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第32話

 ヒートがきていないことを伊武に話すとやはり三吉と同じことを言われた。医者に言われると緊張感が高まる。  「フェロモンの数値を計測してもいいですか?」  「はい」  スマートフォンみたいな機械の先端から小さな注射針が出ていて、そこに人差し指を挟む。ちくっとした痛みのあとに小さな赤い血が出てきた。  「四十ですか。一応基準値内ですが低いですね」  「低いと身体に悪いってことですか?」  「フェロモンの量が少ないってことなのであまりいい状態とは言えないです」  伊武の表情からいまはギリギリのラインを辿っているのがわかった。自分のことなのにどこか他人事のように思えるのはこれといった不調を感じていないからだろう。  「確か運命の番に出会えたんですよね?」  「はい。いま一緒に住んでいます」  「普通運命に出会えたら必然的にヒートがくるんです。でもこの数値はひょっとして……」   そこでいったん言葉を区切った伊武はパソコンの画面に向き合った。  「ヒート促進剤というものもあります。念のために処方しておきますね。なにか異変があったらすぐに来てください」  「よろしくお願いします」  薬を貰い、ぼんやりと中庭を歩いた。季節は夏真っ盛りであまりの暑さに中庭には誰もいない。蝉すら鳴いていない灼熱のなかを歩き、木陰になっているベンチに腰掛けた。  処方箋と書かれた紙袋を見下ろし、小さく息を吐く。  ヒート促進剤はその名前の通り、強制的にヒートを起こさせる。だが副作用もあり、眩暈や頭痛、倦怠感などの不調をきたすらしい。  でもヒートがこないと命に関わると脅され、どちらかを選ぶなら促進剤の方がまだマシらしい。  どうしてヒートがこないのだろうか。  (もしかしてヒートがこないように身体が勝手に抑え込んでいる?)  ヒートがきたら伊吹と番になる。そうならないように自分の本能がせき止めているのではないか。  でも促進剤を貰ったいま、伊吹に話したらすぐに飲もうと言われるだろう。背筋がぞっと凍る。三吉の言葉を思い出した。  『番になったら終わりだよ』  終わり。  つまり律への思いもここで断ち切らなければならない。  この状態で伊吹と番になったら一生後悔するだろう。  でも律がいま幸せにいるのに「まだ好きだ」なんて言われて困らせたくない。  せっかく昔のように話せるようになったのにそれがなくなってしまう。  (じゃあどうすればいい?)  時間が解決してくれるのだろうか。  それとも伊吹と番になったら忘れられるのだろうか。  どちらにせよここできちんと決めておかないとタイムリミットがすぐそこまで迫っている。  「こんな暑いところにいたら熱中症になるよ」  冷たいペットボトルを頬に当てられて悲鳴をあげて仰け反ると白衣を着た律が立っていた。  知的な顔の律には白衣が似合う。風に揺れた前髪を梳く仕草に蕾が開花したようにときめいてしまい、慌てて頭を振った。  「これお見舞い」  「もっと普通に渡せよ」  「なにか考え事してたみたいだから邪魔しようかなって」  「なんだよ、それ」  ペットボトルを受け取り一口飲むと冷たい液体が喉を通り、すっと体温が下がった。  「伊武先生から聞いたよ。数値、低いんだって?」  「そうみたいだな。いまいち実感ないけど」  「確かに匂いは少ないね」  顔を近づけられ律はすんと鼻を鳴らした。吐息が触れそうな距離にどきりと心臓が跳ね、気取られないように下を向く。  律の手が伸びてくる気配を感じる。もしかして昔みたいにフェロモンをつけてくれるのだろうかと期待で胸が膨らみかけ、律の手がピタリと虚空で止まった。  「……もしかして俺のせい?」  顔を上げると黒い瞳が伺うように細められた。木漏れ日の影が律の頬に当たり、暗い表情になる。どこか冷めているよう見え、もしかして自分の気持ちに気づかれているのではないかとひやりとした。  「なんで律のせいになるんだよ」  「俺が勝手に期待してるだけかも」  「意味がわからん」  「伊吹とうまくいってないの?」  「スーパーラブラブ。問題なし」  そう返すと律は少しだけ肩を竦め、すぐに笑顔に戻った。  「研究は進んでる?」  「うん。やっぱり伊武先生はすごいよ。そばにいると実感する」  よほど伊武に心酔しているらしい。鼻の穴を膨らませながら伊武について語る律は研究自体も楽しんでいるのだろう。  子どものころですら見たことがない無邪気な顔に息が苦しい。そんな顔を自分のそばでさせあげられなかった後悔がじわじわと浸食してくる。  運命じゃないからと塩を撒かれた気分だ。  「……促進剤、飲んだ方がいいかな」  処方箋の袋を持つ手に力が入り、なかの薬ががさがさと鳴る。  「副作用はあるけど飲んだ方がちぃのためだよ」  「本当にそう思う?」  「うん」  律の瞳を見返して失言を悔いた。辞めた方がいい、と言って欲しかった。律もまだ好きていてくれているんじゃないかと蜘蛛の糸を辿るような期待があった。  (でもそうじゃなかった)  何度気持ちを確かめれば気が済むのだろう。そのたびに傷つき、どこが痛いのかすらわからない。  「じゃあそうする」  無理やり作った笑顔で返すと笑い返してくれた。  「ちぃには幸せになって欲しい」  「律も番と幸せにな」  思ってもないことを口にして、その場をあとにした。

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