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第3話 水面に触れる(3)
扇風機の風で揺れるカーテンの間から朝日が差し込む。
ピピっというスマホの音につられ、静也は体を起こす。
ーーーAM7:00の文字。
重苦しい梅雨の湿度を含んだ空気が、寝起きの体に巻き付いてくる。
静也は周りを見渡す。いつもと変わらぬ部屋、黒いテレビの画面に映る自分と目が合う。
ソファーベッドから足を下ろし、立ち上がる。
(……いない、な)
だんだんクリアになっていく思考、昨日訪れた男の存在がないことに気付く。
室内は静かで、自分以外の物音や存在を感じない。見渡した先、静也はキッチンのカウンターに見慣れない存在があるのに気づく。
皿の上に置かれ、ラップをかけられたサンドウィッチ。ハムとレタスが挟まった薄めのそれは、考えなくても“昨夜あった男”が置いていったものであろう。
「……」
静也は躊躇することなく、それを口に運ぶ。そこまで時間は経ってないが、ラップでしけったパンの歯触り。特段美味しいわけでも不味いわけでもない、普遍的なサンドウィッチ。
食べながらふと静也は、周りの状況に違和感を覚える。
部屋が片付いている。昨日はレポートを書きながら、コーヒーを飲んでいて寝落ちた記憶がある。だが机にあるのは、揃えて置いてある教科書や資料。片付けた記憶のないマグカップが棚に綺麗に戻っている。
(片付け、してくれたんだな)
そいつの存在はいなかったが、確かにここに自分以外の人間、いや正確には人間ではないが、そこにいた記憶が部屋に残っていた。
食べ終え、皿を持ち上げると下に何か紙が挟んであった。
『昨日はありがとう』
走り書いた雑な文字、お世辞にも綺麗とはいえない字で昨日のお礼が書いてあった。何か急いでいたのだろうか、それともそもそもか、そんなことも知らない男。
静也は一つ伸びをすると、大学へ向かうため朝の準備を進めた。
ーーー
梅雨の中の晴れ間、というには雲が多い空。薄雲が空全体を覆って太陽を隠そうとしている。
今日の講義は午前中だけ。あくびを欠きながら大学までの道をトボトボ歩く。その時、後ろから聞き慣れた声が静也の名前を呼んだ。
「おはよう、陽介」
静也が振り返るとそこには、やや静也より背の高い、がたいのいい男が静也の元へ歩いてきていた。静也は聞こえた声に挨拶を返す。
声の主は陽介、高校からの静也の数少ない友人。にかっと眩しい笑顔を静也に向ける。
「今日の講義、午前だけだって?」
「うん、午後は俺の受ける講義ないから、帰る」
「いいなぁ、俺はみっちり最後まで」
朝会うと声をかけてくれる陽介とは学部が違う。講義が被ることは2年生になってからグッと減った。それでもこうして話しかけてくる陽介は所詮いい奴である。
「じゃあ、俺こっちだから」
「おう、じゃあな」
陽介と手を振って分かれると、1番最初の講義へ歩みを続けた。
大学生活は順調で必須科目の再履修の目には今の所あっていない。忙しい時は忙しいが、ある程度楽しみつつ学業に励んでいる。
「はい、出席を取るのでこれに名前書いていって」
講師の声が講義室に響き、ざわついていた空気がしんとする。静也は名簿に名前を記入すると資料の指定ページを開いた。
ーーー
午前中の講義が終わって、静也は電車に揺られていた。車内は空調が効いていてやや肌寒い。カーディガンの袖を伸ばして指先をしまう。
車内の放送で最寄駅に着くのはもう少し、出口に向かって少し足を動かす。
車内から出た先のホーム、湿った気持ちの悪い空気が全身を包む。梅雨本番、雨が降ってないとしてもジメジメした空気は容赦なく、静也の顔を歪める。
そしていつも使っている道路は工事中。忘れていたわけではないが、やはり1番近い道が使えないのは不便でため息が溢れる。
迂回した先、昨日の道が目にはいる。なんの変哲もない脇道、おかしい。静也は全く何も変化のない道にショックを受ける。
(ここ、昨日のとこだよな)
静也は足を路地の前で止めた。
昨日見たものはまさか夢だったか、と思わせるほどそこには何もなかった。ビルの横に付けられた空調のファンが忙しく回っているだけだった。
血の一滴も、規制線も、騒ぎも何もなかった。
暑さくる汗とは別の汗が背に伝う。
(……夢、な訳ないよな)
静也はしばらくそこで立ち尽くした。
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