8 / 32

天使か悪魔①

 やっぱり休日は部屋でだらだら過ごすに限る。ふかふかベッドに寝転がって、スマホをぽちぽちやりながらそんなことを思う。  大学生らしく外に遊びに行ったり、バイトをしたりしようとしたことは何度だってある。けど俺がそうしなくなったのは、活動する労力と比べて、部屋でだらだらするのは格段に楽だからだ。体力を削ることなく楽しいことをやっていられる。もちろん、友だちがいないから、なんて理由じゃない。  だから今朝から――と言っても、起きたのは十時過ぎだから朝でもないような気はするけど――なにをするでもなく、テキトーに過ごしていた。  のに、天使のやつ、窓から入って来て「宿題はやったのか?」なんて言ってくる。はじめは無視していたけど、何度も何度も肩を小突いては言ってくるもんだから、さすがに俺も折れた。  まだ土曜日なんだからやってなくたっていいじゃないか。周りのだるそうな学生たちはなにもしないで来てるんだから。言ったところで正論で丸め込まれそうだったから、仕方なく勉強机の前に座った。  なんでこんなにお母さんみたいなムーブをするんだ? ただの居候で、友人にも満たない関係性の、見知らぬ天使のくせに。  天使ってやつは、どんな個体もこんなにお節介焼きなんだろうか。なにをするにもめんどうそうな顔をするのに、俺へのちょっかいだけは嬉々としてやってくる。そんなに俺のことが好きか。  結局課題はぜんぶやり遂げたのに、ほめてくれる天使はいない。いつの間にどこに行ったのか、今は外出中だ。  相変わらず人間界(こっち)でなにをしているのかは教えてくれないが、なんだかんだ忙しそうにしていることが多い。悪い方に足を踏み外しそうになった人たちを導いたり祈ったりしているんだろうか、あの悪人面で。そう思うとちょっとだけおもしろい。  ベッドに戻って、枕元にいるぶたのぬいぐるみを引き寄せた。 「あいつが天使らしく天使のお仕事してるの見たら、俺、笑っちゃうかも」 「――誰がなにしてたら笑ってやるって?」 「わぁっ!」  気づくと窓辺に一対の翼を背負った天使がいた。 「いるならいるって言ってよ!」 「オレならここにいるぜ」 「いや、今じゃなくて」  そういえば、一緒に過ごすようになってから一週間が経とうとしているけど、俺はこの天使の名前を知らない。  というか、天使に名前なんてあるんだろうか。ミカエルだとかラファエルだとか、そんなイメージはあるけど、それってとってもえらい天使さまの名前なんじゃ……?  きっとこれからも俺の隣にいるつもりだろうこの天使の名前を知らないのは、それはそれで不便な気がする。今はまだ感じたことないけど、不都合がある前に聞いておこう。 「名前かァ?」  後ろで結った長い髪で遊びながら、片方の口角を上げる。いつもの悪そうな笑みだ。 「ご名答、下級天使のオレに名前なんてたいそうなもんはないね」  曰く、天界には天使がうじゃうじゃいるそうで、その中でも選ばれた上級天使――シテンシだとかチテンシだとか言ってたけど、音だけじゃ漢字はわからなかった――にしか名前は与えられないらしい。なんだか寂しい場所だ。 「だから、テキトーに呼んでくれて構わないぜ」 「ううん……、でも天使って呼ぶのは違う気がするし、ニックネームあった方がいいような気がするんだけど」 「つけてくれるってんなら、その名前、喜んでもらってやるよ」  俺は頭をフル回転させた。興味のない講義よりもずっと頭を使って、どうにか、なにかをひねり出そうとした。 「てんしてんしてんし……」  誰かに名前をつけたことも、あだ名をつけたこともない俺に、そんなことができるわけない。 「テンは、安直すぎるよね。……だったら、シンってのはどう?」  思わず、とでも言うように天使は吹き出した。失礼なやつめ、こっちは真剣に考えてるっていうのに。 「シンって、……どっちにしろそのまんまじゃねえか!」  腹を抱えたり、手を叩いたりしながら大笑いする様子は、これでもかとばかりに俺をバカにしているように見える。  そんなにおもしろいかよ。悪かったな、ネーミングセンスがなくて。 「いいや、気に入った! 今日からオレの名前はシンだ!」  勉強机にある不要になった裏紙に、マーカーで大きく「シン」と書いて、胸にあてがっている。  バカにされているのか、本当にめちゃくちゃ気に入ったのか、見ているだけじゃよくわからなかった。でもきっと、嫌っていないことは確かだ。なんとなく、いつもより自然な笑顔に見えた、気がしたから。  抱きしめたままだったぶたのぬいぐるみを、シンの目の前に出す。ぴた、と止まった笑い声。手から離れていくぶたちゃん。たぶん赤くなっているであろう顔を必死になって隠しながら、俺は部屋を飛び出した。  こういうときはソーダを飲むに限る。かあっと熱くなった頭をゆっくり冷やすんだ。仕方ないからシンにもなにか持って行ってやろう。夏が近いからホットココアにしてやる。熱々のやつ。熱すぎて飲めなくて、甘すぎてどろどろに溶けちゃえばいいんだ、あんなやつ!  そんなことを考えながら、どしどし音を立てて階段をおりていく。  と、足がすべった。つま先が空中に着地し、かかとが段差の角にぶつかる。このままだと、階段ででんぐり返しをするハメになる。まずい……!  すべてがスローモーションに見えた。思考ばかりが加速して、けど身体の方はスローモーションに巻き込まれていく。  思うように身体を動かせない。いや、動いてはいる。ゆっくりゆっくり、階下に落ちていこうとしている。息が止まる。心臓の拍動が、嫌に近くに感じられる。  怖い、落ちる、死ぬ――! 「まったく、危ないやつだなァ」  俺の身体は空中で止まっている。両足が階段から離れて、今にも全身が打ちつけられようとしている瞬間で、時が止まったようだった。  右の手首に強い力を感じる。ぎゅうと握られているのがわかる。振り向けば、翼を広げたシンがいた。 「気をつけろよ? 子どもじゃないんだからな」 「あ、ありがとう」  この家で暮らして、もう二十年が経とうとしているのに、それでも踏み外すことがあるなんて、考えもしなかった。子どもの頃、何度か転げ落ちたことはあるが、大人になってまでそんなことがあったら冗談にもならない。歩き慣れた場所だと思っていたのに。なんだかショックだ。  そのまま一緒に、ふわりと一階に降りた。シンは親に見られたらまためんどうだからと、そそくさと二階に戻っていった。  まだ心臓がどきどき鳴っている。すごく怖かったし、死ぬかもしれないとすら思った。けどなんだろう、この感じ。頬に熱が集中していくような気がする。  ――いやいやいや! どきっ、じゃないんだよ、どきっ、じゃ!  思わず両頬を挟むように叩いて、ちょうどリビングから出てきた母に怪しまれた。

ともだちにシェアしよう!