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第30話

 退院した次の日から大学に通うことにした。  伊吹の家からバス一本で行けるので自宅より近くて楽だ。  でも乗車するときにタッチするICカードやつり革が右側にある。ギブスで右腕は固定されてしまっているので身体をねじらなければならず、左利きの苦労を痛感した。  手すりに捕まり、押しつぶされないように右腕を身体の方に寄せているとちょんと袖を引っ張られた。  「おはよう、ちぃ」  「律?」  「まさか同じバスに乗ってるとは思わなかった。これから大学?」  「そう。律は?」  「俺は病院に行くところ」  律はわざわざ移動して右側に立ってくれ、ギブスがぶつからないようにカバーしてくれた。  律のやさしさが辛い。  でもおくびにも出さないように頬に力をいれた。  「この沿線に住んでんの?」  「いや、マンションは病院近くで借りてるんだけど今日は別のとこから来て」  バスの発着駅は渋谷だ。こんな朝早くにいるということはどこかに泊まって帰ってきたのだろう。  あの女優の顔が浮かんだ。  「ちぃは伊吹のとこから?」  「そう」  「大切にされているようでよかった」  律の笑顔がまともに見られない。もうちょっと悔しがったりしてくれてもいいじゃないか。なんでそんな爽やかな笑顔作れるんだよ。  言いたいことを全部飲み込み過ぎて吐き気がしてくる。  バスが病院の名前を告げ、降りる律に手を振った。  未練タラタラな自分を乗せて、バスは滑らかに走り出していく。  休んでいた間のプリントをもらいに研究室を回っていたが、どうしても見つからない教授がいた。  しかも試験内容が厳しい必須の科目だ。ゼミの先輩曰く、構内にはいるらしいがどこを探しても見当たらない。  キャンパス内をうろうろしていると同じ学科のグループに出くわした。よ男女混合のグループで、講義が被ると会釈を交わす程度だ。  普段だったら逃げていた。他人に関わるのは怖い。でも自分を変えるために上京してきたのだ。例え律とは結ばれなくても、それだけはちゃんとしたい。  勇気を出してその集団に近づいた。  「あのさ、先週の教育方法論のプリント、コピーさせてもらえない?」  「その腕どうしたの?」  「ちょっと事故っちゃって」  「利き手だよね。講義でノート取るときどうしてるの?」  「えっと、それは」  矢継ぎ早に質問を重ねられて戸惑いながらも一つずつ丁寧に答えると向こうは憐れむような目をした。  「それなら一緒に受けよう。ノート取ってあげる。あと休んでた分のプリントもコピーしていいよ」  「ありがとう!」  勇気を出してよかった。逃げていたときは悪い方へと考えてなかなか一歩が踏み出せなかったが、最初の一歩さえいければあとはどうとでもなる。  (失恋の傷もそうやって消えていくのかな)  伊吹とちゃんと向き合おう。友だちとして波長が合うなら番としてもやっていけるかもしれない。  そう思うと少しだけ前向きになれたような気がした。

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