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天使か悪魔②

 ふんわりと甘い香りのするそれなりに熱いココアと、キンキンに冷えたソーダを手に持ち、今度は慎重になりながら階段をあがる。  両親の目を盗んでココアを作ってたけど――いや、父はキッチンに興味を示すことがないから、別に気にしてなかったんだけど、それがよくなかった。きっとココアの香りが漂っていたんだろう、父に見つかってしまい、こんな初夏にあたたかいココアを飲むなんて、と不思議がられた。しかも、もう一方の手にはソーダの缶を持っている、あやしいにも程があった。  とはいえ、父親は父親だ。アイスココアにするんだと言えば納得してくれたし、ソーダは冷蔵庫に戻すふりをして切り抜けた。  どうしてこんなにもあっさりと騙されてくれるのだろうか、そう思ってしまうほど父親という生き物は子どもの日常に無関心だ。というか、自分の趣味でいっぱいなのかもしれない。 「シン、部屋開けて」 「最新AIみたいに命令するなよな、天気予報なんて芸当できないぞ」  ローテーブルにふたつの飲みものを置き、地べたに座る。するとシンも向かい側に座って、ココアに手を伸ばした。  思惑通りだ。もうそろそろこの天使が甘党なのはわかっていたし、どうやら炭酸が苦手そうなのも知っていた。だからココアには俺の好きなマシュマロも浮かべてやったし、相当甘くてうまいココアになっているはずで――って、これじゃ嫌がらせどころか、ただの歓迎じゃないか!  目の前の天使は、満足そうな笑みをたたえながら、ぷかぷか浮いているマシュマロをスプーンで底に追いやっている。  なにが楽しいのやら。 「そういえば最近さ、あんまりよくないことが立て続けに起こってる気がするんだけど」  カシュッ、といい音をさせながらソーダ缶を開ける。 「実はきみが悪魔だったり、なんてことはないよね?」 「はぁ? なんだそれ。オレはマジメな天使さまだぞ、アンタに危害を加えに来たんじゃない」 「ほら、講義室にノート忘れたり、取りに戻ったらもうなくなってて、忘れ物置場にもなくなってたり」 「そんなの自分の不注意だろうが、オレのせいにしようとするなよ」 「しかもお気に入りの靴で水ぶくれもできたし、最近嫌な夢ばっかり見るんだよね」 「久しぶりにスニーカー履いたからじゃないか? 夢の方はオレが知るわけないけど」  そんなもんかなぁ。俺はつぶやいて、ソーダをひとくち飲む。強すぎる炭酸が変なところに入って、むせた。  まるでかわいそうなものでも見るような目で、シンは俺のことを見ている。なんて顔してるんだよ、こっちはむせてて大変なの! 「まあ、イヤなことがあったらどっかに原因を見つけたいのはわかるが……、オレじゃないってことだけ忘れないでくれよ」 「すべてに疑ってかかれって言ったのはきみじゃないか」 「おいおい、オレは天使なんだから信じる対象になるだろうがよ」  こんなに口が悪い天使がいてたまるか! 思うけど、証拠はばっちり見せてもらったことがある。あんなに美しい翼を持っていて、こんなに人間離れした美貌を持っているんだ、嘘なわけない。じゃなかったら、ただのペテン師だ。 「んで、今日はなにもしないのか? こんなにキレイに晴れてるのに?」 「大学もやすみだからね、やることなんてないよ」 「じゃあいいや、オレに付き合えよ」 「……え?」  ぐい、とマグカップをあおる様子は、酒でも飲んでいるように見えた。俺も急いでソーダ缶を傾けるけど、一気に飲むには多すぎる。三分の一近く残っているのに、シンは俺の腕をつかんで窓の方へ突き進む。はじめて会ったあの日に似ている。 「付き合うって、なにするの」 「なんでもいいだろ、ちょっとした散歩だよ」  ふたり並んで屋根の上に立つ。腕をつかんでいた天使の手が移動し、俺の手を握る。これじゃ手をつないでるみたいじゃないか。言おうと思ったところで、その前に足の裏が屋根から離れる。まるで自分の背中にも翼があるみたいに、ふわふわと身体が浮いていく。  二回目とはいえ、空を飛ぶなんて行為に慣れが来るとは思えない。これならジェットコースターに乗って一回転させられた方が現実的だ。  あんなにぐわんぐわん揺れたり恐怖心を煽られたりはしないけど、内蔵が浮遊する感覚はそれと同じくらいスリリングだ。  この前、夜に飛んだときより恐怖が勝るような気がするのは、もしかすると見上げてもきらきら輝く星がないからかもしれない。あのときの俺は星空に見惚れていたから、どんなに高い場所にいようとも怖くなかった。なんなら星に手が届きそうなその瞬間を楽しんですらいた。  けど今はどうだ。青一色の空、どこまでも続く空、吸い込まれてしまいそうな空。その下には現実が広がっている。住宅街、公園で遊ぶ子どもたち、曲がり角での井戸端会議、それから行き交う車たち。 「おい、なに考えてんだ。今はオレとの時間だろ」  俺の手を握るシンの手に力が入る。なにに怒ってるんだか知らないけど、そんなことに構ってる余裕は、俺にはない。 「ん? アンタ、まさか――」  にやり。音が聞こえてきそうなほど、シンは口角を上げた。悪人面に拍車がかかる。 「怖いんじゃないだろうなァ?」  そのシンの様子が妙にしゃくだった。そっぽを向いて無視してやろうと思ったのに、視線をずらしても高所高所で、俺に逃げ場はなかった。  高所恐怖症だとは、自覚がなかった……。  つないだ手をあげて、ダンスでもするみたいに俺をくるりと回す。それから俺の脇と膝下に腕を入れ、横抱きにしてくる。これっていわゆる、お姫様抱っこ、というやつなんじゃないだろうか。 「これで怖くないか?」  確かに下は見えなくなったけど、だ、だからってこんなの……! 「怖いよ、きみのその感覚が」  ぼそっとつぶやいてみたけど、シンには聞こえなかったらしい。  結局どこに向かっているのかわからないまま、俺はただ青空を背景にしたシンの横顔を見ているしかできないでいる。  相変わらずきれいな顔だ。真っ白な肌に、少しだけ色づいた頬。切れ長な目には他より小さい黒目、けれどそれをカバーする穏やかな表情。さらっと伸びた長髪に、つやつやと光る天使の輪。少し視線をずらせば、純白の翼も視界に入る。  あぁ、本当に天使なんだなって。  天使がいるんなら悪魔もいるんだろうか。だったら神さまは? 吉植先輩が言ってたように、妖怪や妖精だっているかもしれない。だって目の前に非現実的な存在、本物の天使がいるんだから。  だったらキツネやタヌキは人に化けるのかな。もしかしてこれは蝶々の見ている夢だったり――?  俺の中で際限なくいろんなことが頭をめぐる。どれも信じがたい幻想ではあるけど、こうして天使と一緒に空を飛んでいると、すべてが本当な気がして来てしまう。  そうだったらおもしろいな、けど本当だったら大変だろうな。 「だからさァ、変なこと考えないでくれないか?」 「そういえばシンって、たまにそうやって言うけど、俺の考えてることって見えてるの?」  シンはふくらませていた頬から空気を抜いて、視線を逸らした。 「人間界(した)での仕事はたいてい人を導くもんだからな、なんとなく悪いこと考えてるかどうかはわかるんだよ」  悪いこと、か。  俺の夢想は、天使にとって悪いことにあたるんだろうか。天界と人間界の違いはわかりっこない。  たどり着いたのは大学の屋上だった。普段は行けない、というか行き方すら知らない場所だから、新鮮だ。柵から下をのぞけば、土曜の集中講義に参加するのであろう学生たちがうろうろしている。  土曜日まで大学に来て勉強するなんて、俺にはできないな。  シンは俺の後ろでなにやら翼を気にしている。ポケットから取り出した、これまた真っ白なブラシでとかしているらしい。  出会った最初にも言ってたけど、本当に羽根が汚れるのが嫌いなんだな。というか、本当にこの世界の空気って天使の羽根を黒くしてしまうくらいには汚れてるんだな。それってちょっと、なんか嫌だ。 「白い羽根が汚れるってことは――」  数日前、シンは聞いてもいないのに、この世界の汚れについて話してくれた。 「つまり、大気汚染だとかそういうことじゃないんだよな。オレたち天使の羽根が汚れる条件ってのがあってだな、その場所に住む人間たちの思想の汚れが大気中に浮かんでる、みたいなことだ」  曰く、犯罪が多い場所はどこよりも羽根が汚れるらしい。ここよりもずっと都会でお仕事をしていたときの方が、翼が黒くなったのだとか。  つまり、俺の故郷であるこの街は、少なからずあるとしてもそこまで犯罪が多くはないってことになる。そう思うとなんだかうれしい。犯罪がなくなってくれないのは遺憾だけど。  と、大学構内に吉植先輩を見つけた。思わず声をかけたくなったが、ここは入ってはいけない場所、屋上だ。小さく手を振るだけにした。  ふと、先輩は足を止め、振り向いた。さっとしゃがんで身を隠したけど、もしかして見られてないよね? 俺の心の声がだだもれで、先輩に聞こえてたりしなければいいけど。 「うえぇ、ぺっぺっ!」  シンがいきなり舌を出して威嚇しはじめた。 「オレああいうやつって、苦手っていうかキライっていうか、サイアクだ」  膝を伸ばして、シンの視線の先をたどる。と、そこに見えたのは、吉植先輩だった。 「えぇ? きみは関わったことがないからそんなことを言うんだよ。先輩はすごい人なんだからな」 「いいや、挨拶するのすらごめんだね。アンタも気をつけろよ、ああいうゲテモノには」  ゲテモノって……。  天使がそこまで言うのはどうしてなんだろう。きっとなにか理由がないと人間を悪く言うことはないと思うんだけど、だとするとつまり、先輩はなにか悪いことに関わっているのか、それとも本当は悪い人なのか?  どちらにしろ信じられない。あの吉植先輩が悪人だっていうなら、なにか変なことに巻き込まれているとしか考えられない。だったら、それを知っている唯一の人間である俺が助けてあげなくちゃ。 「おいこらゆうすけ、余計なこと考えるなよ」 「余計なことじゃないよ、俺のために必要なこと」 「……だったらいいけどな」  それ以降、会話はなくなった。なんだかシンはふてくされているみたいで、いつもだったら反応をくれるようなひとりごとにもなにも言ってくれなかった。  まあ別に、反応がほしくてひとりごと言ってるわけじゃないし別にどっちでもいい。けど、いつもと違う様子のシンが心配というか、しっくりこないというか。  そんなことを考えていると、耳もとでペシャッ、という嫌な音が聞こえた。恐る恐る音のした方を向いてみると、白いものが肩についている。  これって、まさか――。 「アンタついてんじゃん、鳥に好かれてんのな!」  シンの嫌に豪快な笑い声が、空高く響く。  最悪だ。やっぱり最近ついてない。この天使が俺の部屋にやって来てから、俺の運がみるみるうちになくなっていってる気がする。こいつに吸われている気がする。  まさかお前、本当に悪魔なんじゃないだろうな。十字架でも掲げて悪霊退散してやろうか。  着ていたカーディガンを脱いで、ティッシュでふき取る。この服、二度と着れないだろうな。結構気に入ってたのに。  天使の機嫌がよくなったのはなによりだが、そんなことより、家に着くまでからかわれるのはだるかった。

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