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プロローグ③
大学から帰ってきて二階に行ったと思ったのに部屋にはいなくて、でも荷物は置いてあって。それなのに玄関からまた帰ってくるってどういうことなの。
母の顔には一言一句違 わずそう書いてあったけど、俺の隣にいる超美形の天使を見てすぐに黙った。あんたねえ、くらいまで出かかった言葉が、するっと喉の奥に飲み込まれていくのを、確かに見た。
「お友だち連れてくるなら、そう言ってくれればよかったのに。ご飯ひとり分足りないじゃない」
ふたりとも靴を履いていないということには少しも触れず、母はさっさと台所へ引っ込んでいった。
ほとんど廃墟同然の展望台で街と夜空を見ていた俺たちは、気づかなかったけど、だいぶ汚れていたらしかった。
靴下しか履いていなかった足はもちろん、お気に入りのパーカーやちょっと高かったジーパンまでもがやられていた。なんなら顔にも黒いなにかがついていたようで、帰ってすぐ心配そうな顔をした母から濡れたタオルを渡された。だから、もしかするとふたりで喧嘩でもした後とか、思われてないかな。血やあざなんかはないから、大丈夫だとは思うけど……悲しませたくはないから。
ご飯の用意できたら持ってくから部屋行ってて。母にそう言われたから、仕方なく自室まで天使を案内した。
階段をあがる間、後ろからなにか懐かしいものを見るようなつぶやき声が聞こえてきたのが気になった。けどまあ天使だし、俺の家を見たことくらいあっても当然かと思うことにした。
「そういえばさ、きみがここに来た理由は聞かない約束だけど、この後どうする予定かっていうのは聞いてもいいの?」
「あぁ、そのことなんだけどさ、しばらくゆうすけの部屋に泊めてくんないかな、って」
天使は器用に片方の眉を上げて、上目遣いで俺を見た。
一瞬どころか数秒、思考が完全に止まる。
こっちはいきなり「オレ天使」とか言っちゃうやべえやつが入ってきたと思って焦って、結局本当に天使だったとはいえ、というかその結果にこそいちばん驚かされた。
その上、空も飛ぶ羽目になって――俺が証明しろって言ったからだし、全然楽しかったからそれに関しては少しも怒ってないんだけど――ここ数時間、非日常づくしで俺は疲れてるんだ。もうこれ以上のことはないだろうと油断したところに、これだよ……。
「いやさ、別に朝食夕食付きで豪華なホテル生活をってわけじゃない。なんなら飯は寄越してくれなくていいから、ここにいさせてほしい。ベッドだっていつも通りゆうすけが使えばいいし、オレの分の布団を用意しろなんて言わない。ただその、なんだ……休憩場所として、この空間を借りたいんだ。アンタのジャマはしないからさ」
「で、でもその」
「あーなんだ、親に隠れてコソコソするのがイヤってんだったら、寝静まった頃に窓から入ればいいか? なら、ウソをついたってことにはならないだろうし」
「そうじゃなくて、あの」
「逆か? じゃあいろんな謝礼持ってくるから、正式に居候させてくれって親に頼む。オレひとり増えた分金がかかるってんならどうにか用意するし、手伝いが必要だってんなら掃除だろうが洗濯だろうがなんだってやる。どうだ?」
この天使は話を聞かない。その上、絶対自分の有利に話が進むと思っているんだから不思議だ。
天使ってそういうやつばっかりなのかな。
さっきも「天使パワー」とかって言ってたし、いざとなれば自由自在に人間のことを操れるのかもしれない。そう思うとちょっと怖いのに、それでもこいつを助けたいと思ってしまうんだから、俺も不思議な人間だ。
「俺はできるなら泊めたいと思ってるよ。星を掴めそうなところまで連れて行ってくれたんだし、恩返しはしたい。けど、相談しなきゃいけないこともあるから、ちょっと質問させてほしい」
「あ、あぁ、悪い」
ぱあっと輝かせていた顔をすっと引っ込めて、天使は真面目そうな顔に戻った。
「まず、どれくらいの期間いるつもり?」
それは……、と言って天使はうつむいて黙った。
目的と同じく話しづらいことなのかもしれない。というか目的達成までいるつもりだけど、それがいつになるかわからない、とかだろうか。天使のすることはわからないから――というか、どんな仕事をしているのかどころか、現代日本に存在しているとすら考えてなかったから当然なんだけど――推測することもできない。
わかった、じゃあ……。言ってから、本当にこの天使が居候することになったらどうなるのか、考えてみる。
学生の家出騒動や行方不明の話を聞くといつも「優亮 のお友だちにそういう子がいたらすぐ連れてきなさいね、いくらかうちで匿ってあげられると思うから」と母は言う。だからきっと、素直に話せば――って言ったって、「この子、実は天使で」なんてことは話せないから、家に居づらくてとかどこかから逃げてきて、という話になるだろうけど――数日間住まわせることはできるはずだ。
さっきの様子だと母はすでに天使のことを気に入ってそうだし、じゃあ数週間は大丈夫かもしれない。けどそれ以上はどうだろうか。というか、そんなに長く居座ることになると、無口の父でもさすがに黙ってない……かもしれない。
「どれくらいかかるかわからないお仕事ってことだよね、たぶん。俺の家以外も頼るつもりはある? 今月くらいはきっと大丈夫かなと思うけど、それ以上はわからないから探しておいた方がいいと思う」
言いながら、俺にアポ取りに来たことはないんだから、次を探すにしてもこの天使は交渉なんてしないんだろうな、なんて思う。先に言っておいてくれれば、もっとテキトーに親を説得する理由を考えておいたのに。こんな急なことじゃ……。
「あ、あの、じゃあさ」
思いつきを口に出してみる。どっちにしろ俺は嘘をつくのが下手くそだから、母にはバレてしまう気がするけど。
「大学でできた友人ってことにして、ちょうどボロボロの格好で帰ってきた、親に勘当されて家出してきた、っていうのはどうかな。だったら母さんも助けたいって手を貸してくれると思うし、できる限り長い間ここにいられると……」
「あぁ、いや、それはムリだな。オレたち天使ってヤツは、ウソがつけないんだ」
あまりにも天使がけろっと言うもんだから、眉にしわを寄せながら口をぽかんと開けっぱなしにしてしまった。
「ちょ、ちょっと待ってよ。じゃあなにもかもが無理じゃない! 母さんにどうやって説明したって、天使なんて信じてくれるわけないよ……」
「ま、アンタだってオレと同じようなもんだろ。ウソなんてつくもんじゃないぜ」
俺はきみを助けようとたくさん必死で考えてるっていうのに。
膝の上に乗せたこぶしがぷるぷる震えはじめた頃、階下から母の声が聞こえた。どうやら晩ご飯の用意を手伝えというお達しらしい。
この面倒な天使をひとりで俺の部屋に置いていくのは少し気が引けるけど、母の言うことを聞かないわけにもいかないので、立ち上がることにする。
「なんでもいいけど、手は貸すから。どうしたらいいのかはきみの方で考えて、決まったら俺に教えてね。それも俺がここに戻ってくるまでに、だよ。きっと母さん部屋までついてくるだろうからね」
俺の刺した釘はどうやら痛くなかったらしい、天使は例のニヤニヤ顔のまま扉に消えた。
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