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16.オーロラと口づけ

 ルシアーノの生い立ちについては聞いたことがなかったから、ミルファはポカンとした。まさかご両親が亡くなっていただなんて……彼はこれまでの人生で身近な人を何度も見送ってきたのだろうか。 「俺を産んだせいで母親はすぐに死んだ。父親も数年後に病気で……。だが父は知り合いに俺のことを養ってくれるよう頼んでくれていたんだ。その人が……星読みの一族って知ってるか?」 「ちょっとだけ聞いたことある……」  ひと昔前まで、世界はすべて神が作ったものだと頑なに信じられてきた。世界の一部である星の動きを、人が研究したり勝手に解釈するなんて畏れ多く、そんな奇特な人たちは排斥対象だったのだ。しかし明日の命運がわかるのなら何にでも頼りたいという権力者は多い。    星読みの一族は常識に囚われず星読みを人生としていた。彼ら独自の研究は当時この国では異端だった。  それは逆にいえば最先端ともいえるもので、権力者には密かに需要があったらしい。彼らは自然を愛し自然と共に生きたが、他者に知恵を授けることを厭わなかった。  そうしてたまに他者と関わりつつも、細々と人里離れて生活していた星読みの一族はエトワの美しいオーロラに取り憑かれた。しばらくエトワを拠点としていた彼らの前に登場したのが、エトワの前領主だ。  エトワを開拓し始めた際、領主は頻繁に現れるオーロラの存在に恐れおののいた。赤いオーロラはかつて災害や戦争の前触れと考えられていたためだ。  星読みの一族は領主を安心させようと姿を現し、オーロラの発現は自分たちのいる惑星が太陽という惑星から影響を受けているためで、ただの自然現象だと説明する。  しかし領主は彼らの親切を恐れ、異端だと排除しようとした。つまり魔女狩りだ。多くの者が見せしめに殺され、残った者は散り散りに逃げた。 「養い親だった人は自分のことを星読みの一族だと言ったことはなかった。でもよく一緒に星を見上げたな。天文学が解禁されてからはいろいろな知識を俺に授けてくれた。天文学者がどんなことを研究しているかも……どこからか情報を集めてたんだなきっと」 「うん……そっかぁ」  養い親はスッマという名らしい。彼はルシアーノが独り立ちした数年後、帰郷すると言い残し去っていった。行き先は聞いていない。  ただ、もし彼が星読みの一族の生き残りだったとして、彼らが故郷とするのはどこだろうか? 「ここエトワに……いるのかもしれないな。領主も代替わりしているし、スッマは本当に星と研究が好きだったから」 「そうだね。スッマさんのやりたいことができていたらいいなぁ……」  スッマさんが生きていれば六十歳手前だという。家族を亡くしつらい経験をした彼が、幼くして両親を亡くしたルシアーノを育ててくれたことには感謝しかない。  星読みの一族について詳しいことは知らなかったから、悲劇的な離散をしていたと聞いてしまってミルファは胸が痛む思いだった。みんな表には出さないだけで、色んなものを抱えている。  前の領主の行動は許しがたいものだが、いまの領主は天文学が解禁されてから天文台を建てたことも然り、柔軟な考えを持っているのかもしれない。  ルシアーノはスッマさんと別れて以降、連絡が来たこともないのだという。  会いたいだろうなぁ。彼が昼間、天文台を見てみたいと望んだときの気持ちを想像するだけで、切なさと愛しさに胸がきゅっとなった。  もしスッマさんが国内にいるのなら、元気でいることくらい知らせてほしい……なんて自分勝手なことを心のなかで呟く。  ルシアーノがこんなにも優しくまっすぐな人柄なのは、十年以上育ててくれたスッマさんのおかげだろう。ミルファもなんならご挨拶したい気持ちだ。 「……つまらない話をしてしまったな」 「つまらなくなんて! ルシアーノのこと、知れて嬉しい。話してくれてありがとう。……つらかったよね、ご両親のこと」 「ほとんど覚えていないし、スッマがいたから大丈夫だ。ヤーヌスも俺の家族になってくれた。いまはミルファがいる」  でもルシアーノは、ご両親の亡くなった原因が自分にあると考えていそうだ。自分のせいで母親が亡くなったなんて言い方、しないでほしい。  勘違いで憤った侍女のセルピナに罵られたとき、彼の表情は子どものように不安げだった。一緒に出かけた先でミルファが体調を崩したとき、過ぎるくらいに心配された。  親の愛をほとんど知らないという不安は、何らかの形で人生に影を落としている。  ミルファが自分を卑下してしまうのも同じだ。愛されていたはずなのに急転直下し、憎むほどのマイナス感情を当てられ続けているからに他ならなかった。 「セリオ侯爵には及ばないだろうけど、僕もルシアーノの家族として数えてくれてありがとう」 「なぁミルファ……及ぶ及ばないの話じゃない。ヤーヌスは……そうだな。言うなればスッマの次に父親のような存在だった。年齢的にもそうだろう? ミルファ、君のことは……伴侶、だと思ってる」 「え……」  予想外な言葉に、ぱちくりと目を丸くする。セリオ侯爵は最大のライバルで、越えられない壁だと思っていたのに……父親だって?  そして自分は『伴侶』。ちゃんとそう思われているんだと知り、ミルファの心にまばゆい光が満ちていく。 「っくしゅ!」 「!! ――これ以上は風邪をひく。もう宿に戻ろう」    せっかくの感動は自らのくしゃみで台無しになった。案の定慌てたルシアーノが立ち上がる。寒くなるのも当然で、いつの間にか一刻はこうして座ったまま話していたのだ。  宿の人はああ言っていたけど、今日は運に見放されたみたい。もっとも、ルシアーノのことをまたひとつ理解できたのだからこの時間は僥倖だったといえる。  気を取り直してミルファもルシアーノの手を借りて立ち上がった。本当にこれ以上は風邪を引きそうだ。足を踏み出すと、薄い雪が下がった気温によってシャク、と硬い音を立てる。 「あれ、空に雲でてきちゃったねぇ」 「どこだ……? あ、あの白い……ん?」 「え……あっ……オーロラだ!!」  雲だと思ったものは光だった。夜空の一点から突然光が吹き出したように広がり、赤く染まってゆく。光が空に広く波打ち、揺らぐ様子はカーテンと言い得て妙だ。  とはいえカーテンと聞いて、絵画も見たけれど想像していたものとは全く違う。これほど美しいものだとは思いもしなかった。  赤だけじゃない。その上端は紫に近く、地上に近い部分はオレンジ色に見える。 「これがオーロラか」 「きれ〜〜……すごいね。――っうわ!?」  感嘆したミルファがもう一歩足を動かした瞬間、踏み固められていた雪に足を取られてしまいツルッと滑る。 「へぶっ」 「……大丈夫か?」  無防備に転びそうになった身体は、すぐ正面にいたルシアーノの胸に抱きとめられた。いや、ミルファが顔面から突っ込んでいったともいう。  片眉を上げて呆れたように見下ろしてくるルシアーノの頬は、ほんのりと赤く染まって見えた。口角も上がっている。彼もまた、オーロラを見た興奮に包まれているのだ。  ルシアーノの隠しきれない喜びをたたえた顔が、目の前にあることが嬉しい。なんだかそちらにも感動してしまって、目の奥がツンとした。  込み上げてくるものを抑えながら、ミルファは微笑んだ。ああ、幸せだ。いまこの瞬間だけは、望んだものがすべてこの手の内にあるような、そんな感慨。  ミルファの目が潤んでいるせいか、あるいは夜空色の瞳に星々の煌めきが映っていることに気づいたのか。ルシアーノは夜明け色の瞳に熱をのせて見つめてくる。  そして……おもむろに顔が近づいてきて、ミルファがきょとんとしている間に……ふに、と唇に何かが触れた。 「へ……」 「ありがとう。俺は君から、いろんなものを貰っているな」  もう一度接近した唇が、冷えて赤くなっている鼻にチュッとかわいい音のするキスを落とし、指先はミルファの頬を撫でた。 (えええええ〜〜〜〜〜!?!?)  あんなにも冷えていたのに、全身にギュンギュンと血が巡りはじめたのを感じる。頬どころか耳も含めた顔全体、マフラーで隠れている首までもが真っ赤になっていることだろう。    ルシアーノは満足げな表情で、ほんのりと名残惜しそうにしつつ身体を離した。上空で刻一刻と表情を変えていくオーロラを最後まで目に焼き付けながら、歩いて町中へと戻る。  宿への道すがら、ミルファは何度も転びそうになってルシアーノに支えられた。  神秘的なオーロラに感動しっぱなしな気持ちと、さっきのキスは何!? という大混乱が混じり合い、ランタンに照らされた足元を見る余裕なんてまったく無い。  それでも現実はさらに迫ってくる。美しい夜空にお別れしたミルファを出迎えたのは、簡素な部屋にぽつん……と置かれた小さな寝台だった。枕がふたつ、くっついて仲良く並んでいる。 「む……無理!」 「ん? あぁ、あれか。なんとかふたり寝られるさ。それとも、俺は床で寝ようか?」 「うっ。そんなことさせられないよ!」 「じゃあ寝よう。健康優良児には、もういい時間だ」 「子どもじゃないし……」  いとも簡単に言いくるめられて悔しいけれど、『健康』というワードにミルファは弱い。頭のなかではなんの結論も出ないまま、促されるままに服を着替え寝台へと潜り込む。  すぐにルシアーノも入ってきて、ぎりぎり触れない距離で向かい合った。触れなくとも、あたたかい体温は伝わってくる。 「おやすみ。いい夢を」 「おっ、……おやすみ……」  暗闇のなか、あっさりと目を閉じてしまった男を見て拍子抜けした。 (なんだよ……自分だけ、何事もなかったようにしちゃってさ……)  どうしようどうしよう! と内心右往左往していたのに、ベッドに入ったとき何もなかっただけで物足りなさを感じてしまうんだからわがままな心だ。  つい眼の前にある唇を凝視してしまう。少し薄い、このきれいな形の唇が自分の唇に触れたと考えるだけでドキドキして、浮つく気持ちを止められない。  ルシアーノとのキスは、なんともう三度目だ。口にされたのは二度目だけど……はじめて会った日と違って、ここ最近のものが愛情のこもったキスであることは経験の少ないミルファにもなんとなく分かっている。  家族なんだからキスくらい普通のことだ。愛情と言っても親愛の情。それでもミルファにとっては恋心を抱いた相手からのキスであり、行動からルシアーノの心持ちも変わってきたように感じる。  あわよくば、同じ気持ちになってくれないかなぁ、なんて。高望みするようになったのはルシアーノのせいだ。  深い寝息が聞こえてきて、もう彼が眠ってしまっていることがわかる。ミルファは思い切って互いのあいだにある僅かな距離を詰め、身体を寄せた。  これくらい、ラッチ湖で経験しているからいいはず。いまは服も着ているし。なんて言い訳を重ねながらその体温と柔らかな香りを堪能した。 「んっ」  そのとき、ルシアーノの腕がミルファの背中に回された。目は閉じているから無意識なのだろう。ミルファが近づいた分よりぐっと胸に強く抱き寄せられ、彼の鼻がすぅーっとミルファの首元で息を吸う。 「ちょ、ちょっと吸わないでよ……あっ」  もしかして汗臭い? 意図的でないにしてもその行動はミルファを慌てさせた。ルシアーノの高い鼻がすりすりと擦り付けられるからくすぐったい。挙句の果てにはぺろと舐められ、ミルファはびくんっと身体を跳ねさせた。 「え、まって。あ! ん、んんっ……」  いつぞやの再現のように、ルシアーノの手がミルファの身体をなぞっていく。こんなのただの愛撫だ。好きな相手から与えられる刺激は、すべてが甘く感じられる。  舌は首筋や鎖骨をツーっと舐め、食べ物だと思っているのかときおり歯を立てられる。ぞくぞくと震えの湧き上がってきたミルファは首を反らし逃げようとするものの、絶えず押し寄せる快感に力が抜けてばかりだ。  背中に回っていた手は腰を撫で、ついには尻の柔らかさを確かめるように揉んだ。 「ひゃぁっ!!」  思わず大声を上げると、その声に驚いたルシアーノがようやく目を覚ました。顔を上げて、ぱちぱち……と瞬きをふたつ。  自分の手がミルファの尻に触れていることに気づいたのが先か、ミルファの顔が真っ赤で、涙が一粒流れたことに気づいたのが先か。  ルシアーノはバッと身体を無理やり剥がし、寝台から転げ落ちそうになりながらも両手を上げ降伏の姿勢を示した。 「っ……!? すまない!!」 「ルシアーノの……ばか!!!」  ひどい。そんなあからさまにショックを受けた顔をしなくたっていいのに。こっちは怒涛の展開にいっぱいいっぱいで、それでも求められるなら嬉しいと、思ってしまったのに。  ルシアーノの顔は真っ青だった。ミルファの首筋についた薄い噛み跡も見えたのかもしれない。 「そんなつもりは……全くないんだ!」 「……床で寝てください」 「ッ。すまない……」  ミルファとは思えないほど地の底を這うような声に、ルシアーノはさすがに驚いた表情をしていた。逆らうこともせず、もう一度小さく謝って寝台を降りる。  寝ぼけた相手の行動にまんまと反応してしまった自分が恥ずかしい。ルシアーノの反応も地味に傷ついた。  とはいえ、一度屋敷を追い出しかけてしまった記憶が頭をもたげ「やっぱり僕はソファで寝る。ルシアーノはこっち」と寝台を指して言い直す。  薄い枕をルシアーノに向かって投げ、自分もひとつ枕を抱えた。ついでに温かそうな毛布も一枚拝借して、文句を言わせる隙も与えずにソファへと横になった。  ……八つ当たりだと分かっているけど引き下がれない。小さなソファはミルファでさえ横になると足がはみ出るが、脚を抱えるように縮こまってなんとか収まった。  ルシアーノの体格だとこうはいかないだろうから、やっぱりこっちで正解だ。  顔に痛いほどの視線を感じて、きつく目を閉じる。ついでに毛布も被って「おやすみ」とくぐもった声で挨拶した。しばらくは布同士の擦れ合うような音が聞こえたものの、すぐに静かになる。  そっと毛布から顔を出し寝台の方を確認すると、横になったルシアーノの姿が見えてほっとした。彼は寝付きが良さそうだからきっとすぐに寝てくれる。  ミルファはまだまだ寝られそうになかったから、ひとりの時間がほしかった。熱の灯った身体を黙って鎮めるのには、時間がかかりそうだ。

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