まった目元をさらに下げた。  「では久しぶりの再会でしょうから下でゆっくり話してきなさい」  律は笑顔を向けて伊武に一礼をして、休憩スペースに移動した。右腕のギブスを見て、律は辛そうに眉を寄せる。  「骨折れてるんだって?」  「そう。転んじゃってさ」  「ちぃはあわてんぼうだからな」  自販機で買ったペットボトルの蓋をさり気なく開けてから渡してくれ、その気遣いが嬉しい。  やってあげるよという善意の押しつけでなく、距離感を図りながら手を貸してくれるのが律との長い時間をかけて築き上げた関係なのだとわかる。  「アメリカにいたんじゃないの?」  「向こうは夏休みだよ。でも課題も結構あって、そのために伊武先生の元で研究しようと思って一時帰国したんだ」  「言ってくれたら迎えに行ったのに」  「驚かせようと思ったんだよ」  「なんだよそのサプライズ」  揶揄うと律は笑った。  思っていたより普通に話せている。別れてすぐの高校時代は会話一つにも緊張感があったのに、いまは昔のようにゆったりとできる。  時間の流れを感じた。  「伊武先生ってそんなにすごいの?」  「昔は抑制剤って一種類しかなかったんだけど、成分の量とか種類とか少しずつ変えて色んな人に合うようにたくさんの種類を作ったんだよ」  「すごいな」  恵比寿様のような人が血の滲むような努力を積み重ねてきたのか。律が憧れるのもわかる気がする。  「てか律が抑制剤の研究してるって知らなかったんだけど」  「言うと重荷になるかなって」  「つまりは俺のため?」  律は小さく頷いた。友人となっても自分のことを考えてくれていた。  だけど全然嬉しくない。  「俺はそんなこと望んでない!」  バンとテーブルを叩くと蓋を締めきれなかったペットボトルが倒れてジュースを零した。  「律にはずっと好きなことをしてて欲しい。自分が望むことを望むままに生きて欲しいんだよ」  「でもこれはーー」  「千紘」  振り返ると伊吹が立っていた。千紘が病室に戻らないから探しに来てくれたのだろう。  「久しぶり律。アメリカにいたんじゃないの?」  感情をなくしたような伊吹の表情にぞくりと背筋が震えた。  アルファの威圧。  喉を締めつけられたように苦しい。首を押さえてその場に蹲ると律が背中を撫でてくれた。  「威圧フェロモン出すのやめろ。ちぃが苦しんでる」  「千紘に近づくな!」  伊吹に蹴飛ばされ、律は床に倒れた。周りからきゃっと悲鳴があがり、子どもを抱えて出て行く人もいる。  「オレと千紘は運命で繋がってるんだ」  「運命? なんのことだ?」  にやりと不適な笑みを浮かべる伊吹に抱えあげられた。まだ苦しい。このままでは窒息してしまう。  手を伸ばして伊吹の頬を撫でた。美しい顔が怒りで歪められている。  「伊吹……ごめん」  「……オレもごめん。苦しいよね」  ふっとフェロモンが止んだ。やっとまともに息が吸える。二、三度と深呼吸を繰り返すと酸素が全身に巡り、意識がはっきりとした。  背中を撫でてくれる伊吹はいつもの顔に戻り、何度もごめんねと繰り返した。  「そういえば律も運命の番に会ったんだろ? お互いいい伴侶に巡り会えてよかったな」  「どういうこと?」  伊吹と律を交互に見やる。律ははっとした表情のまま固まってしまっていた。  伊吹の携帯で見させられた画面を呆然とみつめた。  芸能人に疎い自分でも知っている有名な女優と律が二人で食事を楽しんでいるところやホテルに入る写真も載っている記事だ。  見出しには『オメガ女優、運命の番と出会う』と太文字で書かれている。  「これ……本当なの?」  縋るような情けない声が出てしまった。嘘だと言って欲しいと感情が隠し切れない。  律は目を反らさずに口を開いた。  「事実だよ」  頭を金槌で殴られた気分だ。  なにが律と見合わないから別れるだ。  なにが見合うように努力するだ。  そんな独りよがりをして酔いしれている間に律は運命の番と出会っていて、幸せに暮らしていた。  世界の色を失ってしまったように目の前の律の表情がわからない。絞り出すようにそっかと返すだけで精一杯だった。  「お幸せに」  伊吹は律にそう残して連れて出してくれた。律はなにも言ってくれなかった。  ベッドに座らせられ布団をかけてもらっている間もさっきのことが頭から離れない。  (いつから? どこで出会ったの? なんで俺に言ってくれなかったの?)  今更どうしようもない疑問が湧き出てきて頭の中を埋め尽くす。ぎゅうぎゅうに詰められた綿の人形のように脳が破裂してしまいそうだ。  「伊吹は知ってたの?」  「ネットで結構話題になってたし、オレも一応芸能人だからね」  「そっか」  知らなかったのは自分だけということか。  一人で思いあがって莫迦みたいだ。  「退院は明日できそう?」  「うん。大丈夫みたい。午前中に手続きして欲しいって」  「午前中なら空くから行けるかも」  携帯で予定を確認した伊吹の言葉に驚いた。  「明日も来るの?」  「当然。だってオレの家、知らないでしょ?」  「……伊吹の家になんで行くの?」  「明日から一緒に住むんだから当然でしょ」  あっけらかんとした言葉にますます混乱する。いつのまに伊吹と同棲する話なんてあがったんだろう。  「だって一人で耐えるの辛いと思うよ」  「利き腕が使えなくてもなんとかなる」  「律のこと」  耳の奥がきんと痛む。  律に失恋したんだという事実が重くのしかかり、ベッドに深く沈んでそのまま地面にめりこんでしまいそうだ。  「オレがそばにいれば安心するよ。ほら、サンピスの話もできるし」  「それは魅力的な誘い文句だな」  「でしょ。一緒に住もうよ」  「うん」  頷くと伊吹は白い歯を見せた。芽が息吹き、一輪の美しい花をさかせたような笑顔を無感動に眺めた。

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