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32.新入りの使用人 Side.Milva

 なんだか過剰な気もしたが、天文台で手厚い看護を受けたおかげでミルファの体調は回復し、医官の勧めもあって屋敷に帰還した。  馬車を降りて我が家が見えた瞬間、想像していた以上にホッと心が落ち着くのを感じる。一日も経たずに帰ってくる予定だったのに、一週間も不在にしてしまったのだ。 「ミルファ様、おかえりなさいませ……!」  大勢の使用人がミルファに文句を言うため待ち構えているかも……と勝手に冷や冷やしていたのだけれど、玄関先で待っていたのはディードーだけだった。  ミルファに起きたことについて連絡を受けているのか、眼鏡の奥の目は涙ぐんでいる。ミルファに寄り添っていたポモナが「しっかりしてくださいよっ」と小声でディードーをつつき、ミルファも軽い調子で肩を叩いた。 「心配かけてごめんね。ただいま」 「しばらく大人しくしていてくださいね!?」 「あはは」  くわっと言い聞かせられて、笑いながら頷く。ミルファもさすがにすぐには職場復帰も難しいとわかっている。  今はどうしてもアルファが怖くて、相手が誰であっても身体が竦んでしまうのだ。知り合いでもそうなってしまいそうで、おそらくリハビリが必要だと言われている。  医官の先生マイラは先に王都へ帰ったが、たまに屋敷まで往診に来てくれるそうだ。王宮の医官なのにそこまでしてくれるのが申し訳なくて不思議で、恐縮したけれど。  「頼まれたから」の一言で彼女は片付けていた。もしかしたらフェブルウス長官が口添えしてくれたのかもしれない。やはり顔見知りの人に診てもらえる方が安心できるから、とてもありがたい。 「すぐに休めるよう、寝室を整えておきましたので」 「もうお尻に根っこが生えそうだよぉ……」  少し抵抗してみたけど、身体が衰えてしまったため王都までの移動だけでも疲れていたのは事実だった。仕方なくその日はすぐに休んで、翌日から簡単な執務を再開する。  領地は持っていないものの、自分の屋敷を持ち使用人を雇う貴族としてやる仕事は地味にある。夜会にも顔を見せなくなったミルファが長期で仕事を休んでいることを知って、心配した知人からの手紙も増えていた。  いくつか選別してもらった手紙に返事を書き、細々とした帳簿に目を通す。ふと思い出したように、ディードーが「そういえば」と切り出した。 「厨房のヤムがぎっくり腰になりまして、彼の甥っ子が手伝いに来ております」 「えっ! ヤムもいいお歳だもんね……大丈夫なの? ていうか、いつの間に!?」 「数日前でしょうか。勝手に採用して申し訳ありませんが、死活問題でしたので……。私の方で身元や人格は確認済みでございます」  この屋敷は使用人が少ないため、みんなにあらゆる業務を兼任してもらっている。御者兼馬丁とか、料理人兼庭師とか。小さな庭では食事に使うハーブばかりが植えられているのも御愛嬌。  だから一人抜けるとその穴埋めは結構大変だ。来客も少ないので基本的に無理させない方針だが、食事は死活問題である。  ヤムは国の東方出身の料理人で、かなり強めのこだわりを持っていつも美味しい食事を提供してくれている。だからこそ、ぎっくり腰で動けないときに手足となってくれる人間を親族から連れてきたというのだ。 「別にいいけど……挨拶してこようかな?」 「立場が逆でございます、ミルファ様。しかしながら、彼は少々大柄でして……今は挨拶させるのも控えたほうがよいかと」 「そっか……そうだね」  初対面の人の前で怯えてしまったら、申し訳ない。どんな人か気になるが、ミルファの回復を待つよりもヤムが先に復帰するような気もする。 「お茶をお持ちもちましたー!」  コンコン、と書斎の扉をノックして入ってきたのはアルヴィンだ。楽しそうにワゴンを押す横顔に、さらりと黒髪が揺れる。  アルヴィンは領主館から解放されたあと、ずっとミルファに付いて看病してくれていた。  親はおらず、長年離れていた親戚の家に戻って厄介になるのも困らせるからと、一緒に王都まで連れて行ってくれと頼まれたのだ。王都に着いたあとは自分でどうにでもするからと言われても、そんな彼をミルファが放っておけるはずもない。 「もちもち……?」とディードーが首を傾げているのを横目に見て笑いながら、ミルファは「ありがとう」と話しかける。今はどんな仕事に適正があるか、いろいろと試しているところらしい。  十九歳と若く、秀麗な見た目のオメガだ。性格も元気だし、さっそく使用人たちには可愛がられているらしい。侍従のロービーあたりは浮かれていそうだな。  主人が働いてもいないのに使用人を増やして、いよいよまずいな、という思いはある。にもかかわらずディードーは全く心配していない様子で、ミルファも気が抜けてしまった。うちに隠し財産とかあったっけ……?  とはいえ無理に働こうとしてもみんなに止められるだけだろう。ミルファは早く自分を癒やすためになにができるか考えた。 「そうだ! アニマルセラピー!」 「乗馬もしばらく控えたほうが……」 「アウロスのブラッシングだけならいいでしょ? おやつも持っていってあげようっと」  愛馬アウロスも、ちゃんとお願いしてエトワから連れ帰っている。けれど一時宿に置き去りにしてしまってからちゃんとケアできていないので、拗ねているかもしれない。  ちなみにミルファはどうして自分がエトワに向かったのか、思い出せないでいる。真剣に思い出そうとすると頭が痛くなり、領主との嫌な記憶まで蘇ってくるため無理に考えるのはやめてしまった。  周りのみんなは知っているみたいだけど、あえて教えてくれようとはしない。きっといい理由ではないのだと思う。  アルヴィンに伝えて厨房から馬のおやつを持ってきてもらい、ひとりで厩舎へと歩く。  案の定、アウロスはミルファを見つけるとフンッと鼻を鳴らしそっぽを向いてしまった。仕方ないよな、と苦笑して外へ誘導すると、やはり太陽の下が好きなのかそこは素直についてくる。  丁寧にブラッシングをして、大人しくしていてくれたお礼にビスケットを差し出す。いつもは野菜や果物、外出先では角砂糖などをおやつにしているのだが、今日はわざわざ馬用のビスケットが用意されていたのだ。  かなりアウロスの機嫌がよくなったのを感じながら、これはヤムの甥が焼いたものかもしれないと思い至る。ヤムも気まぐれに馬用のおやつを作ってくれることがあるけど、もっと均等な形だったはずだ。  ちょっと(いびつ)な形のビスケットを、もっと寄こせと鼻でつつかれる。きっと美味しいのだろう。  アウロスが羨ましくなって少しかじってみようとしたところで、馬丁が戻ってきたのでやめた。絶対に怒られる。  用意してもらった籠に多すぎるほど入っていたから、ミルファは馬丁に許可をもらい他の馬たちにもクッキーを分けてやることにした。  厩舎の中にはアウロス以外に二頭の馬がいる。うちみたいな貧乏貴族は馬車も二頭立てだから、それで充分……  「あれ?」  よく見ると、全部で三頭いる。立派な青鹿毛の馬と向き合えば、そういえばこの子もいたなと思い出す。透けて青にも見える黒い目が、ミルファを見つめて顔を擦り付けてこようとした。 「……クレア、君はいつ、来たんだっけ?」  伸びてきた首を叩いてやりながら、考える。顔見知りの牧場主の息子が届けに来たんだ。名前も思い出せた。けれど記憶は虫食いで、肝心のところが思い出せない。  牧場まで馬を選びに行き、アウロスと並んで遠乗りに行ったりして…… 「う、痛っ……」 「ミルファ様っ、大丈夫ですか!?」  ツキンッと頭の奥が痛み、その場でうずくまる。エトワに行った理由と関係があるのだろうか?  なにか大事なことを忘れている気がするものの、無理に考えて倒れてしまっては大騒ぎになる。ミルファは大丈夫だと手を上げて見せてから、ゆっくりと立ち上がった。 「ごめん、心配かけたね。この子は……いや、なんでもない」  クレアについて尋ねようとして、やっぱりやめる。なにか大事なことがあるのなら、自分で思い出さなければならない。  医官の先生も「思い出せないのはまだ準備ができていないからじゃないか? たぶんな!」と言っていたし。結局おやつは馬丁に渡して、分けてもらうよう頼んだ。  数日経った食事中のことだった。  ミルファはオニオングラタンスープがメインの晩餐を完食してから、おずおずと切り出した。今日はポモナとアルヴィンが給仕してくれている。 「美味しいんだけど、物足りない……」 「あら、食事の量が足りませんか?」 「そうじゃなくて、もっとガツンとした噛みごたえのある肉とか食べたい!」  飴色のたまねぎがたっぷり入ったスープの上に、パンとチーズを乗せてオーブンでこんがりと焼いたグラタンはとっても美味しい。玉ねぎは甘く、透明なチキンスープととろけるチーズの塩味が絶妙な逸品だ。  しかし帰ってきてからもう何日もスープがメインの食事しかとらせてもらえていない。砦でもそうだったのだ。  バリエーションは驚くほど豊富で飽きるということはないが、すぐにお腹が空くしあまり噛まないので顎の筋肉が衰えそうである。  あらあらとポモナが困ったように笑う。横にいたアルヴィンは呆れ顔で口を開いた。 「そりゃあ、ルシ……新入りさんがミルファさんのことを心配して心配して、毎日献立考えてるもんな」 「えっ、会ったこともないのにそんな心配されてるの!?」 「…………」  ヤムの甥は主人が病気だと聞かされているのかもしれない。なんだか勘違いさせているようでミルファは申し訳なくなった。 「いや、美味しいんだけどね? それとなく、もう元気だからって……伝えといてくれるかな」 「自分で言いにいけば? 元気な顔見せてあげなよ」 「アルヴィン! ――ミルファ様。お聞きになっていると存じますが、まだお会いにならない方がいいです」  使用人らしさが全く出てこないアルヴィンがポモナに叱られている。別に気にしないけどなぁと思いつつ、言われた内容については気になった。  それだけミルファのことを気にかけてくれている人に顔も見せずにいるのは、ひどく冷たい気がする。 (会いに……でも怖がっちゃうかもなぁ、僕が。今度遠くから見てみよう!)  何もせずに安全な家で暮らして、それだけで自分の状態が良くなるとはとても思えない。使用人たちは過保護だし、ミルファ自身が行動するしかないのだ。  最近ミルファは夜ふかしだった。仕事も運動もしていないため眠れないのも当然である。  ふと、喉の乾きを覚えて水差しも空になっていることに気づく。ワインでも飲もうかと考えて……やっぱりだめだと首を振った。ミルファは誰よりも健康でいなければならない。……ってなんでだっけ?  誰かのためにそんなことを決意していた気がするなぁ、とぼんやり思いながら、ミルファはカシミヤでできた温かいガウンを羽織った。春はもうすぐそこまで来ているけれど、まだまだ真冬といえる気温だ。  このガウンは天文台で療養していたときにもらったもので、領主館からオメガたちを助けてくれた偉い人がミルファを憐れんで用意してくれたらしい。肌触りが柔らかく、薄くて軽いのにとても温かい。  高級な生地に感心しながらシンとしている廊下を歩き、厨房へと足を踏み入れる。真っ暗かと思ったが、調理台の上にランプがひとつ置いてあって仄明るい。 「誰かいるの? 水をもらいに来たんだけど」  ガタッと奥の方から物音がして、ミルファはその方向へ視線を向けた。台の陰に誰かいる。ガサガサと物音は続いていて、すごく気になった。  知っている人なら隠れる必要なんてないだろうし、泥棒……だったらもっとお金持ちそうな屋敷に行くはずだ。 「あ。もしかして……ヤムの甥っ子さん?」 「……そうだ」  閃いたミルファの問いに、少々遅く応えがあった。バリトンボイスだが、やけにくぐもっている。  噂の新入りに会えたことに気分が高揚するけど、ここは慎重に行動しないといけない。いきなり近づいて過剰に反応してしまったら申し訳ないので、ミルファは厨房の入口付近へと後退した。 「あの、初めまして。僕はこの屋敷の主人、ミルファ・クィリナーレだ。よかったら顔を見せてくれないかな?」 「…………」 「わけあって今は近づけないんだけど、ここから挨拶させてくれないかな? いつも美味しい食事をありがとう……って……ぅわ!?」  ヌ、と立ち上がった大きな影に思わず声を上げる。大柄だと聞いて太っているのかと勘違いしていたが、そうではなく背の高いがっしりとした男性だった。  声を上げた理由はその体格の良さからではない。彼が頭から紙袋を被っていたからだった。一瞬また泥棒を疑った。  果物を買ったときに入れるような茶色い紙袋の、目元に穴を二箇所あけてある。ガサガサ音がしていたのはこれだったらしい。 「顔が……見えないほうがいいと思って」 「……ふふっ。あはははは! だからって……あはっ。それは逆に怖いよぉ!」  ちゃんとエプロンまで身につけていて、こんなにも間抜けな泥棒はいない。ボソボソと紙袋越しに聞こえる声がさらにツボに嵌ってしまい、笑いが止まらなかった。  もうまったく怖くない。相手には申し訳ないけどとにかく面白くて、彼の気遣いにも癒やされる。久しぶりにこんな無邪気に笑った気がした。 「怖いか!? すっ、すまない!」 「ぜーんぜん! ごめんね笑っちゃって……ふふふ。あなた、名前は?」 「……ルシ、ウス……」 「ルシウス? 明日からはもうちょっと噛みごたえのある食事を検討してほしいな。見てのとおり僕は元気だから、病人食はもう必要ない」 「そう、か……よかった」  全部美味しいんだけどね、と付け加えると、ルシウスはホッとしたように肩を撫で下ろした。顔は見えないからその真意は窺えないが。  何を話しても見るたびに笑ってしまう気がしたので、ミルファは早々に退散することにする。仕事の邪魔をしてしまったなら申し訳ない。  当初の目的だった水を所望すると、ルシウスは新しい水差しを用意し、迷って近くの台に置いた。ミルファが取りに行こうとすると慌てて彼が厨房の奥に離れていったのが、少しだけ寂しく感じて不思議だった。どこか懐かしい、柔らかな香りが鼻先を掠める。  偶然とはいえ会えてよかった。威圧感がなかったからたぶんベータだと思うけど、初対面の男性と普通に(?)話せたことは成果にしてもいいはずだ。 「次は顔を見て話せたらいいな……」  ぽつりと零したひとり言は、静かな廊下に溶けてゆく。久しぶりに笑って身体がぽかぽかとしている。

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