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35.外堀から埋まっていく

 ミルファの診察のため、王宮から医官の先生が往診に来てくれた。エトワでは一日かけて診てくれたので、会うのはまだ三度目だが顔を見ただけでなんとなくホッとする。 「マイラ先生、その節は遠いエトワまで来てくださってありがとうございました。おかげで僕もすっかり良くなりました」 「本当に元気そうだね。あれからひと月も経ってないのに、もうトラウマ克服したって? 記憶は?」 「戻りました。事件が、きっかけで……」 「結局荒療治となってしまったわけだ。君は本当にトラブルに巻き込まれがちだな?」  にやにやと笑いながら言われて、ミルファは困った表情で小さく頷いた。  決して望んではいないのだけれど、確かにそうだなと自分でも思うのだ。この先の人生は穏やかに過ごしたいなぁと、近頃はもはや老後のような気持ちになっている。  ルシアーノも回復傾向にあるため、ミルファは職場復帰についてマイラに相談した。もちろん王宮にはユノ以外のアルファもいることも分かっている。ただ急に休んでから二か月が経とうとしており、その間ずっと心に仕事のことが引っかかっていた。 「そろそろ職場に戻ろうと思うんです。上司が理解のある人だし、アルファの同僚とも会って大丈夫だったので」 「デメリットを自分で分かってるならいいんじゃないか? 基本的に私も王宮にいるしな。でもなぁ……王宮にはアルファが多いから、オメガで働いてる者は少ないだろう。そもそも貴族のオメガは働かない。君はオメガの赤ん坊みたいなものなんだし、無理して働かなくてもいいと思うよ」 「…………」  痛いところを突かれて、視線を落とす。  ミルファがいなくても王室家政長官局はなんら問題なく回っているだろう。そんなことにはとっくに気づいている。むしろオメガになった同僚が戻ってくる方が迷惑を掛けるに違いない。  発情期のたびに休まなければならないし、ここの使用人たちのように過保護に守ろうとしてくれる人もいるだろう。だって、ミルファだったら絶対に心配する。  番のいないオメガが発情期になると、誰彼構わずアルファを興奮状態に陥らせるフェロモンを出してしまう。オメガの人はみんな上手く薬を使って対処しているというけれど、市井では事件の話も聞く。オメガが近くにいるだけで周囲は不安になってしまうものではないだろうか。  しかし、今の職場はミルファにとっての大事な居場所だった。文官になれたおかげで自分の屋敷を購入し、使用人を雇うことができたのだ。彼らはいまや家族同然で、突然解雇なんてできない。  だから働かない選択肢を目の前に出されると、突然不安が胸の内に立ち込めてくる。戸惑いを隠せず、うろうろと紺碧の瞳を彷徨わせた。 「働かなかったらいったい、なにをすれば……? しかも僕には、使用人たちを養う義務が……」 「君の騎士(ナイト)と子育てでもしたらどうだ? 侯爵なら全て面倒を見てくれるだろう。――まさかまだくっついてないとでも?」 「う」  ずばりと指摘されて、ますますミルファは狼狽える。マイラにも「くっついて当然」と思われている事実が嬉しいようで恥ずかしく、頬に熱が上る。  とはいえ……まだ何ひとつ関係は進展していないのだ。 「まだ、というか……」 「まだ!? 何をちんたらしてるんだあの男は」 「あっ。違うんです僕が!」 「振ったのか!?」 「っいいえ!? ちょ、ちょっと待ってください。まだ……そういう話はしていなくて。というか、僕が言わせないようにしてて……」 「情けない男だな」 「すみません……」  マイラはかなり口が悪いのでは……と今さらミルファは気づいた。男まさりな口調も相まって、だいぶ気圧されてしまう。  なぜか怒られているのだけれど、嫌な感じはしなかった。彼女は明確に事実を指摘しているだけだし、我ながら後ろめたい部分が大いにあるからだ。 「いいか。人生は何が起こるかわからない。後悔してからじゃ遅いんだ」 「……はい」  身に染みる言葉だった。あり得ないと思う出来事が何度もあったのだから、この前のような事件はいつでも起こり得ると考えた方がいい。  ミルファが同じ場所でウジウジと立ち止まっている間に、何かが起きて一生会えなくなってしまったら、この先ずっと後悔し続けなければならないだろう。 (わかってる……はずなんだけどなぁ)  マイラと別れたとき、ちょうど昼食の時間が近づいていた。  書斎へ向かおうとしていたミルファは、そそくさと逃げるように自室へ方向転換する。そちらの方が使用人も遠慮して入って来づらいだろう。  だがとっさの行動は間に合わなかった。 「ミルファさま、いいところに!」 「あ、アルヴィン……」  ミルファを引き留めたのは、使用人の格好も板についてきたアルヴィンだ。ストレスから解放されたおかげか、出会った頃よりも美しさが際立つ。  外に出すとたちまち周囲の視線を奪ってしまうので、買い物へ行くときは厳重なフォーメーションを組んでいるとディードーから聞いた。それでも彼の過去を思うと、自由に過ごさせてあげたい。  ルシアーノとアルヴィンがこの屋敷の顔面偏差値を上げにかかっているな……と現実逃避をしているミルファの前で、食事のワゴンを引いたアルヴィンがぱっと明るい笑顔を見せる。 「お二人分の食事を運んできました! ルシアーノさまのお部屋に運びますね!」 「う、うん……ありがとう」  今は気まずいからルシアーノを避けたい……だなんて我がままでアルヴィンの期待を裏切れるわけがない。  そもそもディードー主導の元、使用人たちはなんとかミルファとルシアーノをさせようと画策してくるため勝てるはずもないのだ。  ミルファは諦めて方向転換し、アルヴィンに先立って歩く。ルシアーノの部屋の扉を軽くノックすると、すぐに中から「どうぞ」と返事があった。  アルヴィンのために扉を開けてやり、さっそくテーブルのセッティングに向かった彼の後ろからこそこそと部屋に入る。しかしミルファのほうが大きいから、隠れてもほとんど意味はない。 「ミルファ、来てくれたのか。診察はどうだった?」  寝台に起き上がっていたルシアーノがすぐに話しかけてくる。怪我人のくせに、ミルファの体調を心配してくるところは相変わらずだ。    彼の表情は柔らかく、たった一人しか見えていないかのようにまっすぐと、ミルファだけを見つめていた。  視線の内に孕む熱には気づかないふりをして、ミルファは並べられていく料理に目を固定しながら報告をする。 「なんともなかったよ。職場復帰の相談もさせてもらった」 「それで、医官はなんだって?」 「……好きにすればいいって」  まさかルシアーノとの子育てを勧められたなんて言えず、頬が熱くなる。マイラの物言いはあまりに直接的だった。  自己解釈で回答を伝えると、ルシアーノはミルファを包み込むような優しい声音で諭してくる。 「無理に働かなくていい。俺がいるんだから」 「みんなそう言うんだもん……」  つい、拗ねたように口を尖らせてしまう。働きたくないなんて全く思っていないのに。でも、オメガのミルファが働きに出る方が周囲に迷惑をかけることになると、それも理解している。 「あまり可愛い顔をするな。取って食べたくなる」 「怪我人が何言って……ぅわ!」  ふざけた台詞につい悪態をつく。が、腕を掴まれたと気づいた瞬間、寝台の方へぐっと身体を引き寄せられた。  分厚いスプリングがミルファの体重を難なく受け止めたものの、ルシアーノに覆い被さる形になったミルファは大いに困惑してしまう。  顔が、近いんですけどぉぉ! 「そろそろ認めてくれないか? それとも、俺の勘違いだろうか?」 「あ、う……」 「ミルファ。もう時間を無駄にできない。俺は侯爵になったし、全快したらここにはずっといられない。その前に……俺を受け入れてくれないか。貴方のことを、心から」 「っわー!!! 待って!!!」  咄嗟に両手でルシアーノの口を覆うと、器用に片眉を上げて「まだ?」と表情で伝えてくる。  もうっ、何しても顔が良いな!! 「コホン。ぼくは退出しますねー……」  わざとらしい咳払いをしたアルヴィンの声を聞いたとたん、ミルファは真っ赤になって寝台から転げ落ちた。 「大丈夫か?」 (誰のっ、せいだとーーー!!!)

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