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19.婚姻の真実

「先日の夜会を終えてから、浮かない顔ですね。ルシアーノ様と喧嘩でもされました?」 「ディードー……別に、彼とはなにもないよ。普通にしているだろう?」  書斎で書簡を確認していると、家令が心配そうに声を掛けてくる。まず喧嘩を心配されるだなんて子どもじゃあるまいし、と言いたいけど鋭いな。  あれからもルシアーノとは変わらず、良好な関係を築いている。とはいえ遠出はしばらく控えようと思っているし、乗馬に関して教えることももうない。  夜会も先日の様子からルシアーノを連れて行くと混乱になると思い、ここしばらくは断っている。  ミルファも素敵な旦那さんを見せびらかすのが楽しくて、ちょっと調子に乗っていたかもしれない。だからあんな目にあったんだ。  したがってここのところ朝晩の食事以外、ふたりで過ごすことはない。本当ならダンスの講師を呼んで一緒に練習しようと思っていたけれど、必ず密着するダンスを、現時点でミルファは耐えられないと判断した。    本当はその肌に触れたい。深い森のような優しい薫りを間近で感じたい。  でもキスをされたときのように、あるいは抱き締められたときのように親密な空気になってしまったら……ミルファは心の枷が外れ、問いただしたくなってしまうに違いない。未だ教えてもらえない、ルシアーノの秘密を。  食卓では普通に会話する。ミルファの仕事の話や、ルシアーノが読んだ本の話。まわりに給仕の使用人がいるから、踏み込んだ話までできないのが幸いだ。  しかしディードーは、二人のあいだの空気が微妙に変化したことに気づいてしまったらしい。ミルファが『普通』だと言っても、納得しかねるように首を振った。 「本音で言葉を交わさないと、なにも伝わりませんよ」 「それができないから困ってるんだ! ……あ、ごめん……」  彼の言葉は正論だ。だがルシアーノが口を割らないんだからどうしようもないじゃないか。  癇癪を起こした子どものように声を荒らげてしまい、とっさに謝る。眼鏡の奥で目を見開いたディードーが、困った顔で眉尻を下げる。ああ、また父親モードになってしまった。 「なにがあったんですか、ミルファ様。話すのはお嫌かもしれませんが、力になれることがあればおっしゃってください」 「……誰にも言わない?」 「はい。あなた様に誓って」 「誰にも秘密で、調べてほしいことがあるんだ……」  ミルファは結局、家族同然の家令に頼ることにした。彼のように、自分には絶対的味方の頼れる人がいる。  でもルシアーノには……? 彼は頑なにミルファを頼ってくれない。他に信用できる人がいるのだろうか。それとも、ミルファがあまりにも頼りないからだろうか。  ともに晩餐を取っているとき、ルシアーノがカラトリーをテーブルに置き、口を開いた。  そんな些細な動作でも、ミルファは最近(何を言われるのかな。秘密を打ち明けてくれる? 良い話? 悪い話?)と身構えてしまう。 「明日は早朝から出かけるんだ。悪いが、朝食は一緒にできない」 「あっ。そうなんだ。……わかったよ」  何があるんだろうと思うも、どこまで訊いていいのかわからない。訊いてはいけないことがあると、とたんに質問すべてが臆病になってしまう。  思わず歯切れ悪く返事をすると、ルシアーノの斜め後ろに立っているディードーがしかめっ面で首を振って見せた。「そんなんじゃ駄目です」と聞こえる気がする。  ええー……だめ? 「えーっと……侯爵家に行くの?」 「ああ。来客があって、俺も立ち会わないといけないんだ。朝から行くのはその準備のためだ」 「そうなんだ……大変だね。まだルシアーノがしなきゃいけないことがあるの?」 「もうすぐ落ち着くはずだ。ありがとう。――明日は休息日だろう? よかったら、あとで一緒に軽く飲まないか」  ディードーがにっこり口角を上げる。「よかったですね!」と言わんばかりの笑顔だ。もしかしてポモナと同様、ミルファの気持ちに気づいているんじゃ?  とはいえミルファもちゃんとした外出の理由を聞けて肩の力が抜けた。もう一杯貰おうとしていたぶどう酒は、あとに取っておこうと思う。  久しぶりにルシアーノと二人きりで話すことになって、ミルファはそわそわと部屋の中を歩いていた。晩餐で食べた兎肉のシチューがお腹のなかで飛び跳ねている気がする。  複雑な心境を整理しきれずちょっと避けていたのは事実だけど、彼から誘われるのは存外に嬉しく感じてしまった。  ルシアーノの軽い誘い文句は、重い話をしにくるわけではなさそうだった。彼は明日の朝早そうだし、本当に軽く飲むだけだろう。  まるで少しずつ口説こうとしているようで、ミルファは期待に胸が膨らむ。 『俺は……あなたに惹かれている』  ルシアーノの言葉は宝物のように、大切に大切に胸にしまってある。    可笑しい話だ。  もう伴侶なのにもかかわらず、ミルファはルシアーノに恋をしているし、ルシアーノもミルファに惹かれ始めているという。それでも自分はこれ以上、どうこうするつもりはないのだ。 (本当の、伴侶ならなにも問題ないのに……)  有力貴族や嫡男なら、当主の決める政略結婚が一般的だ。家のためになる婚姻をし、後継をつくる。  どこかの段階で惹かれ合う夫婦は多いだろう。逆に義務的な関係のみ結び、外に愛人を作る人もいる。  ミルファたちはどうなるのだろうか? 惹かれ合っていても未来は見通せず、ミルファはルシアーノと別れたときのことをいつも考えている。  それもこれも、アルファのルシアーノがベータなんかに嫁いできたことが原因だ。平民なのに莫大な財産と、おそらく大きな秘密を抱えたルシアーノ。  事情があってミルファを選んだとしか思えないのだ。そんな背景があるのに、純粋に惚れたと喜べるはずもない。 (……でも。少しの間だけでも、心を寄せてもらえたら嬉しい……)  ――コン、コン 「はぁーい!」 「待たせたか?」 「全然!」  室内着姿のルシアーノは久しぶりだ。夜会できっちりタキシードを着込んでいるときは、彼の美しさを惜しみなくあちこちに魅せている。  しかしゆったりとした室内着姿には隙があって、ルシアーノの表情も柔らかい。ミルファしか見ていないのだという特別感もあいまって、いつもよりドキドキと心臓が高鳴った。  頬が温まったような気がして踵を返し、ソファを勧める。もうさすがにテラスで過ごすには寒すぎる時期だ。  ミルファが先に腰掛けると、その隣にルシアーノも座る。ふと、本来なら向かいのソファに座るんじゃないのかな? と思ったけど、それほど違和感もないのでまぁいいかと結論づけた。  いろんな時間を一緒に過ごすうちに、ルシアーノの傍は心地のいい場所になっている。 「今日はどうしたの? ルシアーノが誘ってくれるなんて珍しいね」 「いや……最近、ふたりでゆっくり話す機会がなかっただろう。ミルファが以前誘ってくれたときに嬉しかったから、俺も同じようにしてみたんだ」 「…………」  罪悪感と喜びで、胸が苦しくなった。ミルファがふたりきりになる機会を作らなかったことを、ルシアーノは寂しいと感じていたのかもしれない。  ミルファがもっと強ければ、もっと迷いなく彼を信じることができていればよかった。  けれど過去の自分の行動を嬉しいと言ってもらえて、しかも真似までしてくれた。 (僕なんかに言われたくないだろうけど……なんて可愛いんだ!)  彼の行動はミルファを舞い上がらせた。笑みが浮かぶのを止められない。 「ありがとう。僕も嬉しい」  夜明け色の目が細められ、自然と顔が近づいてくる。(あ、まただ)と他人事のように考えている間に口付けされた。  柔らかく重ねられた唇が離れていき、自然と閉じていたまぶたを持ち上げる。今度こそ頬が燃えるように熱い。  くっと顎先を持ち上げられ、思わず顔を横に逸らす。ミルファの耳たぶは濃い桃色に染まっている。 「……期待していいのか?」 「えっ、なに。ちがっ……!」  ルシアーノの発言から一拍遅れて、どうやら自分の反応が彼に誤解を与えているらしいと気づいた。  いや、誤解じゃありませんけどね……!?  大きな手がミルファの波打つ髪を梳いていく。突然もたらされた甘やかな空気に、ミルファはたじたじになってしまう。  経験値の差か、あるいは歳上の余裕だろうか?  彼に本気で口説かれたら、ミルファなんて一撃で降参してしまうに違いない。もはやたとえ一時の感情だとしても、流れに身を任せてしまった方がいい経験になるのでは……? 「ミルファ……そんな顔をされると、押し倒したくなってしまう」 「……えっ。どんな顔!?」 「はははっ! 怯える小動物みたいだ」  そんな加虐趣味が!? と思ったら、冗談だったようでルシアーノは上機嫌に笑っていた。どきどきするからやめてほしい。  ミルファもうっかり雰囲気に流されそうになってしまった。キスは挨拶。キスは挨拶。家族なら普通のことなんだから。  その後は他愛のない話をして、遅くなる前にルシアーノは自室へ帰っていった。 「はぁ……心臓が保たないよ」  ソファに腰掛け、パタリと横になる。左胸に手を置くと、手のひらに大きな拍動を感じる。口づけの瞬間は全身が心臓になってしまったような心地だった。  ああ、身体が熱い。    このままだと、ルシアーノともっと進んだ関係になってしまうかもしれない。初夜未遂のときにされた口づけは深くて、こう、彼の舌が口の中に入ってきて…… 「うわぁぁぁ〜〜〜っ」  ジタバタとソファの上で暴れ、なんだかんだ期待する自分がいるのを実感してしまう。なんて破廉恥なんだ僕は……!  でもルシアーノの近くにいて彼の優しい匂いを感じると、どうしても身体が熱くなってきてしまうのだ。安心するのにドキドキして、全身をあの匂いに包まれたいと思ってしまう。本能的に惹かれてしまう。  じんわりと汗をかいて、なんだかお腹が痛くなってきた。明日は休息日とはいえ、知恵熱や腹痛で一日を台無しにしたくない。  ミルファはパジャマに着替え、次々と浮かんでくる煩悩を頭から追い出しながら眠った。嗅覚が敏感すぎるのかと思ったけど、よく眠れるよう調合したポプリの香りは遠く感じた。  翌朝少し寝坊して起きたときには、ルシアーノはもう出かけて居なかった。ひとりで朝食をとり、ディードーに促され書斎へ入る。  彼は早朝から私用で出かけていて、ミルファが遅い朝食を食べている間に戻ってきたのだ。表情が強張っているし、なにか話があるらしい。ご家族になにかあったのかな……? 「ミルファ様……先日ご依頼いただいた、調査の件です。まことに信じがたいことなのですが……」  そう切り出されて、ミルファは自分が家令にしたお願いのことを思い出した。ディードーに依頼したことで気が抜けて、ちょっと忘れていたとは言えない。  しかもその口ぶりに、まさか……と思いミルファの表情も強張った。 「い、嫌だなぁ。なんでそんな深刻な顔してるの? 調べてって言ったけど、司教様にあのとき『ご結婚おめでとうございます』ってはっきり言われたんだから」 「ミルファ様」 「……いやだ」 「婚姻は、受理されていませんでした……」 「うそだ……!」  視界が歪み、否応もなく潤んで揺れる。兄と妹に言われたときから、もしかしてとは思っていたのだ。でも、ルシアーノが信じて欲しいと言ったから。  ――信じてたのに。  担当の司祭が出張中で、ディードーは理由まで教えてもらえなかったという。宣誓に他人の横槍は入れられないので、実質理由は二択だ。書類の不備か――ルシアーノが止めたか。  これまでの関係が、昨日のキスも含めて虚構だったと知り、ミルファは茫然とした。ふらりと立ち上がり、部屋を出ようとする。 「ミルファ様! お気をしっかり! なにか深い理由があるのです。私にも……ルシアーノ様が人を騙すような方だと思えません」  扉の前でディードーに引き止められ、振り払う気力もなく立ち止まる。 「でも、騙されてた……」 「本人に訊いてみましょう」 「本人が、今は話せないと言ったんだ! 僕に惚れてるなんて口説いて、誤魔化されたんだ!」  つい、声を荒げてしまう。もう自分の胸の内だけで悩むのは限界だった。 「…………」 「生家に行く。僕の妹がルシアーノと婚約するらしい」 「はっ?」  初めて聞く話のオンパレードでぽかんとしてしまったディードーに、先日の夜会の顛末について話す。全てを聞いた彼は「ルシアーノ様の目的がわかりません……」と心底困ったように眉尻を下げた。  ミルファにもわからない。  だから会いたくないけど、家族に会って尋ねるのが一番早いだろう。ルシアーノに訊いたとしても、いまは何を言われても信じられないし、どうしてもミルファは本人から真実を突きつけられるのが怖かった。  ミルファは単身乗馬で向かおうとしたが、ディードーに止められ二人で馬車に乗った。  空は分厚い雲に覆われていて、日の光が通らない。何も降ってはいないものの空気は冷たく、心には不安が降り積もっていくばかりだ。  もう何年も足を踏み入れていない生家だ。一緒に来てくれる人がいるだけで心強いと、今さらながら思った。 (結婚できていなかったと知って、僕はどうすればいいんだろう……)  ルシアーノはもちろん分かっていてミルファと暮らしていたのだ。  なにも知らないふりをしてルシアーノと暮らせるの?  ――僕たちは……他人なのに?

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