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30.見送る人生

 ルシアーノは甘えられない子どもだった。  母親はルシアーノを産んで亡くなったので顔も知らない。父親は周りの人に助けられながらルシアーノを育ててくれたが、いつも忙しそうでルシアーノは子どもらしい甘えを表に出せなかった。アルファという二次性を持っていたからか心身の成長も早く、親に迷惑をかけずに過ごすことばかりを考えていた。  結局父は仕事中の事故でこの世を去った。悲しくて悲しくて、もう父に迷惑はかからないからと思いっきり泣いた。幼いルシアーノは甘えていないつもりだったけど、父の存在はやはり心の拠り所だったのだ。    親戚はいるらしかったが近くにおらず疎遠で、その後ルシアーノを引き取ってくれたのが当時近所に住んでいたスッマだった。父の顔は広く、色々と知らないところで他人の手助けをしていたらしい。  「自分に何かあったら息子を頼む」とスッマに冗談めかして頼んでいたというけれど、一人暮らしのおじさん――当時スッマは三十歳で、いまのルシアーノよりも若いのだが――に任せられて大丈夫なのだろうかと、ルシアーノはひどく冷静に考えていた。  果たして、二人の生活は穏やかだった。ルシアーノは手の掛からない子どもだったし、スッマは父よりも丁寧な暮らしをしていた。  親のようで、親ではないと理解していた。子どもらしく甘えることこそしなかったものの、時に笑い合い時に叱られたりして日々を過ごしていたのは、やはり『家族』であったといえるはずだ。  なによりスッマはとても博識だった。家を綺麗に保つ方法や物を長持ちさせる方法から始まり、他人との付き合い方や文字の書き方までルシアーノに教えてくれた。平民としては充分すぎる教育を受けられたと思う。 「ルシアーノ、見てご覧。あれがイシュタルだ。明け方と夕方にのみ姿を表す。明るい星だろう? 光をもたらす者という意味の、ルシフェルと呼ぶこともある。ルシーやルクスは光を意味する……君の名前にも入っているな」  スッマが夜空のことについて語るのを聞くのが好きだった。彼は自身の出自をあえて語りはしなかったけれど、十年も一緒にいればルシアーノも察する。  きっとエトワという場所から逃げてきた一族の生き残りなのだ、と。一族から離れて暮らし苦労してきたからこそ、彼はさらに物知りになったのだろう。  その後天文学が国で解禁され、ルシアーノが十六歳になった頃、スッマは遠くへ行くと告げた。ルシアーノもずっとスッマの保護下にいるつもりはなかったから快く送り出した。  もちろん寂しさは胸にあったが、ずっと前から覚悟していたことだ。血の繋がらない子どもを長年育ててくれたことを思えば、早く独り立ちせねばという思いのほうが強かった。  ルシアーノはアルファだ。しかし人の上に立ちたいとか出世したいなんてことは考えたこともなかった。  思春期を迎えた頃から女性に声を掛けられることが増え、ときには同性からのやっかみもあった。自分の容姿はそれなりらしいと気づいても、面倒だと感じるばかりで浮かれることはない。  オメガ性を持つ人に会ったことはある。というかあからさまに誘われたから、試しに一夜を共にした。平民は貴族と違って処女性を重要視しない者が多いし、青年を迎えたルシアーノにも当然閨事への興味はあったので。  それは不思議な感覚だった。彼らの放つ芳香は確かにアルファの身体を刺激するのに、心がぴくりとも動かないのだ。  しかも一度寝るとしつこく付きまとってくる人が多く、ルシアーノは適当な人と寝ることはやめた。性欲を発散したければ、娼館へ行けばいい。  スッマという前例があったため、ずっと一人で生きていくのも悪くないと思っていた。ルシアーノは一人に慣れていたし、もし一緒に暮らすならかなり年上の男性でなければ疲れるだろうなと経験則から考えていた。  恋をしたこともなければ、結婚なんて考えたこともない。  そんなとき、目の前に現れたのがヤーヌスだった。お忍びなのか平民のような服を来ていたけれど、貴族らしい高貴さが全身から滲み出ている。圧倒的なオーラを持つアルファだった。 「そこの君、私と契約を結ばないか? なに、悪いようにはしない。上手くいけば君は貴族になれるし、上手くいかなくとも私の財産の一部は手に入る」  彼がなぜルシアーノに目をつけたのかはわからない。だが結果としてルシアーノはヤーヌスの提案を受け入れ、彼と婚姻を結んだ。  貴族になりたかった訳ではない。しかし元気そうに見えるのに長くは生きられないという彼の、強さの中に弱さが垣間見える瞳を見て決心した。  きっと、これまでの彼を知っている人に弱っていく姿を見せたくなかったのだろう。弱音を吐けないと思ったのだろう。  先に犯罪歴などは調べられていたらしい。赤の他人であって背景に何も持たないルシアーノになら、全てを預けて逝けるとヤーヌスは判断した。  人に優しくし、手を差し伸べることを厭わない人たちに育てられたからこそ、ルシアーノは彼の頼みを断ろうと思えなかった。  外では隙のない貴族であるヤーヌスも家では穏やかな人柄だった。やけに色んな知識を詰め込まれたものの、ルシアーノにとって彼と過ごす時間は楽しかった。  しかし病は確実に進行し、しかも外見に大きく影響を及ぼすものだった。ヤーヌスは上級使用人と医者にしか姿を見せないよう徹底し、その他の使用人や見舞いに訪れる貴族の相手をするのはルシアーノと上級使用人の仕事となる。  ヤーヌスに残された時間もわずかとなった頃、彼はルシアーノにどうするか尋ねてきた。ただの未亡人となって財産の一部を受け取り平民の生活に戻るか、ヤーヌスの養子となって貴族位を受け継ぐか。  ルシアーノは迷わず前者を選ぼうとしたものの、今後の人生に関わることだから時間を掛けて考えたほうがいいと諭される。 「貴族なんて面倒だと思っているだろう、ルシアーノ。まぁ概ねは、そのとおりだ。だが、身分や金は力でもある。いつか君が誰かを守りたいと思ったとき、力が必要となるかもしれない。遺言として残しておくから、私が死んだあとでもいい。しっかり考えなさい。こんな爺の世話を懇切丁寧にしてくれて、君には深く感謝している。幸せになってほしいんだ」  正直なところ、ヤーヌスが最期を迎えるまでの一年間はとてもつらいものだった。彼にはスッマに次ぐほど親愛の情を抱いていたし、病に苦しみ、衰弱していく彼を見ているだけで心が削られた。  覚悟をしていても、別れはつらいものだ。ヤーヌスが五十五歳という若さで息を引き取り、五年という短くも長い奇妙な婚姻関係に終止符が打たれたとき、ルシアーノは唐突な孤独感に襲われた。  ヤーヌス・セリオ侯爵もまた、ルシアーノの『家族』だった。自分はいったい何度、家族を見送るのだろう。何度ひとりになればよいのだろう。  スッマは生きているだろうが、連絡もなくもう二度と会う気のないことはわかっている。それもルシアーノの心を蝕む闇のひとつだった。  落ち込んでいたルシアーノは未来の選択を先延ばしにしていた。ヤーヌスが善意で委ねてくれた二択のことである。  遠縁の親類は遺言の内容を知って静観しており、執事なども心情を慮って急かすことをしないでくれた。  しかし何も知らない周囲はどんどんと先を望み、推測し、みずからにとっての利益を生む方を選ぼうとするものだ。ルシアーノが夫であった人の死後の手続きに奔走しているあいだに、おかしな申し出がいくつもあった。 「婚姻……? 俺に?」 「誰も存じ上げません。あなたがアルファであることを、そして侯爵位を継げる立場であることを」 「そうだったな。この差出人、みんなアルファの子息ばかりじゃないか」 「深窓のオメガとでも思われているのでしょう」  ここ数年でどっと老けたように感じる執事と、目を見合わせて失笑する。  考えてみれば、なんら不思議なことではなかった。ヤーヌスはルシアーノがどんな未来でも選び取れるよう、あえて情報を秘匿していたのだから。 (この俺が、貴族界では可憐なオメガの女性だと思われているらしい)  ルシアーノを見たとして、誰もセリオ侯爵と婚姻関係にあった当人だと気づかないだろう。ルシアーノは何者にでもなれる。  訃報を悼む言葉が国王から届くほど、彼はあらゆる方面に影響力をもつ貴族だった。ヤーヌスの優しさと賢さに感謝し、また彼の不在を寂しく思う。  一人になりたくないからという理由のみで、貴族になってもいいかと思うほどだった。  この屋敷の上級使用人たちとは深い信頼関係ができていたし、ヤーヌスが領地に配置している部下も有能だ。夜会など貴族間の社交は正直気が重いものの、交際を最低限に絞るやり方はもう学んでいる。  とはいえ、なかなか踏ん切りがつかないのも事実だ。今のルシアーノにとって、力は必要なものではない。ヤーヌスの言ったような守りたい人もいないし、できる予定もない。  いまだ大切な人を喪った寂寥感は消えず、長らく色恋からも遠ざかっている。我ながら三十二歳にして枯れているとしか思えない。 「試しに婿入りしてみるか? ――あ。この、人は……」  執事の去った執務室で、冗談めかして独りごちたときのことだ。いつの間にか溜まっていた婚姻の申し込みの一番上、最後に届いたのであろう手紙に書かれた差出人の名前に、見覚えというか聞き覚えがあった。    ミルファ・クィリナーレ、確か子爵家の次男か三男。ヤーヌスから教えられた貴族の情報のなかでは重要ではないものの、損をしがちな優しい性格であると称されていて、気が合いそうだと思った男だ。  ふと興味を引かれ手紙を開くと、面白いほどに正直な内容だった。ベータでなんの取り柄もない貴族だと彼は自称し、それでも婚姻の相手として自分はどうかと書いてある。  他の手紙はちらりと見ただけでも、アルファである自分ならあなたを幸せにできる! 好きなものを与え、贅沢で華やかな生活を保証する! と声が聞こえてきそうなほど自信満々の内容であるのに。  贅沢はさせられないが、穏やかな生活を望むのなら……なんて、控えめで飾らないミルファの手紙に心惹かれた。  侯爵位を継ぐのなら、どちらかというとオメガを嫁にとるべきだ。でもルシアーノにとって、子を産んでもらうための政略結婚なんてこちらからお断りである。  ヤーヌスとも契約だったからこそ結婚したのだ。彼は亡くなった奥方を愛し抜き、子孫を残そうとなんて微塵も考えていなかった。そんなところも彼の尊敬すべき点だった。 『上手くいけば君は貴族になれるし、上手くいかなくとも私の財産の一部は手に入る』    ヤーヌスは出会ったときにそう言った。彼が生前はっきりと告げなかった望みは、ルシアーノを養子にして侯爵位を継いでもらうことだ。  交流のない遠縁の親戚では、ヤーヌスの築き上げてきたものが壊されてしまう可能性がある。その点、ルシアーノは五年であらゆることを学ばせてもらった。    彼の懐の深さに、ルシアーノは甘えすぎていることに気づく。やはりちゃんと……恩返しをしたい。  でもそこに、支えてくれる伴侶がいればなお良いだろう。女性やオメガからの申し出はなく、ここに手紙を寄越したアルファの子息たちはルシアーノを見れば拒否反応を示すに違いない。 「穏やかな生活……か。いいな」  なぜかミルファという人なら、ルシアーノを拒否しないという確信があった。彼のことをよく知った上で、問題のない人であれば事情を打ち明けて契約を持ちかけてはどうだろう。  彼が本当にオメガの妻を求めていたら謝罪して別れればいいし、困りごとがあるならルシアーノの持つ金や権力で解決してやってもいい。可能ならいい友人になりたい。  手紙ひとつで、どうしてここまでミルファのことを信じてしまうのか。惹かれる気がしてしまうのか。  ルシアーノは勘というものをこのとき初めて信じた。一時とはいえミルファを騙すことになるのも忘れて、衝動的に決めた。  そうして、ミルファの申し出を受けることにしたのだ。  まずは未亡人として。裏では侯爵になる手続きを着々と進めながら。  その選択が正しかったのかどうか――ルシアーノには未だわからない。

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