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第24話

 甘い匂いが鼻につく。それは突然ガルシフの体に起こった。 「おうぇえ」  突如として激しい吐き気が込み上げてきた。嘔吐き、その場でガルシフは立ち止まる。胃の中が気持ち悪い。内側から締めつけられるような、ぐるぐるとかき混ぜられているような、何とも形容し難い不快感がガルシフを襲う。  口元を押さえながら必死にガルシフは視線を回す。この場に自分しかいないことを確認し、隠れるように近くの物陰に移動した。 「うぅ」  なかなか吐き気が止まらない。いったいこの気持ち悪さは何なのか。今までに感じたことのない気持ち悪さにガルシフは戸惑う。 (こんな姿、誰かにでも見られたら……)  それはまずい。ただでさえ最近はシスとの関係に悩んでいるというのに、このことがシスに伝わってしまったら面倒なことになるに決まっている。ガルシフはひたすら気配を消して気持ち悪さが過ぎ去るのを待った。  しばらくして、ガルシフは大きく息を吸い込んだ。次に大きく吐き出し、それを何度か繰り返した。それからようやく気持ち悪さが消えた。 (はあ、早くシスのところに戻らないと)  ガルシフはシスに頼まれた急ぎの資料を取りに第一騎士団の営所に行っていた。その帰りに原因不明の吐き気に襲われた。  もしかしたら知らず知らずのうちに心労が溜まっているのかもしれない。最近、怠く感じる日が多いような気がするのもきっとそのせいだ。 (一度、医者に診てもらうべきだろうか)    何かあってからでは遅いし、医者に診てもらい何もなければそれに越したことはない。  ガルシフは重厚感のある扉を開けた。 「すまない、遅くなった」  そう声をかければ、机に向かっていたシスの顔がガルシフの方に向けられた。 「確かに随分と時間がかかったな。途中で何かあったか」 「ああ、ちょっとな」  歯切れ悪く答える。そんなガルシフの様子に一瞬シスは不審げな顔をするが、すぐにいつものガルシフにしか見せない緩んだ笑みを浮かべた。 「まあ、よい。おまえも戻って来たことだし、少し休憩にするか」  そう言って、シスはナヴィオを呼んだ。それからすぐにナヴィオがやって来た。 「お待たせいたしました」  ナヴィオがガルシフとシスの前に紅茶を置く。それは最近隣国から取り寄せた紅茶だそうだ。ナヴィオが言うには甘く爽やかな香りとすっきりとした飲み口が特徴の紅茶らしい。実にシス好みである。  ガルシフは新しい紅茶の味を堪能しようとカップに手を伸ばす。しかし (うっ、まただ)  再びあの原因不明の吐き気がガルシフを襲う。思わず、伸ばした手を引っ込めそうになる。だが、今はまずい。本当にまずい。目の前にはシスがいる。どうにか吐き気を呑み込み、ひと口紅茶を口に含む。 「どうだ」  シスが感想を聞いてくる。ガルシフは無理やり笑顔をつくった。 「ああ、美味いな」  吐き気のせいで味なんてこれっぽっちもわからなかった。けれど、そう言うしかなかった。   「そうか、なら私も頂こう」  確認したシスも紅茶をひと口飲んだ。 「ふむ、確かにナヴィオが言った通り、すっきりとした味わいだな。香りもいい」  シスは頷き、再び紅茶をひと口飲む。どうやらシスのお気に召したようだ。ガルシフはシスに見えないようにほっと胸を撫で下ろす。 (気に入ったようで良かった。だけど、今日の俺はいったいどうしたんだ。やはり、どこか悪いのか?)  さっき気づいたことだが、どうも紅茶の匂いが駄目だったらしい。今思えば一度目に吐き気を感じた時も甘い匂いを嗅いだ後だった。 (もしかして匂いが原因なのか)  今も必死に隠しているが、胃の中の気持ち悪さと吐き気は続いている。本音を言えば今すぐにでもこの場から立ち去りたいと思っている。けれど、それは駄目だ。いきなりこの部屋から出て行った場合、どう考えてもシスに不審がられてしまう。それ以前に護衛騎士が理由もなく護衛対象のそばから離れて良い訳がない。 (我慢だ、我慢。さっきだって、その前だって結局吐かなかったわけだし、大丈夫)  できるだけ息を止めて、喉の奥に流し込む。匂いを感じなければおそらく問題はない。不自然に見えないくらいで勢いよく飲み干してしまえばいい。ガルシフは残りの紅茶を無心で飲んだ。 「はあ」  最近、ため息をつくことが多くなった気がする。シスの護衛を終えて自室に戻ったガルシフは横になりぼんやりと天井を見ていた。 (本当に一度医者に診てもらった方が良さそうだな)  昼間のこともあるし、これ以上生活に支障がでないうちに医者に診てもらった方がいいだろう。医者に診てもらい特に問題がなければ今日のことはシスには言わないつもりだ。もし何かしらの病であるならばさすがに伝えなくてはいけないが、今はまだ伝えるべきではない。 「あんまり心配かけたくないんだよなあ」 「誰に何の心配をかけたくないのだ?」  突然、シスの声が聞こえてきた。 「シス」  隣の部屋と続く扉から現れたシスは勝手知ったるといった様子で近くの椅子に腰かける。さっき湯浴みしてきたのか髪からは雫が滴り落ちており、頬をほんのりと上気させている。 「おい、シス。いつも言っているだろ、髪はちゃんと乾かしてから来い。風邪でも引いたらどうするんだ」  見かねたガルシフが言う。それからシスを手招きした。 「乾かしてやるからこっちに来い」 「ああ、頼む」  シスは嬉しそうにガルシフのそばに来る。ガルシフはシスからタオルを受け取り、その美しい髪を優しく拭き始めた。  シスは人に世話をされることを嫌う。正確に言えば、肌を触られることを嫌っている。着替えや湯浴みなどは一人で行なっており、ほかにも自分でできることはほぼ一人でやっているそうだ。ただ、さすがに催事の際の支度や公の場ではナヴィオに手伝ってもらっていると言っていた。例外的にガルシフは世話をすることも肌を触ることも許されている。そのため、時折こうしてシスの世話を焼いている。   「で、先ほどの話は何だ?」  シスは先ほどのガルシフの言葉が気になるようで続きを促す。ガルシフは上手く話を逸らせたと思ったが、そう簡単ではなかった。内心、冷や汗が止まらないが表面上は冷静に、いつもの調子で答える。 「いや、実は久しぶりに第四騎士団の同期に会ったんだが、その、何だ、どうも心配されているようでな」  嘘ではない。第一騎士団の営所に行った帰りに実はトドロキと顔を合わせていた。ちょうど訓練の休憩時間だったらしく、たまたま近くを通りかかったガルシフに声をかけたそうだ。その際に言われたのが 「なあガルシフ、おまえ陛下の愛人らしいな」 あまりにも直球過ぎるトドロキの言葉にガルシフは咽そうになった。 「それをどこで」 「第二騎士団の連中が言っていたぞ。おまえ、相当嫌われてるな」  楽しげに答えるトドロキ。   「あいつらの場合そもそも平民自体を嫌ってるからなあ。まあ今はそんなことよりも、実際どうなんだ陛下とは」  愉快そうな顔から一変、真面目な声音でトドロキが聞いてくる。 「おれはおまえが陛下を誑かして護衛騎士になったとは思ってないし、噂もまったく信じてない。おまえはそんな卑怯なことをする奴じゃない」  トドロキは真っ直ぐガルシフを見て言った。そんなトドロキにガルシフは 「俺は陛下の愛人じゃない、護衛騎士だ」  噂はまったくの出鱈目だ。だからそんな噂気にするな、そう伝えた。  トドロキはしばらくの間その言葉が本当なのか確認するようにガルシフを見ていた。そしてて納得したのか、ふっと笑みを浮かべて言った。 「そうか、ならいいんだ。おまえの方こそ変な噂に振り回されたりするなよ。ちなみに第四の奴らは、その噂誰も信じちゃいないからな」  最後にそうつけたし、訓練所へと戻って行った。 「ほう、そんなことがあったのか。それにしても馬鹿な奴らが多いものだ。ガルシフが私の愛人なわけがなかろう」  怒気を孕んだ声でシスが言う。そんなシスの様子を見ながらガルシフは安堵する。 (よかった。どうにか誤魔化せた)  無意識に呟いてしまった言葉は今更どうすることもできないが、誤魔化せたから良しとしよう。それにトドロキに心配をかけたくないという気持ちも確かにある。同様にシスにも心配をかけたくない。だから、昼間のことは今はまだシスには伝えない。 「ほら、拭き終わったぞ」  ガルシフはシスに声をかける。 「今日もこっちで寝るのか」 「そのつもりだ」  ここ最近、夜になるとシスがこの部屋にやってくる。最初の頃は自分の部屋が隣にあるのだからと追い返していたが、夜になると当然のようにこの部屋にやってくるため追い返すのが面倒になった。それから結局流されて今では一緒に眠っている。  体の大きな男が二人、寝台の上に横たわる。この部屋の寝台は大きいため、二人が並んでも問題なく眠れる。それでも決して広いというわけではないので、頻繁に肩や足がぶつかる。シスには言わないが、ガルシフは肩や足から伝わるシスの体温が好きだった。  今日はいつもよりも疲れているせいか、すぐに眠気がやってくる。その眠気に抗うことなくガルシフは目を閉じた。 「おやすみガルシフ」  隣で愛おしそうにシスが言った。

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