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吉植翔太③
あのペテン師とケンカしてから、今の今まで、ずっと姿を見かけていない。でもそれでいい、はずなのに。
それでも確実な安心が持てないんだから、自覚している以上に深い傷を負わされたってことなんだろう。もう二度と顔も見たくない。あんなやつ、大嫌いだ。
結局、あいつは何者だったんだろうか。とにかく人間でないことだけは確かで、空を飛べるような、けど人型のなにか。
考えても考えても答えは出ず、結局考えるのは放棄することにした。きっと堕天使とかそういうやつなんだろう。だって天使にしては目つきが悪かったし、口調だって思ってたのと違った。やっぱり俺を誘惑しようとここまでやってきたに違いない。
「いやいやいや、今はそんなことより!」
これから吉植先輩に会うっていうのに、嫌なことを考えてしまった。首をぶんぶん振って、あいつのことは頭から消し飛ばす。
車掌さんが次の駅名を告げる。俺は開いていた本を閉じ、――もちろん、これは先輩から借りている『銀河鉄道の夜』だ。ジョバンニとカムパネルラのふたりがなんだか愛おしくて、だから俺も先輩に言ってみようかと思う。「どこまでも、どこまでも一緒に行こう」って――今日のために磨いてきた黒のカバンにしまう。
我ながら気合を入れすぎている自覚はある。いやでも、だって、もしかするともしかするかもしれないのに、いつも通りの俺でいるわけにはいかない。少しくらい、よく見られたいって思っても仕方ないだろう? だって好きな人とのディナーなんだから。
無意識にるんるん鼻歌を歌いながら、ちょっとだけスキップふうに歩きながら、待ち合わせ場所に向かう。駅西口の、白いオブジェのもとには、もうすでに先輩がいた。
小さく手をあげて、先輩、と声をかけながら駆けよる。
「あぁ、星見おはよう」
先輩の挨拶はいつでもどこでも「おはよう」だ。「こんにちは」や「こんばんは」ではよそよそしくなってしまうのが嫌なのだと、この前教えてくれた。そう知って以来、先輩からの挨拶を聞くたびに、先輩と俺との距離はその分だけ近いんだと感じて、たまらなくうれしい。
「お待たせしました!」
吉植先輩の様子がいつもと違う。うすい茶色のセンターパートに黒ぶちのメガネ、ボーダーのポロシャツにシュッとしたパンツ。大学で見るよりおしゃれな気がする。
俺との飲み会を少しでも楽しみにしてくれてたならうれしいな。思わず笑みがもれる。
「いや、僕もさっき来たところなんだ。ちょうどよかったね」
「そっか、よかったぁ。だいぶ待たせてたらどうしようと思ってたんです」
本当はどれくらい待っていたのかわからないけど、先輩のこういうところが好きだ。マンガに出てきそうな、カンペキな男性。そんなイメージがより強固になっていく。
それじゃあ行こうか。先輩の一声で俺たちは歩きはじめる。一歩一歩を踏みしめるように。このままこの時間が永遠に続けばいいのに、そんなことを思ってしまう。
たどり着いた店は、居酒屋と呼ぶには少しおしゃれすぎる場所だった。先輩曰く、イタリアンバル、というやつらしい。お酒と食事を楽しむ海外の居酒屋みたいなものだと言うが、それにしてはおしゃれすぎる。確かに、この会話の多さは日本の居酒屋に近い。大声で話す人っていうのは、お酒が飲める場所ならどこにでもいるらしい。
先輩は席を予約してくれていたようで、すぐ店内に案内された。窓側のその席からは、ぽつぽつ光の灯る街が見える。地上にも星空があるみたいで、無意識に笑みが浮かぶ。
まだ夕陽が落ち切らないこの時間帯は、これはこれでとてもきれいだった。
「あ」
ずっと向こうに、光が見えた。雲間から、すう、と地上に降りる、美しい光。あれは確か、今週の講義で出てきた――薄明光線、だったろうか。
「どうかした?」
「いや、あれ、この前の講義で聞いたなぁ、と思って」
「あぁ本当だ。天使のはしごだね」
げ、と苦い顔になる。せっかく先輩とふたりきりだっていうのに、どうして「天使」なんて単語を聞かなくちゃならないんだ。
それでも、あの光景に「天使」と名付けたくなるのはわかる気がする。神秘的で、未来が明るくなっていくようで、いいことの兆しに思える。
そうだ。これから起きるなにかが、俺にとって最高のことになる予感がしている。
「ふふ、気に入ってくれたみたいでうれしいな」
「景色もすてきだし、おしゃれだし、これで食事もおいしいんだったら無敵ですね。最高です」
「そうだね、無敵だ。じゃあ、まずはお酒でも頼もうか」
俺たちはふたりでメニューをのぞきこむ。
さっきの店員が言うには、メニューにある二次元コードを読み込んで、スマホから注文するシステムらしい。最近のレストランは進んでる。確かに店員を呼ばなくていいのは楽だし、口に出して注文しなくていいのは便利だ。なんて、外出嫌いが言いそうなことを考えている。
「そうだ、先輩、俺お酒はじめてなんですけど、おすすめとかってありますか?」
「おや、星見は二十歳 になったばっかりだったね。改めて、おめでとう。それなら――」
先輩は、む、と考える顔をしながらメニューをじっくり見ている。すらっと伸びた指が、ワインをなぞり、クラフトビールを通過して、サワーに行きつく。
「うん、そうだね。この辺りだったらアルコールも強くはないと思うよ。水を飲むのも忘れずにね」
「ふむふむ、なるほど。じゃあ、これにしようかな、アップルサワー」
「星見はリンゴが好きだね」
「あれ、バレてました?」
「バレバレだよ」
ふたりで笑いあっているうちに、店員がふたつのグラスを持ってやってくる。ひとつはアップルサワー、もうひとつはオレンジブロッサムというカクテルらしい。
「よし、それじゃあ、乾杯といこうか」
グラスを合わせ、ちりん、と音が鳴る。それに続けて俺たちは一緒に「乾杯」を言う。それから同時にひとくち飲んで、また笑いあう。
こんな一瞬が愛しくてたまらない。
ふたりでメニューを見て、好きなものを言い合って、一致したものを注文して。お酒を飲みながら、なんてことない話で笑いあう。
この先の未来のことを、ひとりで夢想する。きっと幸せになれる。きっと先輩は俺のことを拒まないでいてくれる。きっと、受け入れてくれるはずだ。
ピザがまるっとなくなり、パスタの皿が空になり、リゾットのチーズも余すところなく食べきった。
「俺、幸せです」
回りにくくなってきた口からは、思ったことが勝手に出ていく。
「先輩と一緒にお酒飲めて、いろんなこと話せて、楽しくて、しあわせ」
熱くなった頬を両手で包みながら、この幸福に浸る。なんて恵まれた人生なんだろうか。なんて理想的な瞬間なんだろうか。俺にはこれ以上の幸せは想像できなかった。
あぁ、好きだ。大好きなんだ。
先輩にどう伝えようか。どう言ったら先輩にこの想いのすべてが伝わるだろうか。回らない頭で考える。
「あれれ、飲ませすぎちゃったかな。ごめんね」
「いえ、そんなことはありませんっ」
敬礼をしながら言う。
思っていた以上に酔っていることは自覚している。けどたぶん、これくらい飲まないと告白なんてできないだろう。
テーブルの上に乗った空のグラスはみっつ。店員に回収された分もあるから、四杯は飲んでいるはずだ。これって、飲みすぎなんだろうか。お酒がはじめての俺にはわからない。
「名残惜しいけど、もう行こうか? それとも、ちょっと酔いがさめるまで、もう少しデザートでも食べる?」
「ううん、大丈夫れす、です」
「あらあら、これじゃ帰れないんじゃないかな。終電まで全然時間あるし、どこか別の場所で休もうか」
吉植先輩の手をぎゅっと握って、バルをあとにする。今の俺には計算はできないけど、たぶん、先輩がほとんどを払ってくれた気がする。差し出したお札が何枚か財布に戻されていたから。
外に出ると、夜は意外と冷えていて、手を握るどころか先輩の腕にしがみついた。これ、素面じゃ絶対できない。頭の片隅でそんなことを考えているあたり、俺は意外とあざといのかもしれない。
先輩の歩みに合わせて、どこへ向かっているのかわからないままに、足を動かす。だいぶ暗くなった街中に、店の明かりが色とりどりに光っている。青、赤、黄、緑、紫、ピンク――。
青いライトが照らす建物の前で止まった先輩は、俺の顔を見た。
「ちょっと、休んでいこうね」
「あい」
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