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第34話

 点滴をしている間は安静にしないといけないということで処置室に一人残された。伊吹は付き添うと頑なだったが、仕事の電話がきてしまい渋々と出て行ってくれた。  心は凪のように落ち着いている。  点滴が終わって家に帰り、促進剤を飲んで伊吹と番になる。そう筋書きがあり、もう自分ではどうすることもできないところまできていた。  律には「運命の番」がいる。  伊吹と番になることを望まれた。  だからこれ以上想い続けるのは辛い。  伊吹が手を広げて受け入れているならなにも考えずに飛び込めばいいのだ。  小さいときから律と一緒だった。  お漏らし事件のときも山下と対峙したときもオメガに変異したときも、人生の大切な分岐点にはいつも律がいてくれた。  どうしていままた分岐点に立たされているのに律はそばにいてくれないのだろう。  出会って十二年。  律とは共に成長してきた。  喧嘩もたくさんしたし、嫌な思いをさせて気まずい思いをしてきたこともあった。  でも全部二人で乗り越えてきたのだ。  そのたびに絆が強くなって、死ぬまで一緒にいるのだろうと確信があった。  伊吹とは運命で繋がれているとわかっていても千紘の気持ちは律にしか向いていない。  この点滴が終われば伊吹と番になる。  だったら最後は後悔がないようにしたい。  (好きって伝えたい)  振られるに決まっている。  千紘から振ったくせに今更なんだよって思われるだろう。  それでも律への思いをちゃんと告げておかないと一生後悔する。  伊吹と番になる未来が決まっていても心まで受け渡す必要はないのだ。  急き立てられるように点滴針を抜いて、処置室を飛び出した。  点滴のお陰で力が湧いてくる。床を踏みしめて受付とは反対側の入院棟へと向かった。  関係者用通路という看板が目に入り、扉を開けるとどうやら職員専用の駐車場と繋がっているらしい。高級そうな車が並んでいる。  身を隠すため脇にある貯水槽の影に座った。  律はどこにいるのだろうか。  携帯も財布も置いてきてしまって連絡を取ることができない。  伊吹が戻ってくるまでになんとか律と話がしたい。  たぶんまだ病院で研究しているはずだ。  ザラザラという音に驚いて様子を伺うと砂利を踏む足音のようだ。  風にのって香る匂いに肌がピリピリとする。  死んでいた細胞がポコポコと音をたてて活性化する。  身体が生きようと生命の息吹を吹き返した。   「ちぃ?」  顔を出すと黒い髪を靡かせている律の姿があった。  風で煽られる髪をうっとおしそうに撫でつけている。  「こんなところでなにしてるの?」  座っている自分に目線を合わせるようにしゃがんでくれた。  穏やかな声は耳に心地よい。  きんと鼓膜の奥で耳鳴りがする。  夏祭りの太鼓や祭囃子。  体育祭の歓声。  初めて触れた体温。  いくつもの思い出が頭のなかに流れてくる。そのとき感じた想いも、匂いも熱も感触も鮮明に蘇ってきて、心臓を強く鳴らせた。  「律……っ!」  足がもたついて倒れ込みながら律に抱きついた。  落ち着く香り。ずっとそばで守っていてくれた温もりがいまこの腕のなかにある。  「律が好きだ。大好きなんだ」  シャツが皺になるくらい強く掴んだ。  「律のことが好き。大好き。もう離れていたくない」  告白だけのつもりだったのに感情が抑えきれない。  涙で滲む視界で律が困ったように笑っている。  いまさらなにを言っても遅いと顔に書いてあった。すっと体温が下がる。  「ごめん。変なこと言って」  立ち上がろうとすると律に腕を掴まれた。  「言ったでしょ。俺の生き方を決めてくれるのはいつだってちぃだけなんだ」  「俺が律の人生を縛ってるの?」  「そうだよ。だから責任取ってよ」  「責任って」  どういう意味だろう。  じっと見返すと黒い瞳に日差しが入る。この世の綺麗なものを集めた結晶のように一切の翳りがない。  「ちぃが好きだよ」  その一言で早回しされたように心臓が動いた。血液が沸騰してるいるように熱い。  「お、俺も」  前のめりで答えると「さっきも聞いたよ」と頭を撫でてもらえた。やさしい手の感触にうっとりと目を細める。  「でも女優の人は?」  律と女優の二人は運命の番だと記事が出ていた。事実、律は認めていたし、付き合っているような素振りだった。  「写真撮られたとき、他にも何人かと食事してたんだよ。あの人は留学先で知り合った先輩と付き合ってて、隠れ蓑にされてるだけ」  「じゃあなんで伊吹と番になった方がいいとか突き放すんだよ」  「ちぃには一番いいと思ったんだよ。番がいればオメガは安定する。運命の番ならなおさら」  律の髪が風に流れて頬に触れる。くすぐったくて首を竦めると律の手が近づいてきて、うなじに触れられた。マーキングをされたのだと気づき、嬉しくて 再び律の首に腕を回した。  「千紘っ!!」  ばんと扉が開いた音に振り向くと顔を真っ赤にさせた伊吹が立っていた。額に汗を浮かばせ、変装用の帽子とサングラスがない。血眼になって探し回っていたのだろう。  抱き合っている姿を見た伊吹は眦を吊り上げて律を睨みつけた。  腰に回された律の手に力が込められる。  「ちぃがこんなに弱ってておまえなにやってんだよ。こんなになるまで追い詰めて」  「オレたちは運命の番なんだからおまえは関係ないだろ! 別れたくせに出しゃばるなよ!!」  唾を撒き散らしながら叫ぶ伊吹の目は赤く濁っている。どしどしと怪獣のような足取りで近づいてきた伊吹に腕を引っ張られた。  「もう帰ろう。薬飲んではやくこんな奴忘れるんだ」  「薬って促進剤のことか?」  「そうだよ」  「おまえ、ちぃにどれだけ負担がかかるか考えたことがあるのか!?」  律の勢いに押された伊吹がぐっと唇を閉じる。  「促進剤は無理やりヒートを起こさせる分、副作用が酷いんだ。頭痛や目眩、吐き気……しばらく日常生活が送れないほどの倦怠感がでる場合もある。そこまで考えたことあるのか?」  唇を閉じた伊吹はなにも答えない。図星だったのだろう。  伊吹といると楽しい。ご飯を作ってくれ、寝る場所を与えてくれサンピスの話もできた。穏やかな時間を過ごせていたと思う。  伊吹と番になれても幸せになれる。だってあれほど愛してくれたのだから。  でも伊吹じゃだめなのだ。  本能は伊吹を求めていてもそれ以外のすべてが律を愛していた。  掴まれた手が震えている。そっと自分のものを重ねた。  「伊吹には感謝してる。でも俺は律が好きなんだ」  腕の力が弱まっていく。項垂れる頭を撫でようとしてやめた。なにもできないなら中途半端なやさしさは毒になる。  「嫌だ……なんで? どうして? オレたち運命なんだよ。そう神様に決められたんだよ」  「運命に負けないくらい律が好きなんだ」  「そんな」  その場で膝をついた伊吹にかける言葉が見当たらない。幸せにできなかった後悔が押し寄せてくる。  「律はなんでも持ってるじゃないか。家も金もなんだってあるのに  千紘くらいオレにくれよ」  「ちぃはものじゃない。ちゃんと自分の意思がある人間なんだよ。おまえは最初からちぃをもののようにしか見ていない」  律の反駁に伊吹は地面に埋め込まれそうなほど俯いてしまった。  「伊吹」  名前を呼ぶと伊吹はびくりと肩を跳ねさせた。  「ずっとそばで支えてくれてありがとう。辛かったら東京に来いって言ってくれて嬉しかった。いままで本当にありがとう」  「うわああああぁあああぁぁ!!」  伊吹の絶叫は病院中に響き渡り、警備員や伊武たちがやってきて収束を迎えた。

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