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第8話 水面で踊る
陽介と映画を見に行ってニルスに遭って、あれから各々解散になった日から3日ほどが経った。週末の休みも明けて大学へ通う。
静也は雨の中傘を差し、夕暮れの街を歩いていた。今日の講義は5限目まで、雲で見えないが、日はまだ沈みきってはおらずほんのり周囲が明るい。途中で寄ったスーパーの出来合いの食品を片手に家路を歩く。
足元で跳ねる水滴が、ズボンの裾に染みて不快。静也は早く帰って着替えよ、と足をテンポ良く動かす。
家の前の道路がもうすぐ見える、そう思ったそのとき、視界に入った脇道に目を奪われる。
足元に広がる水の色が不自然に赤くて、もうしばらく経ったはずの光景がフラッシュバックする。
恐る恐る顔を横にすると、倒れている黒い服の男が目に入った。
(冗談……だよな)
静也は向いた顔に合わせて体を路地に向ける。
まだ日の沈みきっていない夕方、雨とは言えど視界は割とはっきりしている。
そこに倒れている男、警察?救急車?俺は何をすればいい?と頭が混乱する。
すると、その倒れていた男がわずかに動いたのだ。
静也はどことなく安堵し男に歩み寄る。
「だ、大丈夫ですか……!?」
うつ伏せの男がのそっと起き上がる。腹側から垂れている血液から、かなりの怪我を負っているのが想像つく。静也は近寄りながらスマホを取り出し、救急車を呼ぼうと画面をタップし始めた時、その男に手を掴まれたのだ。
赤く血が滲んでいるその手の力が思ったより強く、静也は驚くとともに屈んだ体勢を崩して尻餅をつく。そこまで動揺することか、と思われそうだが静也が驚いたのは手を掴まれたからだけではない。その掴んできた男の顔がよく見知った人物だったからだ。
「……静也くん、それは不要だよ」
「お、前」
ニルスーー倒れていたその男は、口から血を流しにたりと静也の顔を覗き込む。
「酷いだろ……ちょっと流石にこれは」
ニルスは痛みにだろうか、顔を歪めながら腹を押さえている。
静也は今何が起こっていて、自分が何をすればいいのか全く分からないまま目の前の光景を目にしている。
「肩を貸してくれないか?直すにもこの雨じゃあねぇ」
「……わかった」
わかった、いや何もわかっていない。
静也は言われるがままに座った尻を持ち上げ、ニルスの方へ体を傾ける。伸ばされる腕を肩へ回しゆっくりと立ち上がる。ニルスの足にどろっと伝う赤黒い液体が静也の足にも伝い絡んでいく。
自分より軽そうに見えて、ずしっとしたニルスの体重が肩にかかる。
「それ、本当に大丈夫か?」
「まあ、大丈夫……」
半分ニルスを引き摺るように静也は家に向かう。脚がもつれて大して動いてないニルスに、段々と心配になってくる。最初に人じゃないと明言していたように、大丈夫だろと思っていた。しかし人と大した変わりのない見た目に、腹から漏れ出る赤い液体に不安になっていく。
いつもの軽口も全くなく静かに運ばれている。
「はあ、着いた」
静也は肩を貸していたニルスを靴も履いたままに風呂場に下ろす。
重かった、日頃運動なんて無縁の静也にとって、人1人の体重を引き摺って歩くなどよっぽど起きないアクシデントである。
それでも今はそんな事に構ってれないと、下ろしたニルスに向き合う。
「お疲れ、重かったでしょ」
ニルスの腹からじわじわ溢れてくる赤い液体、そこを押さえながらニルスが静也に微笑む。
「それ、普通にやばくないか?」
静也は焦った口調で、労いなんて聞いてなく思ったことを口にする。ニルスは「大丈夫」と言うと力のない手で上着を脱ぎ、傷口を見る。
「ああ、これは結構深いなぁ……」
「!?」
ニルスは何を思ったのか、自分の腹の裂け目に……腕を――突っ込んだ。
ぐちゃり、と生々しい音がして、血の感触が、床にまで伝わってきそうだった。そのグロテスクさに静也は若干の吐気を覚える。
「はっ、これで、いいかな」
ニルスの腕が引き抜かれるとその傷口が元から無かったかのように閉じていく。
目の前で行われる様子に思考停止の静也。動くことも喋ることも出来ずただただ目の前の惨状を眺めることしかできない。
「はい、これで元通り……ん?静也くん大丈夫??」
ケロッとした顔のニルスが、動かない静也を心配する。静也は唖然としながら、こんな情景を見せられて正気な奴がいるかよ、と心のどこかでツッコミが入る。
「本当に、人じゃないんだな」
「最初に見たし、言ったでしょ」
「いや、改めて」
静也は下ろした腰を上げて立ち上がる。目の前で座るニルスも静也が離れたのを見ると、次いで立ち上がる。
「家、汚してごめんね。ちゃんと掃除するから」
「ああ、うん」
そう言う良識があるんだ、と思うと同時に玄関から風呂場までの惨劇に静也は息を呑む。
靴で乗り上げた廊下、赤い液体でドロドロだったニルスを引き摺った跡、挙句雨でびしょびしょになった体から滴る水分、もうしっちゃかめっちゃかの家の現状に頭が痛い。
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