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18.毒の侵食
これまでミルファは夜会で結婚の報告こそしていたものの、相手がセリオ侯爵の未亡人だとは言っていなかった。しかし侯爵の未亡人 が誰かの婚姻の申し出を受けたという噂は、高位貴族や申し出を蹴られた貴族たちから広がっていたのだ。
噂が二人を結びつけるのも時間の問題だった。別に隠そうとしていたわけでなく、彼が夜会に慣れるまでは騒がれたくなかったというのが一番の理由。本人も慣れたとは言いたくないだろうけど、まぁいい時期だといえる。
ミルファは伯爵の驚愕に構うことなく、にこやかにルシアーノを紹介した。
「彼は私が迎えた伴侶、ルシアーノです。これからは夫婦ともどもよろしくお願いします」
「ルシアーノか。いや実は、うちの息子も婚姻を申し込んでいたんだよ」
「以後お見知りおきを。……それは失礼しました」
「いやはや……ミルファ卿が射止めた理由がわかったよ。息子はアルファだからね」
なるほどぉ。ミルファは伯爵と歓談するルシアーノの隣で、ひとり訳知り顔で頷いてしまった。申し出を蹴られた人たちは、恨みこそしないだろうが相当な驚きを感じるはずだ。
誰もが、未亡人がここまでアルファっぽい偉丈夫だったとは思っていなかったに違いない。実際にアルファだし。
伯爵は話しながらもチラチラ、ミルファとルシアーノを見比べている。最終的にどうしてこんな、どう見てもベータな男と? 彼なら選り取り見取りだろう? と顔に書いてある気がする。
ルシアーノの表情も優れないことに気づいて、ミルファは目上だろうとあえて横槍を入れ「ごきげんよう」と会話を切り上げた。
バルコニーが遠かったのでひと気の少ない会場の隅へと移動し、ルシアーノを見上げて話しかける。その瞳には静かな怒りが燃えていた。
「大丈夫? なにか気に障ることいわれた?」
「俺は消去法でミルファを選んだんじゃない」
「え?」
「頷いていただろう。勘違いしてほしくないんだ、きみには」
頭の中で伯爵の言動を思い返し、意味がわかった。なんだか目の奥が熱くなってくる。……ルシアーノはミルファのために怒っているのだ。
伯爵に悪気はないものの見下されていることはわかっていて、ミルファ自身もそれを当然と受け入れていた。ルシアーノが怒っているのは伯爵の態度に対してかもしれないが、ミルファの諦念にもきっと気づいている。
困ったなぁ、本当に。ミルファを価値ある人間として扱うのはこの男くらいだ。
どんな表情をすればいいのか分からなくて、眉尻を下げたままくしゃっと顔を歪ませて笑う。
ミルファにはルシアーノしかいないけど、ルシアーノには取れる手がたくさんある。たとえセリオ侯爵が亡くなって平民に戻ったとしても先立つお金はあったはずだし、オメガの独身者がいる貴族の家に婿養子として入ることだって容易だっただろう。
それなのに、ルシアーノはミルファを選んだ。その事実が自分にとってどれだけ求めていたものなのか、ミルファ自身気づいていなかった。
ただただ嬉しくて、幸福感に包まれる。もしかしたらこの想いも……報われるときが来るかもしれない。あり得ないと分かっているけど、ちょっとだけ期待することを許してほしい。
ミルファが顔見知りの貴族と話していると、ルシアーノは別の人に話しかけられていた。
パラティーノ伯爵家の当主から、もう噂が広がり始めたとみていいだろう。ミルファの伴侶には興味がなくとも、あの元侯爵夫人を見られるのならと人が集まるのも無理はない。
会話にひと区切りついて、ミルファはいつの間にか複数の人に囲まれているルシアーノを救出に行こうとした。今ごろあの美麗な顔の下で、心底うんざりしているに違いない。
彼の本音を想像し、くすっと笑いをこぼしたとき――斜め横から若い女性の声に呼び止められた。
「ミルファ、こんなところにいたのね」
「……モリア」
振り向くと、妹のモリアと兄のタナトスが並んで立っていた。
久しぶりに見るモリアは相変わらず可憐で、妖精のようだ。ピンク色のドレスが彼女の可愛らしさを存分に引き出しており、オメガだと言われれば「なるほど」と誰もがわかる雰囲気を持っている。
しかしその性格は可愛らしいなんてものじゃない。
ミルファと同じ栗色の髪をふんわりと背中に下ろし、ツンと顎を上げてミルファを嘲るように見下している。濃いピンク色の瞳には兄と同様、嗜虐心が宿って見えた。ミルファの前でだけ、兄妹はこうなるのだ。
「ああ恥ずかしい。こんなみっともないのが兄だなんて」
「……モリア、伯爵家の嫡男と婚約したんだって? おめでとう」
何を言われても気にしないぞ、とみずからに言い聞かせ、ミルファはモリアに向かって言祝 いだ。てっきり一緒に来ているものと思ったが、きょろきょろと左右を見渡してみるも当の婚約者は見当たらない。
そんなミルファの様子を見て、モリアはニィッと赤く染めた唇の両端を上げる。タナトスが呆れた表情で口を開いた。
「お前は……本当に、馬鹿なんだな。ベータでもそこまで頭の鈍い奴はなかなかいないよ。はぁ……」
「あはは! お兄様、本当にミルファは気づいていないの?」
馬鹿にされていることは分かるものの、ふたりが何のことを話しているのかわからない。思わず疑問を顔に出すと、モリアは嬉しそうに情報を寄越す。
「わたくし、ルシアーノ様と婚約が決まりそうなの」
「……え?」
「とんだ阿呆面だな。何も聞いてないのか?」
「だって、ルシアーノって……そこの? 彼は僕の伴侶だ」
モリアの発した予想外の名前に、戸惑いで声が震えた。少し離れた場所で人に囲まれているルシアーノを見遣り、同じ名前の別の人かと思う。
「伴侶になれたと思っている愚か者め。婚姻は受理されていないことも知らなかったのか? 彼はいま、独身だ。お前もな」
「そんな……そんなことあり得ない!」
「あはははは! 自慢げに見せびらかして、実は他人だなんて滑稽すぎるわ!」
「知らされていないなら、あいつはお前を騙す方を選んだってことだ。まだ誰にも言うなよ。彼は手続きに奔走しているらしい。正式に妹と婚約するまでは、余計な噂を立てたくないんだ」
「……うそだ」
「自分で調べてみたら? ミルファが事実に気づくのが早いか、捨てられるのが早いか、見ものね」
なおも楽しげに兄と妹が話し、ミルファを嗤っている。耳から入ってくる情報に、脳が拒絶反応を示す。
(彼らは何を言ってるんだ? 分からないのは、僕が馬鹿で愚かだからなのか?)
ルシアーノに自分を卑下するなと言われたことも忘れて、家族の評価がミルファの身体に染み込んでくる。ぽつんと突っ立ったまま、ここにいるのが途轍もなく恥ずかしいことのように感じた。
彼らいわく、ミルファとルシアーノはいまだに他人だという。教会で宣誓書にサインしたのに、婚姻が認められていないなんて考えもしなかった。なにか不備があったのなら、連絡くらい来るはずだ。
どうして? もし婚姻が結ばれていないなら、ルシアーノは情報を偽ったということ?
モリアはルシアーノと結婚すると言った。幸せなミルファへの嫌がらせ? でも、彼女だって伯爵家と婚約が決まっていたはずだ。
クィリナーレ子爵家が上位の伯爵家と婚約解消までするのなら、ルシアーノと結婚することにそれだけのメリットがあるからだ。……金か? 侯爵家の財産はたとえ四分の一であっても、莫大なものになるに違いない。
ミルファは何も知らされていない。すべて嘘だと言い返したいのに、ここまで自信ありげに言われてしまうとこちらの気持ちが萎縮する。
足元が抜けて、暗闇に落ちていく自分が見えた。目の前は暗く、シャンデリアの光もミルファには届かない。
腹の奥に落とされた氷のような冷たさと、迫り上がってきた苦味を飲み下す。めまいと寒気がして、今すぐ帰って寝込んでしまいたい。
「ミルファ、大丈夫か?」
耳に心地よい重低音が聞こえて、ミルファは顔を上げた。ルシアーノ……。今は彼の顔を見ても、心は浮かばない。
虚ろになった瞳は、光の届かない深海のような色をしていることだろう。
じっとミルファの顔を見つめたルシアーノは、目の前のタナトスとモリアを睨み、凍りつきそうな声で言い放つ。タナトスが一歩後ずさった。
「ご家族に挨拶せず申し訳ない。ミルファの気分が悪いようなので、これで失礼します」
「ふふ、ルシアーノさまぁ。我が家からの手紙は受け取っておりますでしょう?」
ルシアーノの肩がビクッと震えた。
手紙? ルシアーノに手紙なんて来たことはないはずだ。うちに届く書簡はすべて、まずミルファが確認している。
「……ああ、近いうちに返事を書く。では」
(……手紙は侯爵家に届いてるってことか)
腰に手を当ててエスコートされ、ミルファは会場を後にする。
近くにいるはずなのに、タキシードの分厚い生地はルシアーノの体温を通さない。ミルファは彼との関係に亀裂が入ったのを感じていた。
馬車で二人きりになり、沈黙に耐えきれず口を開いたのは同時だった。
「ルシアーノ、どういうこと?」
「ミルファ、家族から何を聞いた?」
ルシアーノは何を確認しようとしているのだろう。強張った表情からはその理由まで読み取れない。
「妹のモリアと……結婚するって」
「は? 誰が? 俺がか?」
驚きと困惑、そして嫌悪の感情が彼の顔に浮かび、澱んだ気持ちに空気が通る。わずかな希望にすがってしまう自分がいる。
「……違うの?」
「あり得ない。だいたい俺はミルファと結婚したんだ。他の人と結婚なんてできないだろう」
強く『ない』と言い切ってくれた言葉は本来なら嬉しい。しかし一瞬、曙色の瞳が揺らいだのをミルファは見逃さなかった。
「結婚、できてないって……聞いた」
「まさか! そんな世迷いごとを信じたのか? 一緒に教会へ行ったじゃないか」
一度疑ってしまうと、ルシアーノの言葉が白々しく感じる。そんな感情、知りたくなかったのに。
沸々と怒りが湧いてきて、それを抑えるように声は淡々とした冷たさを帯びた。
「教会では宣誓書をもとに戸籍情報を調べて、問題がなければ婚姻情報が簿冊へと記録される。逆に言えば問題があれば、婚姻はできない」
「…………」
「ルシアーノ、君は何を隠しているの?」
ルシアーノはしばらく迷いもあらわに瞳を揺らして沈黙していたけれど、ミルファの追求に観念したように口を開いた。
「俺は……確かにまだ、ミルファに言えていないことがある。でも決して、君に不利益を被る内容ではないんだ。都合のいい話だとは思うが、信じてくれないか?」
向かい側から伸びてきた手に、そっと冷えた手を包まれる。大きな男の手だ。
ミルファは考えることがいっぱいで、ルシアーノの言葉もよく理解できなかった。家族に会ってから、ずっと頭は混乱の渦中にある。
「僕は……なにを信じればいいのかわからない」
「これだけは間違いない。ミルファのことは伴侶だと思っているし、俺は……あなたに惹かれている」
ハッと顔を上げると、真剣な表情でこちらを見据える目と目が合った。きゅうと心臓が痛み、ミルファは泣きそうになって震える息を吐いた。
(信じたい。この繊細で真面目な人を疑うなんて……僕にはできない)
どうしようもなく惚れているのはこちらの方なのだ。ルシアーノが、ミルファに心を寄せようとしている。それを喜ばないなんて無理だ。
「僕は、利益があると思って君を受け入れたわけじゃない。むしろ、不利益があったって守る心づもりでいるんだ」
「ああ……ミルファはそうだな。すまない」
「侯爵家のことでいろいろあるんだろう。僕にできることがあるとは思えないけど、手伝えることがあるなら言ってほしい。ルシアーノを……信じるよ」
「ありがとう……!」
ミルファのことを嫌悪している家族の言葉より、ルシアーノの言葉を信じたい。心のなかにわだかまりはあるけれど、言いたくないことを言わせてまで追求するなんて真似、ミルファにはできるはずもなかった。
繋がった手のあいだで体温が混じり、裂けた隙間なんてなかったような気がしてくる。彼の告白を信じることにしても、ミルファは自分の気持ちを打ち明けないことに決めた。
これだけで、過ぎるくらいに幸せだ。
ルシアーノはいつか目の前から去っていく。その予感はいまだ胸の内にある。自分の気持ちが彼の行動や決断の妨げになってしまうことを、ミルファは恐れてしまう。
嫌々一緒にいてほしいわけじゃないのだ。それは突然家族からの愛を失ったことのあるミルファが、捨てきれない……臆病さだった。
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