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14.そっと触れる

 ポモナがセルピナを連れて行ったのを見送るやいなや、ミルファはルシアーノを振り返った。  怖いくらいに沈黙を貫いていた彼は唇を引き結び、迷子のように不安げな目をしている。元々白い顔がさらに白くなっているように感じるのは、ミルファの思い違いだろうか?    視界の端ではディードーが心配そうにこちらを伺っている。 「ディードー、お茶の用意してもらえるかな。ポモナが行っちゃったから……」 「もちろんでございます」 「ルシアーノ、ごめん。びっくりさせちゃったね……。おいで、中で座って話そう」  反応はなかったものの、手を引けばついてくる。ソファに座るよう促すとミルファの手を握ったまま座ってしまうから、仕方なく自分も隣に座った。  しかし直後に前触れもなくルシアーノが手を離して立ち上がり、ミルファは「うぉっ」と奇声を上げてしまった。  なに? やっぱり隣は嫌だったの? 「……冷えるだろう」 「あ、ありがと……」  彼は、ソファの背に掛けてあったガウンを取ってミルファに着せてくる。その手つきはいつもどおり優しい。自分でも気づいてなかったが、思いのほか長く廊下にいたため身体が少し冷えていた。  ルシアーノのこういうところが……なぁ。たとえ看護の延長線上だとわかっていても、きゅうんと胸がときめき、一瞬で身体もホカホカになってくる。  彼はミルファにガウンを着せたあと、また隣に腰掛けた。向かいにもソファがあるのに隣り合っているのは変な感じだけれど、これからの話し合いにはこの距離感が適しているかもしれない。 「セルピナ……あの侍女の言っていたことだけど、気にしなくていいから。今日、変なやつがうちに来たらしいんだ」  ミルファは身体ごとルシアーノの方を向いて話しかけた。本来なら聞かせたくなかった話だとはいえ、こうなってしまっては正直に話すしかない。  さっきディードーから聞いた話をかいつまんで説明する。あまりにも不快な部分――侯爵家の下級使用人たちのひどい妄想――はなるべく排除し、淡々と事実だけを伝えた。  セルピナのこともタイミングが悪かっただけであること。彼女の境遇があの言動を後押ししてしまったのだと、庇うつもりというよりルシアーノのために念押しさせてもらった。 「だから、ごめんね。ルシアーノに不快な思いをさせて……。もちろん僕の教育不足もある。ちゃんと言い聞かせておくから、許してあげてほしい」 「いや……俺が蒔いた種だ。もう少し末端まで気にかけておくべきだったな。ヤーヌスの意向もあったが、隠し事は憶測を生む。それがミルファにまで迷惑を掛けてしまうなんて、考えてもみなかった。彼らの大事な主人を心配させてしまって、申し訳ないよ」 「いいって。別に悪くないんだから、謝らないで? もし嫌じゃなければ、これからはもう少しいろんな使用人に関わってもらおうかなぁ。どうせ人数は多くないんだし……」  小さな屋敷なので互いのことを知っていけば、余計な疑いをかける者もいなくなるだろう。  ルシアーノは人当たりもいいし、なにより近くで見るほど圧倒される美貌がある。あっという間に使用人たちの心を手中に収めてしまうんじゃないかな?  話している間にディードーが温かいお茶を淹れてくれていた。ふぅ、と息をつき乾いた喉を潤す。ディードーは気を遣ってもう退出してしまったから今は二人きりだ。  お茶を飲もうとしないルシアーノに気づいて、ミルファは彼の手に視線を送る。なにか袋のようなものを握って……?  あ! とさっきの会話を思い出し、彼の手の甲に手を重ねた。 「お茶の葉、かな……? 持ってきてくれたんでしょう?」 「いや……そうだけど、やっぱりやめておくよ。ミルファに合うかわからないし」 「飲んでみなきゃ合うかわからないじゃない! ね。これを下さいな」 「いやいや無理しなくていい……!」  ミルファがルシアーノの手を開こうとすると、彼は頑なに握りしめて離さない。 「ちょっとぉ! ルシー、この、意地っ張りめ……!」 「悪いが、諦めてくれ!」  ミルファも冗談半分で意固地になり、ルシアーノに迫る。挙げ句の果てには彼が片手を高く上げてしまうから、ソファの上で膝立ちになってその手を掴もうとした。 「う、わ〜っ!?」 「ちょ、っおい……!」  座面の弾力でバランスを崩し、ミルファの身体はドサッとルシアーノの上に倒れ込んでしまう。厚い胸板にべちっと顔をぶつけて、鼻が痛い。 「いったぁ〜〜〜……」 「だ、大丈夫か?」 「大丈夫じゃないよ! ふふっ。ルシアーノのせいなんだから……あははははっ」 「ははっ。ごめん」  ふざけすぎた結果に、笑いが止まらなくなる。ルシアーノもやっと柔らかい表情を見せてくれて、それだけでミルファの胸は明るい光で満たされた。  彼の胸の上が想像以上に居心地よく、ミルファはなかなか身体を起こす気になれない。温かくて、広い胸板だ。今だけなら偶然だし……許される? あと数秒だけ……  鼻先を彼の匂いが掠めて、ずっと嗅いでいたくなる。しかし今度はなんだかムラムラとしてきて、自分の中心に血が集まりそうになってしまい慌てて離れた。  だめだめ、性欲と結びつけるなんて……! どうしちゃったの僕!?  変にお腹の奥まで熱い。ミルファは煩悩を打ち切るため、身を起こし避けていた話題を切り出した。 「あの、最近外出してるって、聞いたんだけど……もしよかったら教えてほしい。その、目的とか……」 「……ああ」  ルシアーノの口が急に重くなったように感じて、ミルファの眉は自然と下がった。やっぱり話したくないんだ。  でもこれは、彼に対する誤解を解くために必要なことだと自らに言い聞かせ、次の言葉を待つ。 「実は、侯爵家に関することなんだ。それで侯爵邸に出かけている。……すまない。いまは詳しく話せなくて」 「あっ、そうなんだ。それ……大丈夫? ルシアーノが不利益を被ったり、面倒なことになったりしてないんだよね?」  驚いた。もうルシアーノは完全に侯爵家とは関わりがなくなったのだと勝手に思っていたが、言われてみれば納得できる。  セリオ侯爵の両親はとうに亡くなっているし、きょうだいもいない。子もいないため侯爵位は傍系の親類に渡ったと噂で聞いた。  亡くなるまで一番近くにいて詳しいことを知っているのは、きっとルシアーノだけなのだ。  侯爵家の財産は莫大なものになるだろうし、手続きなどが長引いていたっておかしくない。彼が親類に苛められていないといいのだけど……とミルファはそれだけが心配になった。  貴族にお家騒動はつきものだ。財産があり、嫡男がいない場合は特に問題が起きがちだといえよう。  ルシアーノは契約結婚だったと言っていた。もっとも、それはごく一部の関係者しか知らないはずだ。彼がセリオ侯爵から対価として受け取った金銭を何も知らない親類が寄越せと言ってきたりしたら…… 「大丈夫だ。ミリーは優しいな」 「み、……!?」 「なんだ、君が先に愛称で呼んだんじゃないか」 「そ、そうだけど! 恥ずかしいなぁもう」  悪ふざけで仕掛けたいたずらに仕返しされてしまった。ミリーだなんて……響きに甘さを感じ取ってしまい、頬にかっと血が集まる。  ルシアーノが手を伸ばし、ミルファの頬に手のひらを当てる。触れたところからじん、と熱が広がっていく。 「君の肌は熱いな……」 「……そっちこそ」  ルシアーノの肌にも朱が差して、部屋に来たときよりも人間味を感じる。その手は驚くほど熱かった。  照れているのを誤魔化すように、ミルファは上目遣いでじとっとルシアーノを睨みつける。でも、目が合うとどうしても微笑んでしまうのだ。  外出の理由を教えてくれてよかった。彼の大丈夫だという言葉を信じよう。 「ありがとう、ミルファ……。信じてくれて」 「当然でしょう? 僕たちは夫婦で、僕は誰よりも君の味方になると誓ったんだ。困ったことがあったら、すぐに言ってよね?」 「……うん。俺も、ミルファの助けになりたい」  そのままルシアーノの顔が近づいてくる。ミルファが驚いてぎゅっと目を閉じた瞬間、ちゅ……と唇の脇に何かが当たった。 「さぁ、もう寝なさい。君はまだ病み上がりなんだ」 「…………」  ふわっと身体を横抱きにされ、自然な流れで寝台へと運ばれる。ミルファはされるがままシーツの間にきっちりと挟まれ、ルシアーノがランプを消すのを黙って見届けていた。 「おやすみ、ミルファ」  寝室の扉がカチャ、と閉まった音がする。ミルファは暗闇のなかで、ぱちぱち……っと夜空色の目を瞬いた。 「えっ」  ――いま……何が??? 「…………!?」  ――なんかちゅって当たった! 柔らかいやつ!!  指先でその場所を確かめる。口元のそこは、ちょっと目立つホクロがある場所だ。  ミルファはその感触を知っていた。ルシアーノが初めてこの家に来た日、唇に何度もされたのだから。 「……キス、した!!!」  挨拶のキスくらい、家族なら普通の仕草だといえるだろう。しかしミルファにとっては全く慣れない行為だ。しかも相手は、絶賛恋をしている男。 「あ〜〜っ。わ〜〜〜っ!」  あの日だってジタバタしたけれど、今日はそれ以上だ。唇へのキスじゃないし、以前と比べればまともに触れてもいないのに、心持ちが違うとこうも違うものか。  布団の上ではしたなくもジタバタ、ゴロゴロと転げ回り、動きすぎたのか身体がすごく熱い。 「はぁ、はぁっ……」  今日はどうしてしまったんだろう。身体の中心が兆しているのを感じて、ミルファは思いのまま自分を慰めた。一度すっきりすれば、この気持ちも落ち着くかも……。 「ん……ん。あぁっ。ルシー……!」  もともと性欲は薄いはずなのに、その夜は大変だった。気持ちは落ち着くどころか、ルシアーノの熱を思い出して高まっていく。  裸で抱きしめられた記憶が鮮明によみがえり、もう一度触れられたいと願ってしまう。お腹の奥が疼くものの、その疼きの収め方をミルファは知らない。  謎の熱に翻弄され、疲れ切った頃ようやく訪れた眠気に身を委ねることができたのだった。  翌朝の目覚めはそれほど悪くなかった。――身体の異変を除けば。 「ミルファ様、――ミルファ様!」 「ん……ふぁ? おはよう〜、ディードー」 「どうしたんですか、すごい汗をかいていらっしゃいます! また熱が!?」 「え! 〜〜〜っこれは、その……寝汗だよ! 昨日ちょっと暑かったじゃない?」  普通に肌寒かったし、苦しい言い訳だ。ミルファは心配するディードーに身体を拭いてもらいつつ、昨夜のことを思い返し頭に疑問符を浮かべていた。  確かに身体が熱くてなかなか寝られなかったけど、朝方まで起きていたわけでもない。起きた瞬間は後ろめたさに焦ってしまったものの、よく考えれば汗はとっくに引いていたはずだ。  変な夢でも見て汗をかいたのかな? と腑に落ちないながらも自分を納得させる。まぁ、別に不調はないからいいか。 「ごめんね、家令なのにこんなことまでさせて」 「いえ、お気になさらないでください。――昨晩はさすが、ご立派でした。セルピナを止めきれず、申し訳ございません……。あのあと使用人全員に話しておきましたから」 「ありがとう。ルシアーノも全然怒っていなかったから大丈夫だよ。あと外出のことなんだけど……」  ミルファはルシアーノが侯爵家の用事で出かけているらしいことを伝えた。詳しい事情は聞けていないため、使用人たちにもそのまま話して問題ないだろう。  マルコはそうでなかったようだが、うちの使用人たちの口は固い。彼らはミルファが直接雇用して家庭事情にも通じているため、信頼が篤いのだ。  ときにミルファのために予想外な行動を起こすこともわかってしまったけれど、それも主人としては可愛いものだ。  ディードーはミルファと同じく、ルシアーノが面倒なことに巻き込まれていないのか心配していた。よく見ているとわかる。ルシアーノは器用で大胆そうに見えて、本当に繊細で優しい人なのだ。  身体を拭き終えたディードーがミルファに服を着せてくれながら、地味に傷つくことを告げてきた。 「ミルファ様。少し、お痩せになられたように見えました」 「うそ、一日寝てただけで痩せちゃった……?」 「なんというか、筋肉が減って細くなったような……。気のせいかもしれませんが……本当に、お元気なんですよね?」 「元気だって! 昨日もたくさん食べたし、大丈夫だよ。運動不足かなぁ」  ミルファは自分がベータ男性のなかでは小柄な方であることを気にしていた。童顔ではないものの、顔立ちのせいか実年齢より若く見られてしまうこともある。……自分の行動が幼いせいだとは思いたくない。  二日連続で「小さくなった」「細くなった」と言われたのは、身近な人であるからこそ信じざるを得ず、衝撃的だった。昔から筋肉も付きにくい体質だし、ミルファのように一日中働いている貴族は休息日くらいしか運動もできない。  うーん、まずはできるところから。とりあえず食事を増やしてみよう。  しばらくして、ふんわりしてきたほっぺをユノに指摘されたミルファは職場で叫ぶことになる。人生はなかなか思いどおりにいかない。 「おかしい……太った!」

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