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天使と妖精①
次に目を開けたときに見えたのは、星空だった。
だからまだあのホテルにいるのかと思って怖くて、けどやっぱり拘束なんかはされていなくて。それにさっきと違って、服を着せられている。それも、ここに来るまでに着ていた服じゃない。
上体を起こして見渡してみれば、そこはどこか高い建物の屋上だった。周りに人の気配はなくて、ただ、柵にもたれかかる人影がひとつ見えるだけだった。
うすく紫に色づいた長い髪はおろされていて、吹く風がそれをさらさら流す。風に揺れる髪を耳にかけたその人の肩は、大きく上がって、すうと落ちた。ため息でも吐いたんだろうか。
さっきよりもはっきりした意識で、今までのことを思い出す。
俺は、先輩に遊ばれていたんだ。ホテルに誘われて、想いの通じ合った行為がはじまるんだと思っていたら、おもちゃにされた。耐えられなくなった頃に部屋の扉が開いて、誰かが入って来て、先輩を殴った。それから俺を、救ってくれた。
シンが、俺を――。
けど当のシンは俺のことを、嫌っているらしい。それも、「好き」という言葉を大声で遮るくらいには。
「よう、起きたかゆうすけ」
「シン……、俺、その」
「いいんだよ、アンタが無事――ではなかったけど、まァ、生きてたんだから。ホント、よかったよ」
振り向いたシンは、今にも泣いてしまいそうな笑みを浮かべていた。それだけ心配をかけたってこと、なんだろうか。でもきみは俺のこと嫌ってるんじゃ……。
シンの気持ちがまったくわからない。
そういえば、シンは俺に忠告してくれていた。先輩が“そういう人”だってことを、シンは知っていたんだろうか。天使として俺に危険を知らせてくれていたんだろうか。それなのに、俺は。
ため息を吐いて、頭を抱える。まだ身体がだるい。頭も痛い。たぶん、お酒の飲みすぎもあるんだろうけど、今までずっと盲目的に信じていた人に遊ばれていたってことのショックがでかい。
正直言うと、まだ信じられない。まだ、好きの気持ちが、砂時計のようにさらさら落ちてくる。
「だァから言ったろ、ちったァ疑うこともしろって」
「……けど、疑えなかったんだ、大好きだったから」
「敬愛なる先輩、ってか。そんなだから痛い目見るんだよ、ゆうすけは」
からかわれていることに、少しだけ腹が立つ。
そんなんじゃなかった。簡単に言い表せるような、軽い想いじゃなかった。
「……本気だったよ。俺、本当に先輩が好きだったんだ」
「本気だっただァ? それって、その……こ、恋、ってやつか」
天使は翼をばたばたさせている。
「そうだね、恋ってやつ。だと思ってたんだけどなぁ……」
「まさかアンタ、まだ好きだとか言わないよな、な?」
俺は首を横に振った。
そんなことは言わない、言えないけど、きっとまだ嫌いにはなれない。あんなに大好きだった人なんだ、簡単に嫌いになるなんてことできない。裏切られたような感覚はあるけど、それでも、少しだけでいいから、信じてみたい。あれが本当の先輩じゃないんだって、信じていたい。
バカだよ、アンタは。近くでそんなことを言うのが聞こえた。確かに俺はバカだと思う。そうじゃなかったらこんなこと考えないだろうから。
まだ少し、バカでいたいのかもしれない。
「あーその、アイツさ、人間じゃないんだよ」
「……な、なに言って」
「妖精ってやつ、知ってる?」
そういえば、俺がここに運ばれてくるまでに、先輩とシンの口論が聞こえていた気がする。
知り合いだったのかと思った。気安い仲でもないと言えないようなことも聞こえていた、気がするから。けど、それと同時に、そうとう仲が悪そうでもあった。
――これは許されることじゃないってわかるだろ、このクソガキが!
――僕はきみと同じかそれ以上人生を楽しんでいるんだ、僕がガキならきみもガキだね。
そういう意味だったのか。先輩がシンと同じだけ生きているって、つまり、先輩も人間ではない――と。俺が先輩に惹かれていたのも、先輩のあの不思議な雰囲気も、妖精だからだったのか!
とはならない、なるわけない。
確かに俺には天使の居候がいる。けどだからって、そんなことを簡単に信じるわけにはいかない、というか、信じられない。
「まあ別に、今すぐに信じろってわけじゃない。なんなら信じてくれなくたっていい。どうせアイツとは関係を断ち切るんだろ?」
シンは俺の顔を見つめて、どんどん表情を崩していき、最後にはあきれ顔になる。
「はァ? アンタ、マジで言ってんの? あんなクソヤローとまだ仲良くしてたいってのかよ」
「俺はまだ、……信じたいんだ」
ホントにまだ好きなのかよ……。絶望のにじむその声は、お仕事ってだけでなく、俺を本気で心配してくれているように聞こえた。
きっと天使として俺に構ってくれているのに、俺はそれに応えられない。俺は、砂時計からさらさら落ちて来る砂を見ながら、なくならないように手ですくっている。本当にバカだ。
「でもさ――」
遠くから声が聞こえる。シンの顔がゆがむ。俺の心は、まだ弾もうとしている。
「僕のことを好きだって本人が言うんなら、きみに止める資格なんて、ないよね?」
吉植先輩の背中には、蝶々のような翅 が見える。どうしても美しくて、けれど恐怖心をあおる。
「アンタ、よくもまあ当然みたいな顔して、ここ来られたよな」
「でも星見が僕のことを許そうとしてくれているんだから、来たっていいよね」
「おいゆうすけ、本気でアイツのことを、その――、今までと同じように接するつもりなのか」
「ねえ星見、許してくれるよね? ちょっとしたいたずらだったんだよ」
少しだけうれしくなって、けどホテルでのことを思い出して心が沈む。先輩は、本当に遊ぶためだけに俺に近づいたんだろうか。
先輩……。つぶやいて、そのあとに続ける言葉を探している。
「ゆうすけ、アイツのことはもう考えるな。オレがいるからいいだろ」
俺のことが嫌いなはずなのにそんなことを言うシンが理解できない。どういうつもりで、俺になにをさせるつもりで? 考えたってなにもわかるわけない。人知の及ばない天使の言うことなんだから。
ふわり、風が舞う。見れば、先輩の背後にある翅がぱさりと動いたところだった。
「かわいそうだね、星見。僕ならきみを幸せにしてあげられるのに」
誰が言ってんだっての。天使が悪態をつくのが聞こえる。
いつも通りの俺なら、もし相手が先輩じゃなければ、そうだそうだ、と賛成できたのに。こんなことになっても、先輩の言う幸せに手を伸ばしたくなってしまうのはどうしてだろう。
「ふふ、なにもわからないっていうその顔、いいね。僕の好みだ」
「本性を隠す気がなくなったのか、妖精サマ? いいご身分だぜ」
俺の世界の外側で、ふたりは言い合っている。俺だけ砂時計の中にいるみたいに、外側とガラスで隔たっているみたいだった。
さらさらと流れてくる好きの砂が、俺の頭に降り積もる。払っても払っても、足を取られて身動きが取れなくなっていくだけ。
ぽわ。頭が働かなくなっていく。
「あとさァ、アンタ、ゆうすけたぶらかすのやめろよ」
「おや、バレていたのかい。出来損ないの天使のくせに、そういうのはわかるんだね」
「ゆうすけ、しっかりしろ。アイツの支配から目ェ覚ませ。くっそ、妖精ってのはめんどくせえな、だから相手にしたくなかったんだよ」
「あはは、ほめ言葉として受け取っておくよ」
先輩らしくない豪快な笑い声が空に響いて、ぱちん、と指を鳴らす音が耳に届く。
夢から覚めたみたいに、俺は砂時計の外側に出てきた。好きがどこかに消えている。俺にまとわりついてくる気持ちは、もうなにもない。
先輩を見つめていても、なにかを喪失した感覚ばかりで、愛も恋も、なにもない。むしろ嫌悪感が湧いて出てくる。俺はこの人にひどいことをされたんだ。苦しくて辛くて、泣いてしまいたくなる。
「星見、気づいていなかったと思うけど、ぜんぶ僕の力だったんだよ。妖精にとって、人間を手のひらの上で躍らせることなんて、簡単なんだ」
俺の気持ちが、自分のものじゃなかったと否定されたみたいで、怖くなった。この人外ふたりに、恐怖心が募っていく。
妖精にできることは他にもあるんじゃないだろうか。俺はまだ、この人に遊ばれているんじゃないだろうか。天使の方はどうだ? 天使は、俺でなにかしようとはしていないか。
シンはそんな俺を見て、舌打ちをした。そりゃそうだ、嫌いな人間のおろおろしている姿なんて見たくないに違いない。それからシンは先輩の方を向いて、強くにらんだ。
大きく息を吐いた先輩は、俺に近づいてくる。その手が頬に、身体に触れるのが怖くて、俺は後ずさる。
「大丈夫、もうきみで遊んだりしないよ。星見、ごめんね?」
「あとさァ、アンタ、早くソイツから出てけば?」
先輩は、ハッと目を見開いてから、いつもより邪悪にほほえむ。
「天使くん、そんなことまで知っていたの?」
「そりゃ、天使だからな」
ふふ、あやしく笑いながら、先輩はふらりと揺れた。背骨が抜けたみたいにぐにゃっと曲がって、前に倒れてくる。慌てて受け止めてから、先輩の肩があったあたりになにか浮いているものを見た。
手のひらくらいの小ささのそれは、ぱたぱたと蝶々の翅を動かしながら飛んでいる。フィクションで見るような妖精だ。
けどイメージと違うのは、それが女の子じゃないってこと。人間の男の子をそのまま小さくしたようなそれは、先輩とは似ても似つかない、少年のような笑みを浮かべている。
「これで満足かい、天使くん」
「あのなァ、オレにはゆうすけがくれたシンって立派な名前があんの」
すべてわかっているらしいふたりに置いてけぼりをくらっている俺は、混乱が深まるばかりだった。
つまり先輩は先輩じゃなかったってこと? けど先輩の身体はあるから、先輩は実在する人間であって、けどこの妖精に動かされていたみたいだから……?
「シン、……こ、これってどういう」
「つまり、吉植って人間を自分好みに動かしていたやつがいて、それが妖精ってわけだな」
「そうだね。僕は耳の中から入って、脳という制御室をちょっと操作していただけだよ」
俺はロボットを思い浮かべた。空っぽのロボットと、それを操縦する人間。中身はあるけど操作されていた吉植先輩と、それを操縦していた妖精?
「まあ、僕がやってたのは欲に従順にさせる遊びだから、操縦とまではいかないけどね」
「えぇっと、ということは、先輩は先輩で存在してるってこと?」
「なんなら今までの記憶ぜんぶ持ったままだと思うよ。妖精によっては健忘症を引き起こさせたり、用済みになったらさよならしたりするのもいるみたいだけど、僕、そこまでのことしないから」
けど、俺にゴーカンまがいのことをした記憶を持っているっていうのは、いかがなものか。先輩はそのまま大学生活に戻れるものなんだろうか。
――というか、「欲に従順にさせる遊び」ってことは、先輩の中には多少なりとも俺をあんなふうにしたいって思いが、あったってこと?
手の中にいる先輩のことが怖くなって、けど振り落とすことはできない。すっとしゃがんで、その場に寝転がらせる。
「あのとき風を吹かせたのも、アンタなんだろ」
「なあんだ、そんなことまでわかってるのかい? おもしろくないなあ」
「あのときって、風ってなに?」
シンが言うには、俺が風邪をひいて、先輩が最後に来てくれた日のことらしい。つまりは昨日。先輩が帰ってから、俺が部屋を片づけていたとき。カップを持った俺に突風が吹いた、あのとき。俺は天使の仕業だと思ったけど、どうやら先輩の、妖精のしたことだったらしい。
いつも先輩の中にいるというわけでもない妖精は、あのときだけ、俺の部屋の外にいたんだとか。窓の外を注意深く見ていれば、見つけられたかもしれない。シンのせいだなんて決めつけたりしないで、あんなに責めることもなかったかもしれない。
そんなことを考えたって、あのときの俺は妖精のことなんて知らなかったんだ。だったら――。そんなに簡単じゃない。知らなかったからって、シンを責めたことは変わらない。過去を変えることは、できない。
あのせいで俺はシンに怒鳴りつけてしまって、それから嫌われたんだ。この小さな妖精がそんなことさえしなければ、俺はシンとうまくやれていたのに。嫌われることなんてなかったのに。
ぎり、と歯が鳴った。
「シン、俺……、ごめん」
「ゆうすけが謝るようなことじゃないだろ、いいんだよそんなのは」
そっけない気がした。いつもより、優しさがない。
あぁ、本当に嫌われちゃったんだな。
俺は今日、一気にふたりの友人を失った気分だった。
それから俺たちは、ぎすぎすした雰囲気を背負いながら家路についた。と言っても、天使に横抱きにされて飛んで帰ったから、「家路につく」って言い方でいいのかはわからない。
妖精と吉植先輩も、同じように飛んで帰るって言ってたけど、あの小さな身体で先輩のことを持ち上げられるんだろうか。そんなことを考えつつ、けど、そういえば先輩の身体に入ってても翅を出すことができるんだったなと納得した。
便利な人外たちだ。
家に帰ったら母さんが飛びついてきた。こんな夜に帰ってくることなんてはじめてだったから心配したらしい。遅くなるとは言ってあったけど、まさか日付をまたぐとは思っていなかったんだろう。俺も、そんなことは考えもしなかった。
あのときシンが助けてくれていなければ、ホテルのベッドで気絶しながら朝を迎えたんだろう。そう考えると、母にぎゅうと抱きつかれているのも心地がよかった。恐怖がうすれていった。
父さんは眉を下げながら叱ってくれた。あまり強くはなく、優しい叱り方だった。母さんが席を立ってから、「でも大学生だからそういうこともあるよな、自由にしていいんだからな」と言ってくれた。うれしかったけど、そうじゃないんだ、とは言えなかった。
今日は――もう日付が変わっているから、昨日と言うべきだろうか――日曜だ。次は月曜日。つまり、寝て起きたら大学に行かなきゃならないってことだ。月曜は先輩と同じ講義はない。けど、いつもは学食で一緒に昼食をとっていたから、どうしようか。
他にも考えるべきことはたくさんあるのに、まぶたが重い。ベッドに横になって、すぐ、俺は眠りについた。
シンはといえば、俺を部屋に送ってくれたあと、どこかに消えた。いつもなら夜はこの部屋にいるのに、今日は違った。なにか用事があったのか、それともここにはいづらかったのか。どっちでもいい。
どっちでもいいけど、俺が悲しいという事実だけがこの部屋に残っている。
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