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13.不審の視線

 ぞわ、と鳥肌が立つのを感じた。唐突にもたらされた物騒な話に、得体のしれない恐怖が足元からせり上がってくる。 「いったいどういうこと? ちゃんと説明して」 「……はい。その男はマルコといい、セリオ侯爵家に勤めていた下級使用人だったようです」  マルコはこの話を伝えるためにルシアーノがいない隙を狙ってここまで来たらしい。  ルシアーノがいない時、それはすなわちミルファも外出中だ。だから使用人に伝えたようだが、そこまで調べて来るなんて、周到さにもぞっとする。  彼はルシアーノが侯爵家に入ったのとほぼ同時期に雇われた。セリオ侯爵の姿はほとんど見たこともなく、最後の一年は全くと言っていいほど主人の生活はベールに包まれていたそうだ。  王都の侯爵邸ともなれば屋敷も広く使用人は沢山いただろうし、下級使用人は主人に直接かかわらない特定の業務だけに従事するものだから当然だ。  五年という期間は長く、実情を知らない使用人たちが想像を広げ事実と勘違いしてしまうのも仕方がないとはいえよう。もっと前から勤めていた使用人も主人が結婚してからは遠ざけられ、「あんなにお元気だったのに、何かがおかしい」と疑い始める。    たまに侯爵の友人が尋ねてきたり医者は定期的に呼ばれていたものの、ほぼずっとルシアーノだけがセリオ侯爵に付き添っていたのだ。セリオ侯爵は頑なに誰にも自分の姿を見せようとしなかった。  ……いや、ルシアーノがわざと侯爵を外に出さず、誰にも会わせなかったのではないか? 侯爵の言葉はすべてルシアーノづてで使用人に伝えられていた。  食事は料理人の作ったものをルシアーノが取りに来るし、医者の用意する薬もルシアーノが管理している。実質的に侯爵の生死はルシアーノが握っているように見えた。  そもそも誰に進言されても再婚しようとせず、浮いた話もなかった主人がいきなり若い男を連れてきて婚姻を結ぶと言ったのだ。詳しい話も聞かされていない使用人たちは思った。――主人は騙されているのでは?    見目こそ立派ではあるが、無名のルシアーノが平民か下位貴族であることは使用人たちでも見当がつく。寡婦となれば財産の四分の一が相続できる。  王家からも覚えめでたい侯爵なのだ。その相続財産は、数年働いたって平民では決して手の届かない金額となることは容易に想像ができた。  侯爵が亡くなって、上級使用人以外は充分な手当てをもらい解雇されている。ルシアーノを不審に思っていた者たちはみな散り散りになり、マルコも新しい勤め先を探しているうちに侯爵家のことは考えなくなっていった。  そしてマルコは新しい勤め先を見つける。そこで新しい主人がルシアーノの名前を口にしているのを聞き、彼は驚愕したのだ。――また結婚しただって?  相手の名前を教えてもらい、マルコは遥々ここまでやってきて注意喚起をしたのだそうな。「おたくの主人、大丈夫ですか……?」と。  聞けば聞くほど胡散臭い話に、ミルファは鬱憤が腹の中を渦巻くのを感じた。なんとか我慢して最後まで聞き、紺藍の目でディードーを睨みつける。 「なんなのその人! 妄想が行き過ぎだし、あまりにもルシアーノに失礼だよ」 「そう、なのですが……」 「え。まさか信じたんじゃないよね?」  ディードーならこんなあり得ない話は一蹴してくれると思ったのに、なぜか彼の口は重い。ルシアーノのことをよく知らないそのマルコとかいう男ならまだしも、ディードーやうちの使用人たちはルシアーノを信用しているはずなのだ。 「私やポモナこそよく顔を合わせておりますが、他の使用人はまだルシアーノ様のことをよく存じ上げないのです。それにここひと月ほど、三日に一度は外出されていて誰もその行き先を知りません」 「……そうか」  伴侶を亡くしたルシアーノは平穏を求めているはずだからと、屋敷に慣れるまで最低限の使用人しか接しないようにしていた。元々使用人の多くない家とはいえ、まだ挨拶しかしていない者の方が多い。  ルシアーノの外出先はどこなのだろう? あえて黙っているような気もするし無理に聞き出したくはないけれど、もし聞いたら教えてくれるのかな。  ミルファは今日まで自分だけが外出の事実さえ知らなかったことに、思ったよりも動揺していた。 (僕は、自分がルシアーノにとって一番近い存在であると勘違いしてたんだな……)  その感情はいっそう暗く、ミルファの心に沁み込んでいった。  おそらくルシアーノは、出かけた先で誰かと会っている。何を話し、何をしているのだろう。  故人がライバルなんて笑えないと考えていたのに、いつか彼はいなくなると予感していたのに……実態を伴って現実が迫ってくる。認めざるを得ない。  ――ミルファなんてルシアーノにとってなんでもない存在なのだと。 「時期が悪かったのです。ちょうどミルファ様はルシアーノ様と出かけられて、体調を崩したでしょう?」 「あれはっ! 雨が……」 「承知しております。ただ、これまでミルファ様はずっとお元気でした。我々使用人は多かれ少なかれ救われてここにいて、あなた様に心酔している者ばかりですから……みんな、心配しているのです」  本当にタイミングが悪い。みんなが不安になっていたところに、原因を仄めかす者が現れたのだから。  マルコが玄関ホールで話し始めたせいで複数の使用人がその内容を耳にしてしまった。つまり、今や全員が知っているということだ。  ディードーの口ぶりからすると、ルシアーノに不信感を抱いてしまった使用人が少なからずいるはずだ。ミルファの複雑な心持ちはさておき、怪しい男の妄言でルシアーノが疑われるのは許せない。  彼はセリオ侯爵を看病し看取るために結婚して、五年も頑張ってきたのだ。それを外から想像しかできない人が悪く言うなんて、悔しい。 「よく分かったよ。でもマルコって人の言っていることはまるきり間違ってる。ルシアーノはセリオ侯爵を献身的に看護していた。彼の優しくて繊細な性格はディードーならわかってるでしょ? 外出の理由は僕が聞いてみるから、みんなには疑わないように言っておいてくれる?」 「はい、承知いたしました。申し訳ありません、まだ本調子ではないのにこんな不愉快な話を……。今日は無理なされていませんか?」 「だーいじょうぶだって! 昨日寝すぎて動き足りないくらいだよ。今日の晩餐はちゃんとしたもの食べさせてくれるかなぁ」 「さぁ、ルシアーノ様が料理人になんと言っているかですね」  ディードーがふふっと笑ったのを見て安心する。いやな汗をかいたけど、この件はこれで大体解決ってとこかな。  晩餐には柔らかそうに煮込まれた牛肉のシチューが出てきた。これが妥協点ということか。  これ以上抑圧するとミルファが爆発するとわかったのだろう。今朝だって、休ませようとするルシアーノから逃げるように仕事へ向かったわけだし。  歯応えが欲しかったのになぁ、と思いつつ肉をスプーンに掬い口へと運ぶと、想像以上に柔らかくトロと舌の上で溶けていく。ふむ、これはこれで…… 「おいし……」 「だろう? 料理人に調理法を伝えた甲斐があった」 「このトロトロのやつ? ルシアーノも作れるの?」 「まさか。昔勉強して、覚えておいたんだ」 「博識ですごいなぁ。ありがとう!」  ルシアーノがまだミルファのために考えて行動してくれている事実に、胸の中が温まり喜びが広がっていく。こんな風に一喜一憂するなんて、恋は人を馬鹿にしてしまうらしい。  ミルファは彼に外出の理由を聞くのが怖かった。外に恋人がいたらどうしよう。いや、彼はまだセリオ侯爵への愛を引きずっているはずだ。たぶん。  わからないことだらけだ。一歩彼に近づいたと思っても、そのたび疑問が増えていく。しかし、ミステリアスな部分もルシアーノの魅力といえる。  自分にそんな部分はひとつもないな、とミルファは思う。隠していることといえば、この無謀な恋心くらい。これまでどおり思いを告げることなく、彼が去っていくのを待つだけだ。   「ルシアーノ、あとで僕の部屋に来てくれる? 話したいことがあるんだ」 「わかった。一緒に風呂は入らなくていいのか?」 「あはは、今日はひとりで入ることにするよ。じゃあ、あとでね」  ルシアーノの様子はいつもどおりだ。不快な話が彼の耳に届いていないとわかって胸を撫で下ろす。あんな酷い内容、彼にだけは聞かせたくない。  ミルファは湯浴みを終え、自室のソファに腰掛けている。自分で呼んだくせにルシアーノがこれからこの部屋に訪れるのだと思うと、ちょっと心臓の動きが忙しない。  緊張と喜びが混じり合って、なんだか胸が苦しい。身体までじんわりと熱くなってきて、一度羽織ったガウンを脱いだ。  コンコンと扉がノックされて、「はぁい」と返事をしつつ立ち上がる。すぐに扉を開けて入ってくるかと思ったのに、ルシアーノは姿を見せない。  疑問に思ったミルファが扉の前までたどり着いたとき、部屋の外で騒ぐ声が聞こえた。若い女性……あ、侍女のセルピナの声だ。 「これ以上、ミルファ様に近寄らないで! あなたのせいでミルファ様が体調を崩したってこと、分かってるんだから! その手に持ってるものはなに? 毒でも飲ませるつもり!?」 「は……どういうことだ? これは、ただの滋養に良い茶だ」 「嘘つき! 私……聞いたんですからね! あなたが、前の夫を……殺したってこと」 「セルピナ、やめろ!!!」  ミルファが慌てて扉を開けたときには、すでに遅かった。  扉の前に立っていたルシアーノは背中しか見えないが、向かい合わせに立っているセルピナは黒いワンピースのスカートをぎゅっと握り、激情で真っ赤な顔をしていた。  ディードーの説明は間に合わなかったに違いない。  セルピナはまだ二十代前半だ。ずっと看病していた病気の弟を二年前に亡くし、廃人のようになっていたところをミルファが拾ったのだ。仕事こそ問題なくできるが、一年以上笑えず能面のような無表情で過ごしてきた。  近ごろはようやく笑顔を見せてくれるようになってきて、みんなでそっと見守っていたところだった。セルピナはミルファを弟に重ねたのだろうか?  ミルファは彼女の目の前まで歩いていき、腰を曲げて視線を合わせた。焦りで動悸が激しいのを押し隠し、柔らかい表情を心がける。 「セルピナ、大丈夫だから。ルシアーノが前の旦那さんを献身的に支えてたってこと、僕は知ってるんだ。弟を大事にしていた君と一緒でしょう? 彼の気持ちを分かってあげてほしい……。それに僕はただの風邪で、もうピンピンしてる。あまり大袈裟に言われちゃうと恥ずかしいよ」 「ミルファ様……」 「セルピナが僕のために行動してくれたのは、嬉しく思うよ。でも、得体の知れない男の言葉なんて信用しないで。ルシアーノも君の主人なんだよ」 「も……申し訳ありません」  正直なところセルピナの発言に「わー! 待って! やめてー!」と内心叫んでいたけど、強く叱りたくはなかった。彼女もまだ心の静養中なのだ。  彼女はまだ若いし、賢い。自分が先走ってしまったことにすぐ気づき、ルシアーノにも謝罪してくれた。 「さぁ、もう君も休む時間だ。ポモナ、任せたよ」 「かしこまりました。さ、セルピナ。今日は一緒に寝ましょうか?」 「それはいいです」 「…………」

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