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吉植翔太②

 それからは他愛ない話をしばらくして、夕方になったあたりでおひらきになった。休みの日にも先輩に会えるなんて、俺はとんでもなく幸せ者だ! うれしくてしばらくは小躍りしていた。 「へえへえ、気味の悪いこった」  そこに天使が嫌な雰囲気をまといながらやってくる。  いつもは上機嫌そうに片方の口角を上げて俺に絡んでくるのに、今日はなんだか元気がなさそうだ。それもそうか、天使だっていうのに飛行に失敗して窓にぶつかったんだから。 「なんだよ、なにか文句でも?」 「さっさとそのカップ片づけりゃあいいのにって、思ってるだけだ」  ローテーブルに置いたままのふたつのカップをあごでさしたシンは、いつもと違うこの状況がよっぽど嫌なのか、口をへの字に曲げてぶーぶー言っている。  もしかして、帰ってきたときに先輩と俺がいい感じだったのが、気まずくて怒ってるのか? ふふん、かわいいとこあるじゃないか。  カップをふたつ持ち上げ、階下へ向かおうと扉を開ける。 「おい、ゆうすけ」  とげとげしい口調でシンが俺を呼んだ。振り返ろうとしたとき、風を感じた。窓は閉め切っているはずなのに、どこからか風を――それもそよ風なんて生易しいものじゃない、突風とでも言うべき風が吹いた。 「わっ」  思わずカップを持っていた手で顔をかばう。と、そのとき扉にぶつかったのか、手の力がすうっと抜け――。 「わあぁぁ!」  床に落ちたカップは、砕け散った。  このカップは俺のお気に入りで、いつかの誕生日に両親からプレゼントされたものだった。十数年大事に使ってきた、大好きなマグカップ。俺の、お気に入りの……! 「おま、おまえっ! なんてことしてくれたんだよ、最悪だ、本当にもう、なんなんだよ……」  しゃがみこんで、もう見る影もないカップの破片たちを手で集める。  突風が吹いたのは、きっと天使のせいだ。窓も閉まっていて、扇風機の電源も入っていないのに、風が起きるわけない。あったとして、こんなに強く吹くわけない。だとしたら、天使の仕業に違いないんだ。  いや違う。ここまで俺を追い詰めるんだ、本当は天使なんかじゃないんだろう。人間でないことは確かだけど、きっと天使なんてたいそうなものじゃないんだ。俺を悪の道にいざなおうとしている悪魔か、それとも俺をからかって遊んでいるだけのいたずら好きの妖精か、じゃないとこんなことにならない。  目の前のお気に入りだったものがにじんでいく。心も一緒にぽとぽと落ちていくような気がした。もう終わりだ、なにもかもぜんぶダメになった。 「ゆ、ゆうすけ、ごめ――」 「うるさいっ! この悪魔め!」 「……オレは、悪魔じゃない。天使だよ、本物の天使だ」 「そんなわけないだろ! ぜんぶぜんぶ、おまえが来てから狂ったんだ! おまえなんか嫌いだぁ!」  顔を上げることができない。  いろんな不運が続いて、風邪もひいて、体調も完全回復していない今の俺の心は、思っている以上に弱っていたみたいだった。先輩に会って、少しは回復したと思っていたのに。 「……忘れないでほしいのは、オレがここに来たのとアンタが大学生になったのがほとんど同時だってことだ。なあ、ゆうすけ――」 「っるさいって言ってんだろ! 出て行けよ、もう、出て行ってくれ……」 「悪かった、出てくよ」  天使は窓を開けることなく、すう、と外へ出て行った。  そのあとの行方は、俺は見ていない。もしかしたら翼にくるまって屋根の上でうたたねでもしているかもしれないし、ずっとずっと遠くへ、天界の方へ帰ったのかもしれない。  けどそんなこと、もはや俺にはどうでもよかった。居候していた天使は、ペテンだったんだ。それだけが俺に残った確かなことだった。  お気に入りだったものの破片を集めて、修復でもしてみようか。考えながらかけらに触れていると、いつの間にか小指の腹が切れていた。こいつにすら牙をむかれて、俺はもうどうしようもなかった。  唯一の救いは、先輩との飲み会が明日の夜だってことだけだ。誕生日を祝ってくれる先輩がいて、幸せ者だ。

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