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エピローグ①

 夢の中にいるような感覚が、今でも続いている。  シンの背後から羽ばたく音が聞こえて、下に見える屋根が小さくなっていく。視界にはだんだんと街の全体が見えるようになってくる。足元に目をやればぽつぽつと灯る家庭の光、見上げればちらちらと光る星たち。まるで星座に抱かれているみたいな光景の中、俺はシンと指を絡めている。  夜空の中にいる。もう少しで俺も星と友だちになれるような気がした。あの頃の夢が叶うような、叶っているような、そんな気分でいた。  俺は星が好きだ。そして星みたいに自分らしく輝き続けるシンのことも大好きだ。きっと俺は、いつでも満月とはいかないけど、自分の形を変えながらも星を愛し続ける月になれる。  月に愛を誓ってはいけないらしい。月はその形を変えることから、気持ちも移り変わると言われているからだ。けど俺は、愛の形はひとつじゃなくていいと思う。ときには満ち溢れていて、ときには鋭いくらい想い、ときには嫉妬で暗くなってしまうこともある。ほら、月みたいじゃないか。  自由な左手を、夜空に向かって伸ばしてみる。届くわけはないけど、前よりも近づいたような気がする。  右手がぎゅうと握られる。シンの方を向いてみれば、いつもとは違う安らかな笑みを浮かべた横顔が見えた。 「楽しいね、シン」 「そりゃあよかった」  まるで他人事みたいに言うから、俺は頬を膨らませる。俺だけのための空中遊泳じゃないだろ。俺はきみと一緒にいるんだ。 「なんだよ、シンは楽しくないの」 「誰がそんなこと言ったよ。オレだってゆうすけと飛べて、うれしいに決まってる」  楽しいし、うれしいし、心も胸も躍ってるし、泣きそうなくらい、天にも昇る気持ちだ。  シンは大げさに付け加えた。確かに、俺たちが高度を増すたび、その分高く天に昇っているような気分だ。だからって降りても気分は落ちない。だってシンと一緒にいるんだから。もう離れることはないんだから。  うれしくてつい顔を笑みで崩す。ここに来るまでにいろんなことがあった。負の感情が噴き出すことだってあった。けど、隣にいてくれたのがこの天使だったから、俺が恋をしたのがシンだったから、こうしてふたり空を飛べているのだろう。  シンが俺を見つけてくれて、俺もシンに惹かれるようになって。本当に俺って幸せ者だ。  ずいぶん高くまでのぼってきた。地上から見ても大きかった満月が、すぐ近くにあるように感じられる。そこまで来て、俺たちは両手を取り合い、向かい合った。 「シャルウィーダンス?」 「なんだよそれ」 「わかんないなりに、踊ってみようぜ?」 「変なの……。でも、喜んで」  シンの手が俺の腰に回ってくる。もう一方の手は俺の手を握ったまま。ルールもなにも知らないけど、社交ダンスをしようとしていることくらいはわかった。だから俺も、シンの肩に手をのせる。  右に左、行ったり来たり。足をそろえて、回って進んで、戻って回って。大きく揺れて、手を離して、シンに寄り掛かって。つないだままの手を中心に俺が回って、抱きすくめられて。星々の演奏で、月がワルツを歌っている。風が一緒にステップを踏む。  そこにはふたりだけの世界が広がっていた。  ずっとこのまま一緒にいたい。もうどこにも行かないで。俺の隣から、離れないでくれ。月のリズムで踊りながら、俺はそんなことを考えていた。 「あたりまえだろ」  考えていただけなのに、シンはそんなふうに答えてくれる。これが天使パワーってやつなんだろうか。 「会えなかった一週間で仕事はぜんぶ取り戻した。なんならちょっと多めにやっておいたから、当分はサボってても大丈夫だ」 「……シンがまた天界に呼び出されたら、俺が嫌なんだけど」 「ジョーダンだよ、ジョーダン。ゆうすけが大学行ってる間にちゃんと仕事するって」  それはそれで、少し寂しい。大学でも一緒にいてほしいし、家に帰ったらずっとくっついていたい。  俺の中ではシンと離れる時間がないのが理想で、それはつまり、シンが天使のお仕事をサボらないと実現しない理想だった。どうしようもない。 「そんな悲しい顔するなよ。オレだって、ホントはゆうすけと離れたくない」  いつの間にこんなに好きになっていたんだろう。この手を離したくない。いつまでもずっと、つながっていたいなんて考えている。 「だからさ、こうしよう」  シンは俺の右手を取った。手首には、うすく紫色に光る輪。それをシンは、ゆっくり外そうとする。 「ちょ、ちょっと待ってよ」 「大丈夫。場所を移動するだけだ」  眉を下げて笑う様子は、あまりにも儚く見えた。シンはやっぱり天使なんだな、なんて。  完全に外れたうす紫の輪を、シンの指先が押し縮めていく。手首のサイズだったそれは、小さな穴になる。 「左手、出して」  そのセリフで、これからなにをされるのか予想がついた。気恥ずかしくて、うれしくて、目頭が熱くなってくる。  左手の指を広げて、シンの前に差し出す。シンの指につままれたその輪――リングは、俺の左手薬指に入ってくる。  咳ばらいをしたシンは、照れくさそうに顔を赤らめながら口を開く。 「ゆうすけは、病めるときも健やかなるときも、オレを愛すると誓うか?」 「誓います」  ずっと薬指にはまっていくリングを見ていると、第二関節まで進んだまま動きが止まる。シンに「おい」と言われた。顔を見上げると、少しふてくされた表情で口をとがらせている。続けろ、という意味なのだろう。俺だって恥ずかしいんだぞ。 「……シン、富めるときも貧しきときも、俺を愛することを誓ってくれますか」 「誓うぜ、もちろんな」  薬指にリングがはまる。  思わずシンの胸に飛び込んだ。背中に回した腕で、力いっぱい抱きしめる。いつの間にかぼろぼろと涙をこぼしていて、幸せを噛みしめていた。 「ゆうすけは泣き虫だな」 「そんなこと、ないもん」  シンは笑いながら俺の頭を撫でる。大きくて優しくて、温かい手のひら。 「待ってよ、きみの分のリングがないじゃないか」 「あー、まあ、ないよな」 「ちょっと待ってね」  なにもないことを知りながら、自分のポケットを探る。なにか、指にはめられるものはないだろうか。例えばリボンとか、ひもとか。本当はリングがいいけど。  と、なにかを見つけた。これが誓いの指輪でいいわけないけど、今はこれしかない。ごめんな、シン。思いながら、シンの左手を勝手に取る。 「好きだよ」 「オレも大好きだ」  それをシンの薬指に巻き付ける。 「――って、輪ゴムかよ!」 「仕方ないじゃん、今はこれしかなかったんだ」 「だからって、……別に今はなくたってよかったよ」 「今だからこそ、必要なんだよ」  俺の指にはうす紫のリング、シンの指には茶色の輪ゴム。それでも、ふたりの間に通う愛は本物だ。 「よし、帰るぜ」 「え、まだいろんなところ行こうよ。はじめて会ったとき行った展望台とか」 「いいのか? 家に帰らないってんなら、次に行ったところでアンタを抱くぜ? あと、アレがはじめてだと思ってるんなら心外だな」 「……それは、全然よくないね。早く帰ろう」 「展望台はまた今度な」  わかったよ。言うと同時、視界が反転する。くるりと身体が回って、いつの間にか後ろにシンがいる。肩から回された腕は、俺の胸辺りできゅうと結ばれている。もう二度と、絶対に離さないと示すように。  俺はその腕をつかみ、幸せに浸っていた。

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