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23.じっとしていられない

 体調も落ち着いてきて、そろそろ仕事に復帰しようとミルファが思っていたときのことだった。 「え。ルシアーノ、まだ行方知れずなの……?」 「はい。逆に心当たりはないかと、先日の執事殿から手紙をいただきまして」  ディードーが困ったように眉をひそめ、いかが致しましょうと伺いを立ててくる。なんと、ルシアーノはもうひと月も音信不通になっているらしい。  ミルファもさすがに心配せざるを得なかった。歳上の立派な男性なのだから、心配なんてせずともどこかで元気にしていると思っていた。しかし侯爵家での用事をすっぽかしたままにするのは、礼儀正しい彼らしくない。 (……何もかも嫌になっちゃった?)  ミルファに家を追い出されたことは、優しくて繊細なルシアーノにとって相当な衝撃だったのかもしれない。  あのときはこっちもショックを受けていて……などと内心言い訳しながらも、やはり罪悪感が拭えなかった。  真剣に考えて、ルシアーノとの会話を思い出してみる。彼には謎めいたところが多くミルファも多くを知っているわけではないけれど、一緒に過ごしたなかで打ち明けてくれたことはいくつもあった。  読書が好きなこと。馬が好きなこと。星空が好きなこと。それに、セリオ侯爵との関係や彼の育て親の話――   「うう〜ん、心当たり……。あ」  ミルファは思い出した。ルシアーノの両親が亡くなってから育ててくれた男性の話を。確か、スッマという人だったはず。エトワで天文台を見上げていた彼は、スッマさんがそこにいるのではないかと思いを馳せていた。  例えば人生を揺るがすほどショックなことがあったとき、自分の居場所がどこにもないと感じたとき、ルシアーノは養い親のことを考えるのではないだろうか?  その人以外に彼が心を預けられそうな人を、ミルファは知らないだけかもしれないけど。 「ディードー。ルシアーノは、エトワに……行ったのかもしれない」 「エトワ、ですか?」  思い至った経緯をディードーに話すと、彼は顎に手を当てながら「可能性はありそうですね」と頷いた。  同意を得て、ミルファはそわそわと椅子から立ち上がる。少しでも可能性があるのなら、確かめに行きたいと思ったのだ。  発情期のあいだ無意識にルシアーノを求め続けていたせいで、正直なところ会いたくて仕方がなかった。気まずいとかそんなことよりも、今は彼の顔が見たい。見て、安心したい。 「確かめに行こう! ディードー、ついてきてくれる? いや、ロービーの方がいいかな」 「なにを仰いますか! ミルファ様が動く必要はございません。というか危ないですよ。私が確かめてまいります」 「えー……でも。行ったことのある僕のほうが土地勘もあるし。危なくないよ? 次の発情期は三ヶ月後のはずだ」 「だ・め・で・す! 真冬ですよ? あなたは病み上がりなのを自覚してください。いくら主人の命令だとしても、絶対に行かせませんからね。大人しく屋敷で待っていてください!」  本気で止められて、というか叱られて、ミルファはしゅんと項垂れた。確かに病み上がりかもしれないが、もう回復しているのだ。いつまでミルファはか弱い扱いされなければならないのだろうか。  ディードーは馬車で翌朝からエトワへ向かうため、慌ただしく準備をしている。ミルファの気持ちを察して急遽予定を立ててくれたのだ。それでもミルファの心は晴れなかった。 「クレア……きみも寂しいよね?」  青鹿毛の牡馬、クレアはふたりで見に行ってルシアーノが購入した愛馬だ。この子も彼の持ち物だけれど、置いていかれてしまった。  ミルファが手を差し出すと、顔を摺り寄せてくる。目を細めて甘える様子は可愛らしいが、やはり哀愁漂う表情に感じるのは気のせいだろうか。  ぼんやりしていると、急に背中からトンと押されてミルファはつんのめった。 「アウロス! びっくりしたじゃない」  ミルファの愛馬が自分も構えと言うように顔を押し付けてくる。首から肩にかけてをポンポンと撫でてやって、その体温と毛並みに心が癒やされていくのを感じた。やっぱり馬はいい。  ルシアーノと馬を並べてエトワに行ったときは、こんなことになるなんて思いもしなかった。  恋心を自覚していたから、少し距離が縮まるだけで嬉しくて。少しどころか彼の方から急なスキンシップがあって、あわあわしていたなぁ。 「ルシアーノ……」  ぽつりと彼の名が口から零れ、寂しくてたまらなくなる。心の臓が切なさに震え、ミルファはアウロスの逞しい首に抱きついた。  慰めるように顔を擦り付けられ、切なさにグッと喉の奥が締まった。  泣きそうな気持ちを堪えていたとき、玄関のほうがざわざわと騒がしくなったことに気づく。誰だろう。来客?  厩舎から少し距離があるのでミルファが急いで戻ろうとしたところで、聞き覚えのある高い声が聞こえた。 「ここにルシアーノ様を隠しているんでしょう!? 出しなさいよ!」  視界に赤いドレスが入ってくる。妹のモリアが勢いよく屋敷の中に入ってこようとするのを、使用人たちが止めていた。ディードーとポモナは準備で忙しいのか出遅れたようだ。  一応女性なのでロービー筆頭に男性陣は手が出せず、意外なことに侍女のセルピナが一歩も通さないというように彼女の前に立ちはだかっている。 「お嬢様、主人の許可を得ずに屋敷の中へ入るのはお控えください」 「はっ。使用人のくせに生意気な! 私の兄の家なんだから、自由に出入りしていいに決まってるでしょ?」 「それは困るよ。僕は君を歓迎しない」  ミルファは一触即発の会話に慌てて横入りした。慌てすぎたせいでぽろっと本音が出てしまい、聞いたモリアはキッと目を尖らせる。  その視線に怯みつつも、ミルファは実際彼女に早く帰ってほしくて仕方がなかった。この屋敷は、ミルファや使用人たちにとって大切な安住の地なのである。  ミルファはセルピナを下がらせ、自身がモリアの前に立つ。どうして彼女がここに来たのか、正直言ってよくわからなかった。 「ルシアーノはここにいない。探しにきたのか? わざわざ?」 「じゃあどこにいるっていうのよ! 私と婚約するはずだったのに……全部ミルファのせい。私に嫉妬して奪おうとしてるんでしょう」 「えっ。婚約、断られたのか?」  侯爵家の執事からの話を思い出して発した言葉は、彼女の地雷に触れてしまったらしい。モリアはわなわなと震えだし、顔を真っ赤にした。 「あんたがルシアーノ様にあることないこと言ったんでしょう! 不細工で馬鹿でなんの価値もないお前が、私や我が家に牙を剥こうって!?」 「そんなことしてない。僕がルシアーノのやることに口出しするわけがないだろう」 「ふんっ、赤の他人だものね。でもこんな貧乏屋敷に住んでるんだから、お金に目が眩んだんじゃないの? このゴミクズ。私は騙されないわ!」 「…………」  鼻で笑って赤の他人だと言われて、モリアたちの方が先に婚姻の真実を知っていたのだと思い出す。悲しい気持ちが湧いてきたが、お金が目的でミルファがなにか行動を起こすと思われていることがひどく滑稽に感じられた。  彼女はミルファのことを何も知らない。生家の家族はミルファのことを理解しようとさえしていないのだ。ルシアーノとは正反対だ。 「あんたは見捨てられたからルシアーノ様はここにはもういないのね。……侯爵領かしら。きっと私が手に入れて見せる。絶対お前なんかに渡さないから、邪魔するんじゃないわよ!」  ミルファの意見など聞こうとせず、モリアは自分の中で結論を出したようだ。呪いのような言葉を残して、彼女は去っていった。  セルピナがブチギレて「今からでも私、人目につかないところであの女を絞め落として身ぐるみ剥いできましょうか?」と進言してきたが宥めておく。  侍従たちも、腕まくりしなくていいから。出遅れたディードーは黙って塩を撒いている。  ミルファの屋敷にまで家族が突撃してきたのは初めてで、使用人全体に動揺が走ってしまった。ここまで家族に嫌われていることが主人として情けなく恥ずかしかったけれど、彼らはミルファを蔑んだりしない。  その優しさがまたルシアーノを想起させて、ミルファは俯きぐっと下唇を噛んだ。  妹の登場はありがたくなかったとはいえ、彼女の発言から二つ確信できたことがある。  ルシアーノはモリアと結婚しないし、クィリナーレ子爵家にもいない。それは、セリオ侯爵家の執事の話と一致する。  どうしてルシアーノがクィリナーレ子爵家を訪れていたのかは分からないけれど、ほんの少しだけホッとした。結局家族の言動にミルファは振り回されただけだったらしい。 (もう、理解が追いつかないよ! やっぱり、本人に会って話を聞きたい……)  真実まであと一歩のような気がするのだ。彼はエトワにいてくれないだろうか? モリアがちらと言っていたように、侯爵領……なんてこと、あるのか?  エトワだけでも確認したい場所はいくつもある。天文台は当然のこととして、一緒に泊まった宿やオーロラを見た丘も見てきてほしい。  ミルファは細かいことをディードーへ伝えに行くため、自室を出た。しかし階段を下りるより先に、ルシアーノの私室だった部屋の扉が目に入る。  喧嘩別れしてから複雑な気持ちを整理しきれず、あれからその部屋を訪れたことはなかった。  ふと、興味本位で足がそちらに向き扉を開く。その瞬間小さな風が巻き起こり部屋の中の空気が入れ替わって、ふわっと優しい森のような香りに包まれる。 (この匂い、ルシアーノのフェロモンだったのか……)  今ならはっきりと分かるけれど、オメガになってしまう前からミルファはアルファの……というかルシアーノのフェロモンに魅了されていたらしい。安心して、ちょっとだけドキドキして、この上なく大好きな香り。  室内は綺麗に片付いていたが、書棚には本が元より多く並んでいる。その中にはミルファの書斎にあったはずの馬の世話に関する本や、見覚えのない天文学について書かれた本もある。  後者はルシアーノが持ってきたものだろう。この屋敷を出ていくとき、書棚までは見なかったに違いない。  おそらく家もないルシアーノは、慌ただしく出ていかなければならなかった。ミルファに出て行けと言われたせいで。 (やっぱり……どう考えても、僕が連れ戻すべきだ)  馬車だと無理だけど、騎馬ならエトワもぎりぎり日帰りできる。  天気とか帰りは夜になるだろうこととか心配しだせばキリがないものの、ミルファはじっとしていられなかった。  きっと呆れて、叱られる。間違いなくディードーやポモナ辺りは怒髪天をつくだろうが、それは帰ってから考えよう。  ミルファは自室に戻って手早く準備した。明日出発するための準備をしている使用人たちは忙しそうで、ミルファがこそこそと厩舎を経由して外に出たのにも、気づく者はいなかった。

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