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31.空白の男

 ほどなくして天文台に到着したルシアーノたちは、ミルファを連れて扉をくぐった。かつては固く閉じられていた正面の扉が、先触れのおかげで開け放たれている。  入ってすぐの部屋では知った顔が待ち構えていた。予想こそしていたものの、ルシアーノはやはり目を見開く。それと同時に、ひどく懐かしい気持ちが込み上げてくるのを感じた。 「スッマ……久しぶり」 「ルシアーノ……ルシアーノなのか!?」 「静かに。悪いが話はあとだ。まず、彼を休ませたい」 「っそうだな。ミルファさんだろう? ……大丈夫なのか」  ミルファの眠りを妨げないよう、顔の上半分はローブのフードを被せている。ミルファが領主館へ連れてこられたときに着ていたものだそうだ。  しかしローブと顔の下半分だけを見て、スッマがミルファを判別したことに驚く。  そういえば、ここで子どもを助けようとして捕まったんだったか。スッマと会って話していてもおかしくない。  自分の大切な人同士が知らないところで交流していたというのは、なんとも不思議で、寂しいような温かいような心地だ。  スッマが準備してくれたのは、元々昨日ミルファを泊める予定だった寝室らしい。小さくてよく温められた部屋の真ん中に寝台があり、そこへミルファを寝かせた。  つかのまミルファが起きそうになって、見ているとまた穏やかな寝息が聞こえた。魘されているわけではないが、なんとなく夢見が悪そうに見えて心配だ。  ミルファから目を離そうとしないルシアーノの背後から、ついてきたアルヴィンが「ぼくが見てるよ」と話しかけてきた。 「あの人と話があるんでしょ? 何かあったら呼ぶから」  女性の……オメガだろうか? 気づけばもう一人いて、アルヴィンの言葉に頷いている。  オメガを長年守っているこの塔の中なら、確かに安心できそうだと思った。番もいないアルファのルシアーノのほうが警戒されているかもしれない。 「ありがとう。任せた」  手前の部屋に戻ると、ルシアーノは少し雑多で温かみのある空間に強烈な既視感を覚えた。  古くても丁寧に磨き上げられたテーブルや椅子。書棚には大量の本が入っており、石造りの壁にはタペストリーが、床には分厚い絨毯が敷かれている。柔らかそうなソファには色褪せたソファカバーが掛かっていて、そこにスッマは座っていた。  懐かしい。ここは間違いなく彼の棲み家だ。 「流れ星のような男だね、ルシアーノ。というか……侯爵様が来ると伺っていたんだが。お前が?」 「ああ。でも昔のような態度で接してくれ、少なくともここでは。……で、流れ星って? 確かに流れ流れてこんな身分になったけど」 「昨日ミルファさんとは、いつかまた会えるという話をしてたところだったんだがな。お前が駆け足で飛び込んできた。お陰でミルファさんも、我々も助かったらしい」 「ミルファが俺の話を?」  おや? とスッマが眉を上げるので、食い気味に尋ねてしまったことが恥ずかしくなる。  ミルファがルシアーノを探してエトワまで来たことは、ミルファの屋敷の者から人づてで聞いている。詳しいことまでは聞けていないが、会いたいと思ってくれていたのは確実だ。  だから彼がスッマにどんな話をしたのか、どうしても気になって先を促す。 「さて、な……年寄りだからもう忘れてしもうたわ」 「嘘つけ! なんか、あるだろ。好きとか嫌いとか、嘘つきの酷い男だとか……」 「ははぁ、嘘つきの酷い男だから捨てられたのか」 「ぐっ……」  否定できない。というかそう思われている可能性が濃厚で、どうしてミルファが自分なんかを探して遥々こんなところまで来たのか、さっぱり見当もつかなかった。  しかもそのせいでミルファは酷い目に遭ったのだ。ルシアーノがさまよい歩いた挙句領地に逃げ込んでいなければ、こんな事態には陥らなかった。 「ミルファさんは、本当に優しい子だね」 「……あぁ」 「優しすぎて損をする。でも優しいからこそ、失敗した人間も赦してくれる。彼の周りにいる人は幸運だろう」 「…………」  一瞬会っただけの人でもそう評価するのが、ミルファという人物なのだ。一度彼の傍で過ごすと、誰もが離れがたくなる。  屋敷の使用人たちがいい例だ。過ぎるほどに主人を愛している。    彼はルシアーノのことも赦してくれたのだろうか? だから、また話したいと思ってくれたのだろうか。  ミルファのことだから、怒ってルシアーノを追い出したことさえ自分を責めていそうだ。……重ね重ね、自分の不甲斐なさに胸が痛い。 「ミルファさんはオメガだろう。儂がこんなことを言うのも変だけどな……大事に、してあげてほしい」 「……うん」  ミルファはオメガになってしまった。そのことについても深く考えたいところだったが、アルヴィンの声によって静寂は破られた。 「ルシアーノさんっ。ミルファさんが起きた!」 「!!」  素早く寝室へ移動すると、仄明るいランプの光の下、ミルファが薄っすらと目を開いている。アルヴィンと女性が近くで見守り、声を掛けている。 「ミルファさん、大丈夫? ここは天文台だよ」 「天文台……」  小さく、頼りない声だ。ぼうっと宙を見つめている様子に生気を感じられなくて、不安が生まれた。  ルシアーノはミルファの視界に入るよう、正面にまで身体を移動させた。なおもアルヴィンが話しかけている。 「身体はどう? 今、痛いところはない?」 「大丈夫……だと、思う」 「……ミルファ」 「ルシアーノさんが助けてくれたんだよ、ぼくたちを」  ルシアーノは我慢できずに声を掛けた。紺碧の瞳に自分を映してほしかったのだ。アルヴィンが言葉を重ね、ミルファが視線をわずかに上げる。  やっと、目が合う。  喜んでくれるか、ホッとした表情を見せてくれるかと期待していた。しかしルシアーノの予想は……大きく外れた。 「ルシアーノ……? ッい、いや! ……アルファ!? 嫌だぁっ!!」 「ミルファさん、ミルファさん!? 落ち着いて!!」  覚えのなさそうにルシアーノの名前を繰り返し、視線が交わった瞬間身体を強張らせる。  ミルファは突然叫び、暴れだし、寝台から転がり落ちるように逃げようとした。  アルヴィンと女性がミルファを押さえ、扉の方から飛び込んできたスッマがルシアーノの腕を引く。 「ルシアーノ! 部屋を出るんだ!」 「そんな……ミルファ、……俺だぞ?」 「いやだぁぁぁ……うぅっ……こわい……」  信じられなかった。ここまで全力で拒否されるなんて、いくらなんでも予想できていない。呆然と立ち尽くすルシアーノはスッマに強い力で引っ張られ、元の部屋に戻る。  扉の閉じられた寝室の方からは、ミルファの泣き声が漏れ聞こえた。小さな子どものようにしゃくり上げ、「怖い」と繰り返す。  ルシアーノのことが誰だか認識できていない様子だった。そんなことがあり得るか? ……怖がらせてしまった。  愕然として開いた口が塞がらないルシアーノの肩を、スッマが励ますようにポンと叩いてくる。 「仕方ない。よっぽど怖い目にあったんだろう。……可哀想に、あの男のせいで」 「……俺は馬鹿だ。ギリギリのところで間に合ったから、大丈夫だと信じ込んでいた」 「心の傷は見えない。でもミルファさんは強い人だ。ゆっくり待とう」  ミルファを医者に見せたかったものの、この小さな町には怪我の手当てができる程度の人しかいないのだそうだ。王都に連れて戻りたい。  けれど今の状態で移動は不可能なので、逆に医者を呼び寄せる手配をした。こういうときのための権力と金だったのだと、改めて納得する。  看護のため医療の知識をかじったルシアーノと人生経験豊富なスッマのあいだで、間違いなくミルファの反応は心的ストレスによるものだろうと結論付けた。  翌日になってもミルファはルシアーノのことを思い出さず、そこだけすっぽりと記憶が抜け落ちているようだとアルヴィンから報告がある。面会して刺激を与えることなんてできず、アルヴィンと、スッマの連れ合いだというオメガの女性だけで看病してくれていた。  微熱はあるものの身体は回復傾向にある。問題は心の方だった。  残念ながらラプティオにされたことははっきりと覚えているらしく、アルファに対する恐怖心が植え込まれてしまっている。心底あいつが憎かった。  ルシアーノは顔を見られなくとも部屋の前を離れたくなかったが、王都から来た調査隊との連携など仕事は多い。心配と動揺で一睡もできず、深夜だけはミルファの部屋の前で過ごした。  ミルファのために何もできないことに歯ぎしりしながら忙しく過ごしていると、翌々日に王宮の医官だという女性とミルファの屋敷の侍女長ポモナが連れ立ってやってきた。  医官マイラはミルファとも面識があり、ポモナは言わずもがなだ。きっと安心できるだろうと部屋に通せば、すぐにすすり泣きが聞こえてきた。  ミルファになにかあったのだろうかと居ても立ってもいられず扉をノックすると、すぐにアルヴィンが出てきた。そのまま扉を閉じて、ルシアーノの顔を見てギョッとする。 「うっわ〜怖い顔! 寝てないの!?」 「ミルファは? 泣いているようだが、大丈夫なのか」  睡眠不足で血色の悪い顔をしかめていたせいで、驚かせてしまったらしい。余裕のないルシアーノは詰問する口調にならないように意識して尋ねる。 「ポモナさんって人を見たら安心したみたい。使用人って言ってたけど、本物の家族と変わらないよね」 「そうか……それは良かった」  アルヴィンの声音にも、答えた自分の声にも、羨望が滲んでいる気がした。ミルファの本物の家族になれたらどれだけ幸せだろうか。彼の安心できる場所になりたいのに、今は遥か対極にいるのが悲しい。  こんな二次性なんて要らないと心底思うが、アルファだからこそ今の人生を歩んでミルファに出会えたのだろう。性別は選べない。みんな持って生まれたものに対して常に悩み、振り回されて生きている。  その夜、マイラがルシアーノと話しに来た。歳は近そうだ。お団子にしていた髪を解き、ウェーブした長い髪を背中に下ろしている。  医官の彼女はルシアーノの目の前に座り、はっきりとした口調で提案した。 「王都に戻ろう。彼も自宅の方が落ち着くだろう」 「大丈夫なんですか? その、身体への負担とか……」 「身体は大丈夫だけど、メンタルがな。だが屋敷にアルファはいないと聞いたし、気をつければいい。なによりいずれ発情期がやってくるんだから、そのときにこんな他人がウヨウヨいる場所じゃ嫌だろう」 「いつ……ミルファは治るんでしょうか」  ルシアーノが尋ねると、彼女は面白そうに片眉を上げる。初対面のはずだが、何を考えているかお見通しのような目だ。 「それはわからない。ただ、アルファのフェロモンにいちいち反応しているわけじゃないようだな。アルファだと知っている相手や見た目でそうと分かる相手が駄目らしい。侯爵は残念ながら筆頭だ」 「……しかも俺は、忘れられている……」  自虐的に零すと、「なんとも情けないアルファだな」と呆れ声で言われた。まさに自分でもそう思っているところだ。 「一時的な記憶喪失はいずれ、戻ると思う。それが明日なのか来週なのか来年なのかは分からないが。面白いのは、本人が一番気にかけていた相手の記憶が消えがちなんだよ。聞いた話だけどな」 「気にかけていた……?」 「好意か、嫌悪か、心配か。その理由は分からなくともな」 「…………」 「彼は侯爵を探してここまで来たんだろう? 荒療治は勧めないが、もう少し自信を持ったらどうだ」  ルシアーノは「うん」とも「ううん」ともつかない声で応えた。

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