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プロローグ④
台所では、食器棚に顔をつっこんでいる母を見た。
今日はとんでもない日だ。もしかすると十八時すぎから俺は夢の中にいて、ぜんぶ変な悪夢なのかもしれないとすら思わされるのに、頬をはたいても手の甲をつねってもなにも起きない。信じがたい現実の中にいるということだけを突き付けられる。
食器棚の奥からくぐもった声で「うーん、あのときもらったおしゃれなお皿が、このあたりにあるはずなんだけど……」なんてつぶやいているのが聞こえてくる。普通に嫌だ。
「あら優亮、いるならいるって言ってよ恥ずかしいじゃん」
ぬっと出てきた母は、少しだって恥ずかしそうにしないまま、むすっとした顔で続ける。
「詳しいことは後で聞くから、覚悟しておきなさいね。なにがあったのかは知らないけど、ちゃんとした説明してくれないと母さんも心配なんだからね」
俺が返事をするのとレンジが鳴るのはほとんど同時だった。それを合図に、母は笑顔に戻ってご飯の準備を再開する。
恵まれた家庭だと、しみじみ思う。
なにかあったら心配してくれるのも、どんなときでも優先してくれるのも、こうやって理解しようとしてくれるのも。なにがあっても優しく包み込んでくれる母に、何度も助けられてきた。
学校以外で外に出るときは誰となにをしに行くのか、いつ帰ってくるのか、あらかじめ教えなさい。わからないなら帰りに乗る電車やバスの時間は伝えるように。あんまり遅いときは車で迎えに行きます。そんなちょっと過保護気味な母に育てられて、けど、だからこそ俺はまっすぐ成長したんだと思う。
周りが「あのくそババア」とか言ってイライラしているとき、俺は「今日は帰りにプリンでも買ってあげようかな」なんて考えていた。それほど反抗期というやつとは無縁な俺だ。いつまで経っても反抗されない母が、逆に心配していたくらいに。
どうしてこんな性格になったのかはわからないけど、きっと、いや確かに、俺の中には母親譲りの柔らかな血が流れているんだと思う。
最初に聞こえたのは、とたとた、というゆっくりで小さな音。まるで猫が歩いているような。
と、母とふたり同じものを見た。リビングから廊下へつながる扉のすりガラスに、人影が映ったのだ。俺たちは顔を見合わせて、そちらに向かえばちょうど玄関が閉まるところだった。
「あの天使、逃げたな……?」
思わずつぶやいてから、はっとして母の方を見たけど、「天使」という言葉に気づいてはいないようだった。
「ちょっと見てくる」
玄関を出てあたりを見渡す。
穏やかなオレンジに照らされた国道を、たくさんの車が走っている。歩道の上に人間がいる様子はほとんどない。仕事帰りのサラリーマンだとか、部活が終わったところなのかジャージ姿の高校生だとか、そういうのがぱらぱらと見えるだけ。ここはそういう田舎だ。
家を飛び出してきて思い出したのは、あいつは天使だから陸路をたどる必要はない、ということ。きっと外に出てすぐ夜空に羽ばたいたんだろう。そうすれば、このあたりなら誰かに見られることなく逃げ出すこともできるはずだ。
さわさわと揺れる木々が、影に隠れて笑う声に聞こえる。肺にたまった息を吐き出して、家に戻ろうかと振り返るところで、見慣れた車が車庫に入るのを見た。父が帰ってきたらしい。
俺がしばらく戻らなかったからか出てきた母と俺を見て、父はにこやかに言う。
「なんだい今日はふたりでお迎えなんて。これを買ってきたのがバレてたのかな」
父が掲げたのは、四連結のプリンだった。
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