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吉植翔太①
熱は引き、ようやく身体も起こせるし、外出もできる風邪程度になった。どれもこれも看病してくれた先輩と母さんのおかげだ。
といっても、あれが本当に先輩だったのかはわからないし、確認もしていないけど、勝手にそうだろうと思っている。
発熱から数日が経った土曜、また吉植先輩が来てくれた。なんでも、休んでいた分の講義ノートを貸してくれるらしい。同じ講義を取っているのは水曜の英コミと宇宙科学、金曜の世界史くらいなものだから、借りるべきは実質世界史のノートだけだったが、どれかかぶっているかもしれないからと、受講しているものすべてのノートを持ってきてくれた。
どれだけ優しいんだ、この人は!
キッチンから持ってきたアイスココアをひとくち飲む。冷たい液体が身体の中をすうっと通っていく感覚が楽しい。
先輩はにこにこしながら俺がノートを写しているのを見守ってくれている。
「もうだいぶいいのかい、体調は」
「そうですね、この鼻声が治ればほとんど」
俺の部屋にふたりきりだっていうのに、こんな声で会話をするのは情けない。
「そういえば星見、ごきょうだいでもいるの?」
「いえ、いませんけど……。どうかしましたか?」
「この前来たとき、お兄さんでもいるのかなって思っただけ。そっか、勘違いか」
どうしてそう思ったのかは、なんとなく聞けなかった。
もしかしてシンの存在に気づいているんだとしたら、それはものすごく困ることだ。きっとシンも嫌がるだろうし――。
って、シンはどこに行ったんだろうか。最近あの天使の姿を見ていない気がする。
熱で寝込んでいる間は意識がもうろうとしていて、そばにいたとしても気づけなかったろうけど、今はしゃきっとしている。昨日から見当たらない、と思う。どこかでお仕事でもしているんだろうか。
「でもまあ、星見はひとりっ子ぽいもんね」
穏やかな笑みが、無邪気に揺れる。ココアの入ったカップが、先輩に口づけをする。その赤いくちびるに目がいってしまう。心臓が暴れ回っている。どくどく、脈を打っているのがわかる。
ハッとして顔ごと視線を逸らす。このまま先輩のことを見ていたら、おかしくなってしまいそうだった。
自覚するまで時間がかかったわりに、ほしくなってしまうまでに時間がかからないのはどうしてなんだろう。こんなに好きなのに、その赤を食べてしまいたくなる。なにも言わせず抱き寄せて、むさぼるように口づけてみたくなる。
――ダメだダメだ! 思わず頭を抱えて息を吐き出す。
「星見、どうかしたの? もしかして、本当は体調悪い?」
顔をのぞき込んでくる先輩の表情が愛おしい。なにも知らない顔をして、メガネの奥に大きな瞳をきらめかせている。
「先輩、その、聞いてください」
気持ちを伝えてしまおう、そう思ったのに言葉が詰まる。告白ってこんなにもむずかしいことなんだ。
ゆっくり息を吸い込んで、それから吐き出して。
「先輩、俺――」
また言葉が止まる。今度は気持ちの問題じゃない。視界の端になにか見えたからだ。真っ白な鳥のような、それは――。
どん!
大きな音をたてて窓にぶつかり、そのままずるずる落ちていく。
おいきみ! なんてタイミングで、なんてことしてくれるんだ! 本当は叫び出したい気持ちだったけど、先輩がいる手前、そんなことはできない。たとえ居候がなにかをしでかしていたとしても。
「おや、今なにか音が……?」
「いやいやいや、たぶん鳥がぶつかっただけですよ!」
さっさと立ち上がって窓をかばう。ちらと肩越しに見てみれば、屋根の上には確かにシンがいる。勢いよくぶつけたんだろう、おでこを両手でおさえている。
上目遣いのシンと目が合う。口だけを大きく動かして、どっかいけ、と伝える。伝わったのかはわからないが、シンは俺を思い切りにらんだのち、たぶん舌打ちをしてから翼にくるまった。とりあえず姿が見えなくなっただけよしとしよう。胸を撫で下ろす。
「あ、あぁ、やっぱり鳥がぶつかったみたいです! さっきまで屋根の上にカラスかなにかがいたんですけど、今飛んでいきました!」
「そうかい、かわいそうにね」
なおも気になっているらしい先輩は、俺の背後を見ようとしていたけど、そのうち穏やかな笑みを取り戻して、その場に座った。
「それで、星見はなんて言おうとしてたの?」
そうだった。タイミング悪くシンが窓にぶつかってさえいなければ、俺はさっき、先輩に告白していたはずだったんだ。
もしかしてうまくいっていたら、今頃、あんなことやこんなことまで――。
そう考えると、シンのことがひどく憎らしく思えてきた。
あいつ、天使のくせになんで窓にぶつかってるんだ。しかも状況を見たらわかるだろうに、空気を読んでもうちょっとそこら辺飛んでてくれたっていいじゃないか。
「あぁ、いや、その――」
こんな空気になったのに、今さら告白なんてできない。そんなことしちゃいけないような空気が流れていた。
きっと大丈夫、もっと相応しいときがあるはずだ。だから、今はまだ。
「やっぱりなんでもないです。たぶん、勘違いだったから」
「そっか、ならいいんだけど。真剣な顔してた気がしたから、なにかあったのかなって思って」
「せ、せんぱぁい……!」
この吉植翔太という人は本当にすごい。俺のちょっとした変化さえ見抜いてくれるなんて。きゅん、と心が音を立てるのがわかった。
好きだ。俺はやっぱり、この人が大好きなんだ。
傍目からは不気味に見えるくらいの満面の笑みを自覚しながら、夏の熱にぬるくなりつつあるココアをひとくち飲んだ。
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