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26.大人としての責任
恐縮しながらも温かい食事までもらってミルファが休んでいると、スッマが少しだけ屋上で星見をしようと誘ってきた。なんだか落ち着かず眠れなかったので喜んでついていく。
部屋を出る前、スッマにオメガ用のネックガードをつけるように言われた。塔にいる学者はオメガだけじゃないためだと説明され、借り物のそれを首につける。
慣れない感触にミルファは複雑な心境になったが、昼間のことを思えば納得せざるを得ない。確実に身を守れるオメガでない限り、ネックガードは必要だ。
長い螺旋階段を上り切ると、外から想像していたよりも広い空間が目の前に広がっている。屋上のそこかしこで人が集まり、円盤状の機器を操作したり羊皮紙に何かを記録したりしているのが見えた。
ルシアーノが言っていた、星の位置を測る道具があれかもしれないなぁ。
空には満天の星空が広がっているけれど、今日はオーロラが出る日ではないらしい。月と星明かりのみで静かに研究を進める学者たちは、神聖な雰囲気を放っている。星のひとつひとつから何が読み取れるのだろうか、気になるものの話しかけて邪魔をする気にはなれなかった。
外に出て間もないからか、キンとした寒さは意外にも心地よく、吐く息は白い雲のようだ。スッマが誰かに呼ばれて行ってしまったので、ミルファは地上とは別世界のような光景をひとりで堪能していた。
――そのとき、ギッとなにかが軋むような音が遠くから聞こえた。塔の下に誰かいるのか……?
「あれ? 下に……」
ミルファが屋上の縁から地上を見下ろすと、遠くに人影が見える。塔の裏口から人が出てきたようだった。
ミルファの視力ではそれが小柄な人物というところまでしかわからなかったが、近くにいた女性には誰かわかったらしい。
「きゃっ、あれ見て! トゥルナが外に出てる!」
「羽ペン落としちゃったー! すぐ戻るから!」
無邪気そうな男の子の声だった。塔から少し離れた草むらへ走っていき、きょろきょろと足元を探している。その細い項にもネックガードが巻かれているのが見えて、ミルファはゾッとした。
「駄目だ! 危ないから戻りなさい!」
「……僕っ、連れ戻してきます!」
オメガにとってこの町は危険だということをミルファは実感したばかりだ。それに、ミルファが消えたあとも領主はこの辺りを探していただろう。この時間にもなれば諦めているだろうが、確実に安全だとは言いがたい。
ミルファが駆け出すと、スッマの静止する声が聞こえた。しかしここにいるのは年配の方や女性、か弱そうなオメガばかりで咄嗟に行動したミルファを止められる人はいない。
目が回りそうになりながら螺旋階段を駆け下り、ミルファが昼間に入ってきた扉を押し開けようとしたとき――トゥルナの悲鳴が聞こえた。
(まずい!!)
急いで外に出ると、トゥルナが大柄な男二人に拘束されているところだった。小さな扉から出てきたミルファにはまだ誰も気づいていない。
ミルファは丸腰だし、本来ならなにか策を講じてから行動に出るべきだ。分かっていても、目の前で攫われようとしている子を見過ごすなんて……できない。
「君たち、やめなさい!」
「っ、誰だ!?」
ミルファが大声を出すと、トゥルナを馬に乗せようとしていた破落戸 の男たちがギョッとした様子で振り返る。
「その子をどこへ連れて行こうとしている。警吏を呼ぶぞ!」
「この町に警吏なんていねぇよ!」
ウッと撃たれたようにミルファは胸を押さえた。……そのとおりである。
以前王都で使用したハッタリは通用せず、ミルファには男たちを蹴散らせる腕力もなかった。トゥルナは口元を押さえられ「うー!」と声にならない声を上げている。
焦るミルファの背後では、塔内部から何人もの人がバタバタと階段を降りる足音が聞こえていた。しかしここで彼らが出てきてオメガであるトゥルナを守ろうとすると、天文台の人々は完全に領主と敵対することになってしまうだろう。
もしかしたら、前領主のときの悪夢が再び繰り返されるかもしれない。そんなの駄目だ。いまトゥルナひとりを助けても、代わりに多くの人が犠牲になってしまっては意味がないのだ。
もちろんトゥルナを見捨てるつもりなんてない。やはりミルファがひとりで、なんとかしなくては。大きく息を吸い、余裕そうに見える表情を作って声を張った。
「代わりに私を連れて行けばいい。その男の子より領主様を満足させてみせますよ?」
「なんでお前が……って、昼間のオメガはお前か!」
脚が震えないよう意識しながら近づいてゆき、ミルファは自らの顔とネックガードを見せる。
もともと破落戸たちもミルファを探しにここへ来たに違いない。栗毛の男とでも聞いていたのだろうか、彼らはこちらを見て目を丸めている。
気の抜けた隙にミルファはトゥルナを奪い返し、「逃げて、今のうちに」と耳元で囁く。
目にいっぱい涙を湛えた男の子は、かつてミルファとルシアーノがこの町に来たとき、外で遊んでいるのを見かけた子だった。オメガだと判明して、塔へ連れてこられたのだろう。
背中を押し出すようにしてやると、走って塔の向こう側へと姿を消した。上手く隠れていれば、塔の人間が回収してくれるはずだ。
「おいっ、こら! なに逃してんだ!」
「二兎を追うものは一兎をも得ず。私が目的だったんでしょう? 彼を探しにいくなら、私も本気で逃げますよ」
ミルファはふわりと彼らの乗ってきた馬に騎乗した。男たちは頭の回転が遅いのか、ただ目を白黒させている。
しかしミルファに逃げられては困ると気づいたようで、一人は慌てたようにミルファの後ろに騎乗してきた。もう一人がミルファの手に縄をかけてから、彼らは領主館に向かって馬を歩かせる。
結局上手く行ったと喜んでいる男たちを尻目に、ミルファもほくそ笑んだ。
(よかった。うまくいった……)
ミルファが連行されようとしているとき、背後に人の気配を感じた。天文台の人たちはミルファの作戦に気づいて、声を上げずにいてくれたのだろう。賢い人たちだから、いま何を優先すべきか瞬時に理解してくれる。
子どもは大人が守ってあげないといけない。あんな少年が領主に凌辱されることだけは、何があっても避けなければならない。
その点ミルファは大人だし、領主に殺意さえなければ耐え凌ぐことができる。
アルファとオメガが番になるには、発情期に項を噛む必要があるという。
ミルファの次の発情期までには時間があるし、なによりもうすぐ国王夫妻の外遊が始まる。間に合う、はずだ。だから大丈夫。
どうしようもなく震える手を誤魔化すように、馬の背中に押し付ける。ほのかに感じる体温だけが、ミルファを慰めてくれた。
間近に見た領主館は天文台の塔と比べるとずんぐりした感じの、大きく立派な建物だった。高さはないものの幅も奥行きもある。
真っ白な壁は宵闇にも浮かび上がって見えるが、建物の雰囲気が薄ら寒く不気味に感じるのは、ミルファの心持ちのせいだろうか。
もう深夜といっても差し支えない時間で、館の中は静かだ。男たちはミルファを使用人に渡し、金を受け取って出ていく。ミルファは自分が物の扱いをされていることに、じわじわと染みてくるような不安を覚えた。
柳のように痩せた男の使用人が「ついて来なさい」と冷たい口調で言い、手を縛られたままついて歩く。
(……怖い)
この先になにが待ち受けているのだろう。生家では兄妹に暴言を浴びせられたりわざと転ばされることはあったけれど、直接的な暴力とは無縁だった。
昼間に見た領主のねっとりとした目つきや無遠慮な手を思い出すと、身体の芯から震えが湧き起こる。怖気付いている場合じゃないのに、今さらミルファは誰かに縋りたくて仕方がなかった。
豪勢なシャンデリアに照らされた空間は明るいのに、光の届かない廊下の隅や閉じられた扉の向こうに闇が凝っている気がする。
階段を上り、長い廊下を進んでいく。使用人は振り返らないが、ミルファがついてきていることは確信しているようだった。壁に飾られた絵画のなかの人や動物の目が、ミルファをじっと見ている。
どこからか断続的な音が聞こえていた。人の声のような、物が絶え間なくどこかにぶつかっているような。
繰り返し聞こえる音にミルファは思わず耳を澄ませてしまう。使用人はミルファを連れて音源に近づいているようだった。誰かのすすり泣き? いや……これは。
ミルファが思い至ったと同時、使用人が部屋の前で立ち止まる。骨と皮だけのような拳で力強く扉をノックし少し待つと、中から男の声が聞こえてきた。
「何だ」
「ラプティオ様、昼間のオメガが捕まりました」
「少し待て」
一瞬鳴り止んだ音は……行為は再開され、ミルファの耳にぎしぎし軋む寝台の音と、すすり泣きのような喘ぎ声が届く。一気に現実が差し迫ってくる。
部屋の中にいるのは領主と、かつて捕まりここに閉じ込められているオメガに違いない。
ミルファは何もできない無力感に打ちひしがれた。中にいるオメガを救えないどころか、次は自分だという恐怖に囚われてしまう。絶望とはこんな色をしていたのかと思うほど、闇は深かった。
「入れ」
耳の奥にこびり付くような性行為の音はいつしか止み、使用人が扉を開ける。今度はさすがに突っ立っているミルファの腕を掴み、部屋の中に無理やり連れ込まれた。
室内に入った途端、むせ返るような甘い匂いが鼻腔に届く。自分の匂いはわからないから、初めてミルファはこれがオメガの発情の匂いなのだと知った。甘い匂いに混じる青臭い匂いが、行為の生々しさを物語っていて吐き気がした。
視線の先にはガウンを羽織っただけの領主と、寝台にくたりと横たわる人がいる。領主は裸で倒れるオメガをそのままに、こちらへ歩み寄ってきた。
昼間に見た姿とは雰囲気がガラリと変わっている。目はギラギラと輝き、その威圧感にミルファは一歩後ずさる。
しかしオメガとは違う、きつい香水のような匂いが鼻先を掠めると膝から力が抜けそうになった。否応もなく身体の奥が熱くなってくる。これはなに?
ふら、と揺らいだミルファの身体を見下ろし、領主は可笑しそうに鼻で笑う。
「私のフェロモンに反応しているとは、やはり紛れもなくオメガだな。その割には身体つきがしっかりしているし、歳も食っているが……」
領主がミルファの首筋に顔を近づけ、すんと鼻で息を吸う。力の入らないミルファの全身に拒絶の鳥肌が立った。
「瑞々しいな。初物だろう。咲いたばかりの花のような匂いは悪くない」
それが領主の、ミルファに対する評価だった。恐怖を上回る怒りが急速に沸き上がってきて、キッと領主を睨む。
「あなたは……どうして、オメガを食い物にしているのですか」
ミルファが口を開いた途端、パシン! と頬を平手打ちされる。頬にねっとりとした液体がつく。痛みよりも何よりも、この人にとってオメガは物以下なんだと思い知らされた。
「それが私にできるからだ。オメガはアルファに逆らえない。そういう生き物だろう、お前たちは」
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