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第33話

 伊吹に連絡すると今日は静岡にいるということで急いで新幹線のチケットを取って電車に飛び乗った。  フロントで名前を告げてエレベーターに乗り、最上階の部屋のインターホンを鳴らすと伊吹が顔を覗かせる。  「急にどうしたの?」  驚いている伊吹をよそに突進するように抱きしめた。背伸びをしても伊吹の首に腕が回せず、胸元のシャツを手繰り寄せて掴んでいると伊吹が前かがみになりながら抱きしめ返してくれた。  伊吹の唇がネックガードを避けて首筋へと降りていき、性急な動きで乳首へと到達する。シャツの上からそこを舐められてわずかな刺激に身体が震えた。  (なにも考えるな)  与えられる愛撫に溺れるふりをしながら心はどこか冷めた気持ちだった。もう一人の自分が上から傍観しているように主体性がない。伊吹が求めてくれればくれるほど熱が下がっていくのがわかる。  伊吹の手が降りてきて双丘のさらに奥に触れられた。  「濡れてない」  自分の手を見下ろす伊吹は無表情のまま固まってしまっている。  オメガは性器を受け入れやすいように興奮すると体液が出して潤滑油としての役目を果たす。  どうやら心と身体は連動していたらしい。  伊吹は大きく二度瞬きをしたあと頬にキスをしてくれた。  「千紘からしてくれるの嬉しくてがっついちゃった」  照れ隠しのように頬を掻く伊吹に罪悪感が芽生える。  (こんなに想ってくれているのにどうして好きになってあげられないのだろう)  無理やりにでも身体だけでも欲しがってくれればまだ諦めがつくのに、伊吹は絶対にそういうことをしない。それだけ千紘を大切にしてくれているのだと示してくれている。  ポケットに入ったままの促進剤が存在を主張するようにかさりと鳴った。  これを使えと言われている。そうすれば楽になれる。  でもこんなときでも浮かぶのは律の顔ばかりで、いま目の前にいる男ではない現実に目頭が熱くなってしまう。  自分の心なのに言うことを聞いてくれない。運命の伊吹と番になれば幸せになれるとわかっているのに、どうしても後ろを振り返って律の存在を確かめたくなってしまう。  「ごめん」  「オレも仕事忙しくて全然連絡できなかったから。寂しかった?」  縋るような声にこくんと頷く。そうすると伊吹は安心したように目尻を下げて、抱きしめてくれる。  千紘の身体は氷のように冷えていった。  静岡から戻ってくると調子ががくんと落ちた。不幸中の幸いは前期の試験を友人たちのおかげで乗り越えられ、無事に夏休みを迎えられたことだろう。 だから心置きなく長い夏休みを一日中ベッドの上で過ごせているが、気分は晴れない。  食べては寝ての繰り返しでまるで年老いた猫のようだ。  常に身体はダルく頭が痛い。体温も低いせいか毛布にくるまれていないと凍ってしまいそうだ。  (フェロモンが出ていない弊害なのかな)  なにをするわけでもなく天井の四隅の模様を眺めていた。  「千紘」  毛布を覗いた伊吹は見慣れたバケットハットとサングラスをかけている。  「仕事?」  「今日は通院の日だよ」  「そうだっけ」  日付け感覚がなくなっていた。辛うじて壁にかけられている時計で時間はわかるが、遮光カーテンがつねに降りている部屋では太陽の光すら届かない。いまが朝なのか夜なのかあやふやだ。  地方営業から帰ってきた伊吹は毎日機嫌よさそうに世話をしてくれる。日々弱っていく千紘を撫でて愛して心を込めて尽くしてくれていた。  歩く体力もなく抱っこされたままタクシーに乗り込み、受付を済ませるとすぐに診察室に呼ばれた。  衰弱した千紘をみて伊武は目を大きく開いた。  「酷く衰弱してるじゃないですか。このまま入院してください」  「それはできません」  「あなたは千紘さんを死なせたいんですか?」  「そんなわけありません」  伊吹の爪が肌に食い込む。痛いのに声をあげるのも面倒でされるがままでいると伊武はそれをちらりと見て眼鏡のフレームを押し上げた。  「促進剤はどうしましたか?」  「促進剤?」  伊吹に見下ろされて首を振った。  「聞いてないんだけど」  「言ってないから」  促進剤の話は伊吹にはしなかった。飲もうと言われるのが目に見えていたからだ。  こんなにも心は冷たいままなのに伊吹と番になれるはずもない。でもヒートがこないと死んでしまう。死にたいわけでもない。  どうすればいいかわからず、ただ衰弱して生きる気力を削られ続けていた。  促進剤は静岡に行った日のズボンのポケットに入ったままだ。  「もう一度処方してください」  「処方するのは簡単です。でもなによりお二人の気持ちがとても大切です。きちんと話し合われましたか?」  「話し合うもなにもオレたちは運命で繋がってるんです。あなたはただ薬を処方してくれればいい」  「患者さんの気持ちを尊重するのも医者の務めです。千紘さんはあなたと番になることを望んでいますか?」  「もちろん」  伊吹は迷いなく頷いた。それを見て伊武の表情はどんどん渋くなる。  「とりあえず点滴を打ちます。どちらにしろここまで衰弱してるのに促進剤はリスクが高い。しばらく入院してもらわないと」  「点滴をしたら帰ります」  「ですから」  また伊武と伊吹が同じ会話を続ける。ぐるぐる寸分違わない会話してまるでRPGゲームをしている気分だ。まったく噛みあっていない。  二人の会話をどこか他人事に思いながらぼんやりと虚空を見上げていた。  

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