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行方知れず②
シンがいなくなって、もう一週間が経とうとしている。つまり、俺が家から出なくなってからも同じ時間が経っている。
あの日、俺の中にあったいろんな気力が尽きてしまった。大学に行くことも、先輩やこうちゃんと連絡をとることも、ふたりと遊ぶことも、なにもかもできなくなった。
好きだったサイダーを飲むのもめんどうになって、最初の内はリビングにおりていくことすらできなかった。そこから見れば、今は階下に行くようにはなったんだから、少し進歩だ。
あの頃のすべてが夢だったんじゃないかと思うときがある。天使が俺の部屋に来たのも、先輩に妖精が取り憑いていたのも、こうちゃんと運命の再会を果たしたのも、ぜんぶ俺の見ている夢幻だったんじゃないか。ぜんぶ俺の妄想で、本当はずっと引きこもっていたんじゃないか。
そんなわけないことくらいわかっている。未だに俺のリュックの中には先輩から借りた『銀河鉄道の夜』が入っているし、こうちゃんと行ったあのときのプラネタリウムのチケットも財布に入っている。
ジョバンニとカムパネルラのラストがああだったのは、俺の人生の伏線だったのかとすら思わされる。一緒にいるどころか、ふたりは離れ離れになってしまったじゃないか。
プラネタリウムで見た星座の神話たちは、立派すぎて俺を嘲 っているように思えてくる。英雄やら神さまやら、今じゃ天使すら遠い話なのに。
最近、夜は眠れていない。夜空を見上げて、また天使が星まで連れて行ってはくれないだろうかと夢想する。屋根にあがって落ちそうになれば、シンが助けてくれるんじゃないかと想像する。頭の中で考えるだけで、実行する気はない。助けてくれなければ、俺は死ぬだけだ。
けどまあ、もう二度とシンに会えないのなら死んでしまってもいいのかもしれない。そんなことを思うときもある。苦しくてたまらない。
――こんなものが恋でたまるか。
毎朝、うまく起きることができず、動けるようになるのは午後になってから。それでも立ち上がることはできない。やっとベッドから降りられるのが午後三時頃のことで、活動なんてたいそうなこともできない。外に出ることもなく、ただご飯を食べて部屋にこもる。それから風呂に入って、寝る前に星空を見上げて、シンがいたらどんなことをするだろうかと考える。そうして涙を流して、泣き疲れてから寝落ちする。
そんなことを七回も続けている。我ながらバカだと思う。
さっさと忘れてしまえばいいのに、そんな簡単にはいかない。だって、はじめて成就した恋だったのに、はじめて心も身体もつながることができたのに、諦めるなんてできない。
特別な恋だった。
今日もベッドから降りることなく午後を迎えた。スマホを見るのもおっくうで、ただただ天井を見上げる。きっと先輩やこうちゃんからの着信履歴でいっぱいになっているに違いない。心配する声すら、今はわずらわしい。
ぼんやり窓の外を見てみれば、まだ明るいのに月が浮かんでいるのが見えた。なんていう現象だったっけ。考えることもできない。
寝返りを打って、ぶたのぬいぐるみを抱きしめる。
「どこ行ったんだよ、はやく帰って来てよ……」
つぶやいても返事をくれる人はいない。もう二度と帰ってこないかもしれない。
天使は嘘をつかない? そんなのでたらめじゃないか。ずっとそばにいるって言ったのに。どこにも行かないって、言ってくれたのに――。
いつの間にか、俺はまた眠っていたらしい。気づけばあたりは真っ暗で、窓の端の方に満月が浮かんでいる。机には晩ご飯の雑炊が置かれていて、母親の優しさが目にしみる。
重たい身体を無理に持ち上げ、イスに座る。手を合わせてからレンゲをつまみ、咲いたお米をすくう。ほんのり出汁の香りが鼻を抜け、温かさが口に広がる。ため息を吐く。こんな生活をしていていいわけない。シンがいなくなったくらいで、こんな。
もう枯れ果てたと思っていた涙が、目の前をにじませる。ぽたぽた、机に落ちてははじける。頬を濡らすそれを拭いもせず、食事を続ける。おいしい、しょっぱい、会いたい。
口から勝手に嗚咽 が漏れ、けれど無理やり米を詰め込む。ろくに噛むこともしないで飲み込む。たまに息を整えて、洟 をかんで、満月を見上げる。大きくてまあるくて、俺にはない希望の色をしている。うらやましくてたまらない。
俺も連れて行ってくれないか。どこだかわからないけど、シンのいる場所へ。もしくは月まで。そしたらきっと楽になれる。
最後のひとくちをゆっくりと飲み込む。脱力しきってしまって、ベッドまで戻るに戻れない。このままイスの上で溶けてしまうんじゃないか。夜の生ぬるい風が俺の濡れた頬を撫でた。
「おやおや、まあまあ――」
聞き慣れた、ずうっと聞きたかった声が、どこからか風に乗ってやってくる。
「かわいい子が泣いてらァ」
うまく動かせない身体は置いて、音のした方へ目だけを向ける。それについていくように、顔が自然と上がる。
窓の外に見えたのは、月光を反射する無垢な翼、さらりと流れるうすく色づいた美しい長髪。慈しみに満ちた瞳は目尻の吊り上がったまぶたに守られている。背後には大きく輝く満月。神秘的な光景に、涙が止まる。
「……し、シン?」
「あぁ、アンタの天使、シンだぜ」
「帰って来てくれたんだ。もう、二度と会えないのかと思った、シン……」
とっ、シンが屋根を蹴ると、俺の方へ舞い降りてきた。そのままシンの腕の中におさまる。温かくて、柔らかくて、優しい。
「ごめんなゆうすけ、約束破っちまった」
シンは骨ばった大きなその手で、俺の頭を撫でている。たまにおでこに降ってくるキスがうれしくてたまらない。そこから幸せが全身に広がっていく。夢の中にいるみたいだった。
重たい腕を持ち上げて、シンの胸をぽかぽか叩く。そのたび強くなる抱擁に、息が苦しくなる。けど、詰まった息の分だけ愛を叫びたくてならない。
「どうして、俺になにも言わないで行っちゃったんだよ。怖かった、ひとりぼっちにされるのかって、また騙されたのかって、苦しかったよ」
「悪かったよ、本当にごめんな。言い訳にはなるが、天界 から呼び出しくらっちまってさァ。しばらく仕事サボってたのも、人間に恋してるのもバレて、大目玉くらってたんだよ」
天界のルールに背いたシンは、お偉い天使さまたちに叱られてきたそうだ。そのうえ、これまでのサボっていた分のペナルティとして普段の数倍の量の仕事を言い渡された。達成するまでの間は、恋人との接触を禁止。それすら従えないのなら、恋人との記憶をすべて消したのち、人間界での生活をすべてなかったこととして因果律を操作する。そう脅されていたらしい。
正直、俺にはあまりわからなかったが、俺の中からシンが生きていた証が消されてしまうのは耐えられない、それだけは確かだった。シンも同じだったようで、おとなしく天界の言うことを聞いていたのだそうだ。
「これで晴れて自由の身――というかまあ、仕事はしなきゃいけないが、それでもゆうすけと一緒にいられる。天界 のヤツらもたまには気が利くもんだなァ、俺から天使の力を剥奪 しないでいてくれるなんてさ」
またひとつ、ぎゅう、と強く抱きしめられ、それからゆっくり離れていく。大きくて温かい手に、頬を包まれる。目の前のうれしそうな笑みが胸をきゅんと締め付ける。目を閉じた。
くちびるに触れたのは懐かしい体温。離れるのが惜しい。シンも俺と同じ気持ちだったのか、永遠と思われるほどの数秒、そのままでいた。
「なあゆうすけ、オレとデートしないか? 満月の星空を飛行しよう」
濡れる視界もそのままに、うなずいた。
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