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34.思いの丈

 ルシアーノの身体は、ユノとロービーによってソファに横たえられた。うつ伏せにして、刺された場所を強く押さえられている。  使用人たちが総出で事態の収束に走っているものの、この部屋はやけに静かだ。当てた布は順番に血を吸い、交換するときにはじっとりと重くなっているのがひどくミルファの不安を煽った。  すぐに医者を呼ぶよう指示したが、町医者の数なんて限られている。ユノも協力すると外に出て行ったけれど、医者がすぐに来られるかどうかは運次第といえた。  意識はあっても呼吸が浅く、顔は青褪めている。ミルファはなんと声を掛けていいかわからず、ただ傍らで名前を呼ぶばかりだ。  思い出したばかりの、名前を。 「ルシアーノ! ああ、どうして……ルシアーノ……」 「みる、ふぁ……思い出したのか」 「うん、うん……! ごめん、助けに来てくれたんだよね。ほんとにごめん」  声は囁くように小さく、ルシアーノの口元に耳を寄せる。本当は喋らせるのも良くないのかもしれないが、不安で、声だけでも聞いていたかった。 「わるか、った……ずっと謝りたくて。俺は……ミルファの優しさにずっと甘えていた。ひどく傷つけてしまったと、気づいたとき……死にたくなった。これも、罰が当たったんだろうな……」 「だめ!!!」  突然張り上げた大きな声に、ルシアーノも周囲の使用人たちも目を丸くした。ミルファの海色の目には涙が浮かんでいる。 「死ぬなんて嘘でも言わないで。絶対死なせない! 元気になってから、ちゃんと説明してよ。それでもし納得できなかったら、思う存分殴らせてもらうから。いい? グーで殴るからね? だから、今は、謝らないで……。何度も助けてくれて、ありがとう……っ」 「……泣かないでくれ……」  ルシアーノのほうが苦しいはずなのに、顔の横でぐずぐずと泣き始めたミルファを大きな手が慰めるように撫でてくれる。かつて感じていたルシアーノに対する不信感が、涙と共に溶けて流れ出ていく。  こんな風に身体を張ってミルファを守り慈しんでくれる人が、悪意を持って人を騙すはずなんてない。一瞬でも疑ってしまったことを後悔した。  領主館から助け出してくれて、天文台では一度しか見なかったけれどそれはミルファが怯えてしまったせいで、きっと近くにいた。しかもこの屋敷に帰ってきてからはルシウスなんて素性を偽りながらも、ミルファの傍にいてくれた。  ミルファに出される食事の数々はどれも温かくて、優しい味がした。前に体調を崩したときにもルシアーノが献立に口を出していたし、最近もそうだったに違いない。アルヴィンの言っていたことを思い出して納得した。  ミルファの頭を撫でてくれていた手の動きが止まって、顔を上げる。すんと鼻を啜りながらルシアーノを見ると、いつの間にか目を閉じていた。  その顔色は青を通り越して蝋のように白く、ミルファはぞっとした。思わず手を握ると、恐ろしく冷たい。血が、通っていないみたいだ。 「る……ルシアーノ? ねぇ、返事して」 「ミルファ様! 医者が来ました!」 「嫌だぁぁぁ! 死なないで!!」 「ミルファさまっ、お気を確かに!」  パニックに陥ったミルファは戻ってきたユノによってルシアーノから引き離され、別室に連れていかれてようやく落ち着いた。とはいえ涙はなかなか止まらず、ユノに差し出されたハンカチまでぐちゃぐちゃにしてしまっている。 「なぁ、ミルファ……大丈夫だって。あの人、丈夫そうだし」 「うぅ……本当に? 絶対?」 「ううーん……ていうかなんか、関係おかしくなってないか? ルシアーノさん、使用人の恰好してなかった?」 「僕がさっきまでルシアーノの記憶をなくしてて、その間、使用人としていてくれたみたい……」 「は?」 「あ。……えーっと」  ミルファは長い長い説明をしなければならなかった。おかげで涙は止まり、喉が渇いていることに気づきごくごくと水を飲む。  エトワのくだりを話し終えると、長く頭を抱えていたユノも同じくカラフェから水を注いで一気飲みした。使用人が出払っているので、紅茶を淹れてくれる人さえ今はいないのだ。 「もちろん外遊の立ち寄り先からエトワは外されたよ。上限を超えた税を徴収していることが先に判明したんだけど、まさかオメガを拉致監禁までしてたなんてな。さすがに王宮でも噂になった。でもそこにミルファが巻き込まれてたなんて……」 「自ら突っ込んでいったようなものなんだけどね。あはは……」 「いや本当に気をつけろよな!?」 「はーい。ルシアーノも戻ってきたし、当分ひとりで出かけたりしないよ」 「……ちゃんとあの人と番になれよ。一度別れたって言ったって、好きなんだろ?」 「……うん」  ミルファが曖昧ながらも頷くと、ユノは目を細めてくしゃっと笑った。なんだか無理に笑っているようにも見えたけど、ルシアーノのことを考えて気が逸れる。  ルシアーノがミルファのことを大切に思ってくれているのは身をもって知った。けれどそれが恋情なのかどうかは、まだわからないのだ。  期待していいような気はするが、なにしろ短期間で色々ありすぎてミルファも混乱している。まずはルシアーノが回復しないことには話もできないだろう。  医者は、ユノの伝手で貴族を相手にしている人を捕まえられたそうだ。平民向けの医者と違って、高級な器具や薬を使っているので有能な人が多いとは聞いている。  さっき報告に来てくれた使用人によると、命に別状はないというので心底安堵した。すぐにでも会いに行きたいけど、ミルファは邪魔になるため処置を終えるまで出禁である。屋敷の主人なのになぁ。 「じゃ、おれは帰るから。何かあったらいつでも頼ってくれな」 「ユノ。本当に……ありがとう」 「よせって。友人なら当然だろ?」 「ただの友人じゃないよ。一番大事な友人だから」 「おう。……嬉しいな、それ。おれにとってもミルファが一番だよ」 「ふふふ、ありがとう」  照れ隠しに笑って、馬車に乗るユノを見送る。ユノのおかげでミルファの心はだいぶ軽くなっていた。  使用人たちではミルファを無理やり移動させたりできないだろうし、対等に話もできない。友人としての助言に励まされ、前向きな気持ちが戻ってきていた。  いくら感謝しても、し足りない。  屋敷内に戻ると、ルシアーノの容体が安定したとディードーに伝えられた。今は鎮静薬を与えられて眠っているらしい。  念のため医者は今夜この屋敷に留まるそうだが、明日以降は侯爵家お抱えの医者がこちらへ来るという。  そこでミルファははた、と足を止めた。ルシアーノと侯爵家が、すぐに結び付かなかったのだ。  「侯爵家? ……って、なんか関わりあったっけ」 「……ミルファ様……。ようやくルシアーノ様のことを思い出されたようなので無理はありませんが。あのお方は現セリオ侯爵です」 「え……?」  呆れた様子で教えられ、ミルファは頭の中で記憶のページをぱらぱらと捲る。  侯爵家の用事でルシアーノがたびたび侯爵邸に行っていたことは知っている。……そういえばエトワで領主を捕縛しミルファたちを助けに来たのは侯爵家の騎士たちだったと、アルヴィンが言ってたっけ?  えっ……ルシアーノが連れてきたってこと? 「我々がお止めすることもできず、侯爵様に使用人の真似事までさせて、恐れ多いことです」 「ひっ……それって、まずいことなんじゃ? 大怪我までさせちゃったよ!?」 「不可抗力と申しましょうか。……ミルファ様。決してルシアーノ様のお心を離さぬよう、お願いいたしますよ」 「無理だよぉ……だって僕だよ!?」とか「そこをなんとか」なんて言い合っているうちに、ルシアーノが休んでいる部屋に到着する。そこはかつて、ルシアーノがミルファの妻として住んでいた部屋だった。  侯爵様をこんなしょぼくれた部屋に? ていうか妻? とも思うが、今さらだ。ミルファは都合の悪いことを考えないようにして、小さく扉をノックする。すぐに中から侍女の応えがあった。  ディードーとはそこで別れ室内に入ると、ポモナとセルピナがルシアーノに付き添っていた。発熱しているらしく、布で汗を拭っている。  今はこれ以上できることもないようだ。ミルファは代わると伝え、二人きりにしてもらった。 「ルシアーノ……」  小さく名前を呼ぶ。その名前を舌に乗せるだけで、胸がきゅうっと引き絞られたように切なくて苦しくなる。  まだ顔色は悪いが、先ほど見た蝋のような白さはない。近づいて見下ろし、彼が穏やかに呼吸していることに感極まって泣きたくなった。  今は落ち着いていても、これから感染症で命を落とす可能性はないとも言い切れず、運とルシアーノの体力次第だ。祈ることしかできない。  背中の傷に響かないよう横向きに眠っているルシアーノの横顔を見下ろすのは、不思議な気分だった。ミルファは彼に看病されてばかりだったし、イレギュラーな状況だった山小屋を除けば一緒に寝たこともない。  髪よりも明るい青に見えるまつ毛が、伏せられている。目を閉じていると、美しい顔立ちはいっそう作り物のようだ。  教会に置かれている精緻な彫刻めいていて、一瞬人ではないのかと疑ってしまう。ミルファは無意識に顔を近づけルシアーノの呼吸を確かめた。  静かな息を感じ、そのまま至近距離で観察する。  秀でた額に、細く高い鼻梁、形のいい唇。瞼の下には優しさを溶かしたような淡紅色の瞳が隠れていることを知っている。  ミルファがそっと頬に触れると、体温の低い手に擦り寄るように顔が傾く。発熱のせいに違いない。そう分かっていても、愛おしさが込み上げてきて仕方がなかった。 「……愛してる」  この溢れんばかりの気持ちを表現するために、情けなくも陳腐な言葉しか出てこない。  何か伝えたくて、どうしようもなく涙が溢れてきてしまって――ミルファは目の前の唇に、そっと唇を重ねた。  思いの丈を、伝えるように。

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