20 / 39

20.身と心の変化

「あれ……来客中かな?」  クィリナーレ邸に到着すると、敷地内に馬車が止まっているのが門の外から見えた。紋章は見えないものの、黒塗りの外観に金箔で装飾がなされた豪華な馬車だ。  もし来客中だったら、ミルファが相手をしてもらえる可能性は限りなく低い。この家の中でミルファの価値は無きに等しいからだ。 「どうしよう。せっかく来たけど出直そうか……」 「ミルファ様。あれを……!」  ディードーが指差した方向へ目を向けると、開け放たれた玄関ホールには華やかな装いをした貴族の男性がいた。兄や妹、両親が笑顔で出迎えている。  和やかな雰囲気に、客が歓迎されていることがわかる。もっとも、誰だろうと思う前にその客の背中に、ミルファは既視感があった。 「ルシアーノ……?」 「……ですね。私もルシアーノ様に見えます」  ミルファたちはそのまま家に帰った。ルシアーノが、知らないところでミルファの家族と仲良くしていたこと。それは妹との婚約という事実の裏付けになってしまった。 「僕は、本当に騙されていたみたいだね」 「ですが……どうして」 「さぁねぇ。僕を騙したって、お金も権力もないし……なんのメリットもないと思うんだけど」  実はクィリナーレ子爵家が目的だった? オメガのモリアが目的で、ミルファを橋渡し役にするつもりだったとか?  残念ながらミルファは家との繋がりが薄く、役に立たなかっただろう。見切りをつけて、ルシアーノはみずから行動したらしい。  確かにモリアは適齢の女性かつオメガで美人だし、平民だったら子爵家でも婿入りできれば玉の輿に違いない。いやでも嫡男がいるし、ルシアーノはお金もあるはずだから……ん?  何かがおかしい、やはりミルファの預かり知らぬ理由があるのだろうかと頭を傾げていると、ルシアーノが帰宅したと報告があった。ミルファはディードーと目を合わせ、深く頷く。 「書斎まで連れてきてくれる?」 「……畏まりました」  帰宅早々呼びつけられたにもかかわらず、ルシアーノは嫌な顔ひとつ見せずに現れた。それどころかミルファの顔を嬉しそうに見つめ、「ただいま」と甘い声で告げる。  しかし昨日の夜のように、ミルファの胸に喜びが満ちることはない。 「おかえりルシアーノ。今日はどこへ行っていたの?」 「え? だから侯爵家へ……」 「……もう嘘は懲り懲りだ。僕の生家に行っていたでしょう? モリアとの婚約は進んでるの? ――ああ、僕と婚姻を結べていないことは調べがついているから誤魔化せないよ。まさかずっと他人だったとはね」 「まっ、待ってくれ!」  ミルファが話せば話すほど、ルシアーノの肌からは色が抜けていった。元々白い肌が、青くさえ見える。  彼は口を開こうとするが、ミルファはそれを許さなかった。 「もうなにも聞きたくない!! 全部嘘だったなんて……ひどい侮辱だ。僕みたいな取るに足らない男を騙して、手のひらで転がして、楽しかった? ――はは、そんなところは確かにお似合いだよ。僕の妹に」 「ミルファ、違うんだ……」 「出ていってくれ」 「…………」 「今度こそ、この家から完全に、出ていってくれ」  初夜のときよりはっきりと、間違えようもなく命じた。  ここは僕の家だ。ルシアーノを追い出す権利はある。    キッと睨み上げれば、蒼白な顔をしたルシアーノは傷ついた目をしていて怯みそうになる。こんなにも感情を露わにして怒ったのは生まれて初めてかもしれない。  身体が熱くて、そのくせ指先は冷えている。じくじくと胸は痛み、紺碧の目からは涙がこぼれそうになってしまう。先に傷つけてきたのはそっちなんだ。 「すまない……嘘をついていて」  ルシアーノはひと言だけ告げたあと、くるりと背を向けそのまま去っていく。彼ならそのまま荷物をまとめて出ていくだろう。ディードーが一緒に部屋を出ていったけど、荷造りの手伝いでもするに違いない。 (……離婚でさえないんだ。出ていくのも、簡単)  それに、ルシアーノの荷物は元々手鞄ひとつだけだった。こんな無欲そうに思える人がミルファを騙し続けるなんて、やはり違和感が拭えなかった。  彼がこの家からいなくなることを思うと、心が引き裂かれるような苦しさと寂しさを覚えてしまう。一緒に楽しい時間を過ごして、たくさん助けてもらった。本当に……好きだったのだ。  しかしもう、引き留めようとは思えない。惹かれていたからこそショックだった。  こんなに大きな失恋の傷、どうしたらいいのかわからない。とにかくもう顔も見たくないことは確かだ。  アルファの男性に恋をするなんて身の程知らずな想いを抱いた罰かもしれない。逞しく精悍な彼にはもっとふさわしい人がいる。そういうことだ。 「あはは……結局僕の自業自得だ」  ひとりになった書斎に乾いた嗤い声が響く。ひどく情けなく、ひどく苦しい。  外はまだ明るいのに、ミルファのいる場所だけ日が落ちてしまったかのようだった。  翌日、ミルファは普通に出勤した。  身体は重く感じたものの、失恋ごときで休むなんていち大人としてあり得ない。それに家にいると鬱々としてしまって、働いていたほうがよほどマシだと思ったのだ。 「ミルファくん、顔色悪いけど大丈夫?」  普通に働いているつもりだったけど、心配そうな顔をしたフェブルウス長官に声を掛けられてしまった。食欲がなくて朝なにも食べなかったのが良くなかったかもしれない。  教会へ行く前からルシアーノが家に来たことを知っていた情報通の長官でさえ、ミルファが実は結婚していなかったことは知らないのだろう。いつか別れたと噂されるときが来るのだろうか。 「ええ、問題ありません。この資料ももうすぐできますから」 「ううーん……なんだか……」 「なんかミルファ、香水つけてる? 甘い匂いするけど」  長官の言葉を引き継ぐようにユノが喋り出す。隣の席から、くんくん動物のように鼻を突き出してくるからミルファは思わず避けた。 「あっ、おやつだよ! 今朝ご飯を食べなかったから持たされたんだ」 「……恥ずかしくないの? 子供じゃないんだから」  言ってから、自分でも恥ずかしくなってくる。  うう。だって、料理人が「持ってけ」って…… 「食欲ないんじゃないか。この前も休んでたし、まだ本調子じゃないんだね?」 「いや、これは違うんです! ほら、こーんなに元気いっぱいで……」  長官の心配を跳ね除けるようにミルファは椅子から立ち上がり、腕を振ってアピールする。しかしその瞬間くらりと目眩に襲われ、平衡感覚がなくなった。 「あれ……?」 「――ミルファ!!」  ――身体があつい。お腹が痛い。  そんなことを呻きながら、ミルファは王宮内の救護室へと運ばれた。高熱を出して全身から汗を噴き出し、あまりにもしんどくて、生まれて初めて死を覚悟する。  どうしよう、急に死んだら屋敷のみんなに迷惑をかけてしまう。家令がしっかりしてるから大丈夫? うまくわずかな財産を分配してくれるだろうか。  職場の同僚たちは、優秀だから大丈夫だな。しきりに心配してくれていたし、ユノは悲しむかもしれないけど。  家族は……せいせいしたと喜ぶだろう。  あとは、もう関係ないかもしれないけれど、ルシアーノは…………  彼のことを考えた瞬間、ドクンと全身が脈打った。 「ゔっ。あ゙あ゙あああ!」  医官らしき人が何かを言っている。わからない。苦しい。  ミルファは寝かされた場所でのたうち回って苦しみ……そのまま意識を失った。  ◇ 「ん……あれ?」 「っ……ミルファ様!」  ミルファが目を覚ましたとき、視界に見慣れた赤毛がまっさきに映る。ポモナが心配そうに顔を覗き込んできていたので自宅にいるのかと思った。その顔はひどく青褪め、何日も寝ていないかのように目の下に隈ができている。  今朝まで元気そうだったよな? あれ、いつから寝てるんだっけ……?  部屋には分厚いカーテンが引かれており、時間が読めない。そこでようやく、ここが自宅ではないことに気付いた。 「ああ、目覚められてよかったです……! 身体は大丈夫ですか? 痛くない? いま、医官の先生を呼んできますからね」 「あ……え? 痛くないけど……えっ、何時間……何日経ってる!?」  母性あふれる仕草でミルファの頭を撫でたポモナは、目元に浮かんだ涙をハンカチで拭いながら席を立った。その反応でようやくミルファは、自分が職場で倒れたことを思い出す。  すごくお腹が痛かったんだ。死ぬかと思ったけど、生きてたみたい。まさか、病気……? いまはすごく身体が軽いけど……  ミルファは寝台から身体を起こし、ぺたぺたと自分の身体に触れる。着ているものがパジャマになっただけで、特に変わりはないようだ。  しかし自分の手が首元に触れたとき、ぞくぞくっと項のあたりが落ち着かなくなった。 「ひっ。なに……?」 「落ち着くまでは項に触れないほうがいい。あと性器にもね」  医官らしい白いガウンを羽織った女性がやってきて、寝台の隣にある椅子へサッと腰掛けた。三十代くらいに見えるが、長い髪をお団子にひっつめた迫力のある美人だ。  いきなりの言葉に、ミルファはポカンとしてしまう。……せ、性器って言いました?  聞き間違いかな? と思ってポモナを見るも、「ちゃんと話を聞いて下さいね!」という保護者顔になっている。 「え……っと、先生。どういうことですか?」 「君はオメガになった」 「は……?」  おめがって、どのオメガ? 二次性のこと? え……、誰が?  丸く口を開けたままミルファは呆けた。医官の女性はまっすぐにミルファを見つめているし、ポモナに視線を動かすとこちらを見つめたまま頷いている。気のせいだなんて思いたくても許されない状況だ。  ――僕ぅぅぅ〜〜〜ッ!?!?!? 「私は後天性オメガの研究をしているんだ。いや〜王宮で倒れてもらってよかったよ。年齢的にもこんなに遅い例は初めてだ! しっかり子宮も形成されていたし……安心していい。ちゃんと子どもも産めるよ」  しきゅうって、子宮!?!? 寝ているうちに調べたって……はぁ、そうですか……  生き生きと喋り倒す医官の目の前で、ミルファは混乱のあまりパタン……と枕の上に倒れた。見かねたポモナが助け舟を出してくれる。 「ミルファ様!? マイラ先生、主人はついこの間までベータだったんです。突然受け入れられるはずがありません」 「あー。普通の人はそうかもね! でも研究者としては嬉しくてなぁ。君はとっても健康体だし、伴侶もいないと聞いた。突っ込まれる側になるのは戸惑うかもしれないが、新たな扉が開けると思うよ!」 「…………」  伴侶はいない、か。確かにそうだ。ミルファには伴侶が。  ルシアーノは、ミルファがオメガになったと知ればどうするだろう? (いや……どうもしないか。僕みたいなのがオメガになったって、価値が上がるわけじゃない……)  鬱屈とした気持ちを抱えるミルファをよそに、医官はうきうきと喋り続けている。ミルファの職場の同僚と同じように、研究者体質で好きなものに対しては周りが見えなくなってしまうタイプらしい。  様々な注意事項を聞いて、一番厄介そうなのは発情期だと分かった。当然と言えば当然だ。  症状を押さえる薬はあるものの、まだ周期もわからない。しばらくは遠出や、大勢の人がいる場所へ出かけることは控えたほうがいい。  逆に最近の体調不良は、オメガへ身体が変化しかけていることが原因だったようだ。その点はもう大丈夫だと言われ、ほっと肩を撫でおろす。  変な病気とかじゃなくてよかった。倒れたときは死をも覚悟したのである。  二日も寝込んでいたらしいミルファは、ようやく飲み物や果物をもらった。目覚めたのは夕方で、もう外は暗い。すぐに帰ってもいいと言われたけど、驚きに叫ぶ元気もないくらい衝撃で身体に力が入らなかった。  侍従のロービーを召喚して運んでもらうのも申し訳なく、もう一晩救護室に泊めてもらうことにした。自分の足で歩く姿を見せないと、屋敷の面々は阿鼻叫喚になりそうだ。

ともだちにシェアしよう!