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24.エトワの秘密
「つ……つい、た……」
身体が震えて、声もうまく出ない。二ヶ月ぶりに訪れたエトワは雪こそないけれど所々で水たまりが凍り、以前よりも寒々としていた。
防寒はしっかりしていても、移動中から指先や足先がかじかんできて痛いほどだ。
長時間乗馬するのも久しぶりだったため、体のあちこちが強張っている。ミルファの体重が減ったからなのか、アウロスの方はまだまだ元気いっぱいだけれども。
まずは以前泊まった宿に馬を留めさせてもらい汗を拭いたり世話をしてから、ルシアーノが泊まっていないか確認する。
この町自体が長期滞在に向いてなさそうなので望み薄ではあったが、やはりルシアーノはいないようだった。
宿の主人に尋ねると、圧倒的な造形美をもつルシアーノのことは記憶の端に残っていたらしい。その上で、あれから一度も見ていないという。
ミルファはこの時点でがっくりと項垂れてしまった。この小さな町で見ていないのなら、いない可能性が高い。
「い……いや、スッマさんに再会して、家に泊めてもらっているとか……」
なくはない、と自分を励ましてミルファは天文台を目指すことにする。町の中では一番大きな通りを歩いていると、自分が思ったよりも疲れていることに気づいた。足取りがどうしても重い。
やはり病み上がりでの遠出は身体へ負担になっているらしい。寝込んでいる間に筋力も落ちてしまったし、帰ったら本格的に運動を始めようと決意する。オメガになったからといって、体質の変化を甘んじて受け入れる必要はないのだ。
やるぞーっと密かに闘志を燃やしていたとき、背後から馬車の近づいてくる音が聞こえてミルファは振り返った。この町で馬車は初めて見た。方向的に領主館からやってきたのかもしれない。
一番広いとはいえ馬車一台が通るのにやっとの通りだ。ミルファは邪魔にならないよう道の端っこに寄ろうとしたが、よそ見をしていたら土の地面から飛び出ていた石に躓いた。
「わっ……!」
ルシアーノがいたらさっと支えてくれる場面かもしれないな……なんて現実逃避を瞬きの間にしつつ、思いっきり地面に尻を打ち付けてしまう。痛い。
「いたぁ〜い!!」
目の前に星が飛ぶような衝撃に、思わず叫んでしまった。通りに響くほど大きな声を出してから、さすがに恥ずかしくなってミルファはそそくさと立ち上がる。
人通りが少なくてよかったとひと安心したのは一瞬で、ミルファの声に驚いたのか馬車が止まってしまった。
御者に扉を開けさせ、人が馬車から下りてくる。口髭を左右に伸ばし跳ね上げるように整えたスタイルで、豪奢な服に身を包んだ年嵩の男性だった。いかにも私が領主です! という雰囲気をばしばし感じる。
「大丈夫かい? 見ない顔だね」
「あっ、だ、大丈夫です! お恥ずかしいところを……」
「いや、驚かせてしまったのはこちらだ。観光かい?」
じっと舐めるような視線でミルファを見て、不審者だと思ったのか目的を尋ねられてしまった。この道の先には天文台の塔くらいしか目立つ建物もない。余所者がひとりトコトコ歩いているのは、おかしかった?
人探しと正直に答えるには事情が複雑すぎると判断し、ミルファは王室家政長官局の仕事で下見に来たと告げる。
すると男性はたちまち表情を明るくし、自分が領主だと名乗ってから嬉しそうにミルファをハグしてきた。不審者疑惑は晴れたみたいだけど……
「ありがとう! 君たちが我が町を外遊の立ち寄り先に推薦してくれたんだろう」
「いえあの、推薦したのは私の同僚ですが……。喜んでいただけて光栄です」
突然の身体接触を不快に感じ、変な鳥肌が立ってしまう。最近は妙なことに敏感になってしまった。
さりげなく身体を引くと離れる前にスゥーッと首元を嗅がれた気がして、ミルファは「ん?」と違和感に気づく。……なんだ?
「……ああ、転んだときに土がついてしまったようだ」
「えぇ! あ、あの、自分でやりますから!」
急に領主は背中側に回ってきて、土がついているという部分をはたき落としてくれようとする。親切心からなのだろうが、さすがに会ったばかりの領主にやってもらうのはおかしい。
恐縮というより戸惑いでミルファが固まっていると、領主の手つきは服を叩くのではなくさわさわと撫でるように動いていることに気づいた。まるで、身体のラインを確かめているようだ。
え! とミルファは内心驚愕していた。これって……これって……痴漢では!?!?
(僕はしがないベータなのに……って、一応オメガだったーーー!)
領主の手が腰や尻に到達したとき、ミルファの我慢も限界に達した。自分なんかよりよっぽど偉い立場の相手に逆らっちゃ駄目だ、という思いが数秒だけミルファを我慢させたが、やっぱり無理なものは無理なのだ。
「転ばせてしまったお詫びに領主館へ招待しよう。最高の晩餐を用意するから、泊まっていってほしい」
「けっ、結構です! 失礼します!!」
「待ちなさい。おいっ、待て!」
ミルファは領主を押しのけて走った。裏道など分からないので行き先は前と後ろの二択で、もちろん天文台の方へ向かう。
馬車で追いかけられたらあっという間に追いつかれるだろう。ミルファは息を切らしながらも本気で走る。
あの領主はやばい。ビリビリと本能が危険信号をあげていた。出会って早々男の身体を撫で回すなんて!
誘われるまま領主館に行っていたら、間違いなく貞操の危機だ。好色な男とはいえわざわざ平凡なミルファにまで手を出そうとするとは思えないし、きっとミルファがオメガだと気づいたに違いない。領主はアルファなのだろう。
怖かった。オメガというだけで、これまで見向きもされなかった相手からも性的な対象として見られることが。
身体を弄 られる手の感触を思い出し、全身にぞわぞわと鳥肌が立った。
「はぁっ、どうしよ〜! 追いかけてきてる……!」
領主は馬車に乗り込んですぐミルファを追うように指示したようだ。車輪が舗装されていない道を走る、ガタガタと激しい音が聞こえる。
ミルファは何気に足が速い。でも今日はすでに疲れていて、持久力に自信がないのだ。しかも向かう先は天文台と、その奥の畑みたいなところを抜けた先の森しかない。
この前ルシアーノと天文台を見にきたとき、門は固く閉ざされていたし人けもなかった。助けを求められそうになかったら、森の中に逃げ込むしかない。馬車の通れなさそうな道を選べば、なんとか……!
ミルファは必死で走っていた。すぐに息が上がって、胸のあたりが痛くなってくる。厚着をしているせいで動きにくい。
通りにも僅かながらに人はいたものの、誰もが見て見ぬふりをしていた。分かっている。この小さな町で領主に逆らうなんてできるはずもない。分かっていても、藁にも縋る思いだった。
(誰か、助けて……!)
振り返って確認する余裕もないけど、馬車の音は確実に近づいてきている。怖くて仕方がない。捕まったらどうなってしまうのだろう?
ようやくたどり着いた天文台は、塔をぐるりと囲った正面にある大きな扉がぴたりと閉じていた。試しにドンドンと叩いてみるが、かなり分厚いのかろくな音も鳴らない。手が赤くなるが、痛みを感じないほど焦って、泣きたい心地だ。
「誰かっ、誰かいませんか……!」
考えてみれば、ここに人がいたとして通りで見た彼らと同じ反応をするのは必然だった。平民にとって、領主の力はそれだけ強い。
目の奥がツンとして本当にそのまま泣きそうになってしまったが、ここで諦めては駄目だ。自分には帰る家があるし、待っている人たちもいる。
ミルファは重くなった脚を動かす。塔の裏手に回って、領主から姿を隠して逃げようとしたときだった。
「こっちだ!」
「えっ」
突然声のした方を振り返ると、塔の裏側にある小さな扉から手招きしている人がいる。髪の白い老人だ。
一瞬迷ったものの、ミルファはすぐに身を翻し老人のもとへ走った。扉は思ったよりも小さく身を屈めなければならなかったけど、外側に取手はなく閉じてしまえばそこに扉があったことも気づかないだろう。
「どこ行った!?」
「…………」
すぐ近くでガタガタと馬車を止める音がして、領主らしき男の声がする。ミルファは息を潜めるが、老人は見つからないことに自信を持っているのか目の前にある階段を静かに上りはじめた。ミルファにもついてくるよう、指先で示される。
たどり着いた部屋はたぶんまだ低階層だけれど、扉をひとつくぐった先には生活感がある温かみのある空間が広がっている。床に分厚く使い込まれた絨毯が敷かれ、窓はあるのだろうが壁に掛けられたタペストリーで見えなかった。
申し訳ないと思いつつ、ミルファはソファに倒れ込むようにして座ってしまった。脚がガクガクと震え、到底立っていられそうにない。
疲労と、恐怖と。走っているときは誤魔化されていた感情が溢れてきてしまい、身体が言うことを聞かなかった。
「不躾な質問で失礼だが……きみは、オメガだね?」
「……はい」
老人はミルファに尋ねる。普通なら二次性はあまり吹聴すべきものではないとはいえ、助けてくれた人に嘘はつきたくない。
ミルファが素直に答えると、彼は「すぐにこの町を出なさい」と確固たる声音で告げた。
パッと顔を上げれば、老人が悩ましく眉根を寄せているのが見えた。髪も、フェイスラインをぐるりと覆う髭も真っ白だが、つぶらで黒い瞳には理知的な光が宿っている。
「あなたは……ここの研究者ですか? あぁ、申し遅れました。僕はミルファ・クィリナーレ。王宮に勤める者です。先ほどは助けていただき、本当にありがとうございました」
聞きたいことがありすぎてつい質問が先走ってしまったが、まずはお礼を伝えなければならないと、ミルファは姿勢を正して頭を下げた。間一髪で救われたのだ。
「いやいや、頭を上げてください。こっちは平民なので、丁寧にされるとどうしたらいいのか……むしろ失礼があったら申し訳ない。私はスッマと言います。まぁ、こんなヨボヨボの爺でも、研究者と呼ばれる人間なのでしょう」
「スッマ……?」
「珍しい名前でしょう。その昔、他国から流れ着いた一族の末裔なんですよ」
スッマは穏やかな様子で説明しているが、ミルファの脳内はそれどころじゃなかった。スッマって……あのスッマさん!?
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