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36.もう、ずっと前から
――この通り、ルシアーノはいまやミルファを全力で口説きにかかっているのである。
とっくに惚れている身としては、突然糖度の高い言葉や行動を浴びせられると、身体が保たない。恋が実った経験などなく、とにかく恥ずかしくて仕方がなかった。
嬉しい気持ちはもちろんあるが、前とは状況が違う。ルシアーノは平民ではなく現侯爵となり、ミルファはベータではなくオメガとなった。
オメガだと思い嫁にもらったつもりだった人が、今度はミルファを嫁にしたいと言う。真逆の状況、しかも阻む壁はひとつもない。
前に道が開けたのが突然すぎて、周囲に背中を押されてもぐずぐずと踏み出せなくなっている。崖の先端に立たされたような心地だ。飛び出せば上手く行くと言われたってなぁ。
本当に……どうしてしまったことか。我ながら情けない。
ミルファが俯いてしまうと、ルシアーノはすぐに「食事にしよう」と切り替えた。療養するルシアーノの部屋に用意されたダイニングテーブルまで少しの距離を移動するため、ルシアーノは寝台からゆっくりと足を下ろし、立ち上がる。
「……っ」
「――危ない!」
背中の傷に障ったのだろう。立ち上がろうとした身体はぐらっとよろめき、ミルファは慌ててそばに寄って支えた。
絶対安静が長く続いたせいで、体力も落ちてしまっているに違いない。気遣いの足りなかった自分を内心叱咤しながら、ミルファはルシアーノの肩を支えて椅子のところまで移動した。
「すまない。もうほとんど痛まないんだが……」
「僕のほうこそごめん。大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。食事が冷える前に食べよう」
昼食はパンにスープという簡単なものだったが、食事は遅々として進まない。
ミルファはルシアーノの怪我の原因が自分と生家の家族であることに、深い罪悪感を抱いていた。
マルコのような暴漢はもう現れないと言い切れず、妹のモリアがこの家に来て吐いていった呪詛も忘れられない。あの家族はルシアーノが婚約を断ったことさえ逆恨みしているのだ。
ルシアーノは、ミルファと一緒にいていいのだろうか?
貴族として生きていく限り、生家の家族と縁を切るのは難しい。もし彼と結婚できたとしても、それはセリオ侯爵家にとって障害とならないだろうか?
自分が狙われるならまだいい。でもまた、ルシアーノに危害を与えられたら……?
きっと、耐えられない。
「ミルファ」
「……なに?」
スプーンを持って俯いていたミルファの正面から、名前を呼ばれる。スープの底に沈めた銀色は光を返さない。
「君が俺に対して罪悪感を抱く必要はない。そして、君一人で不安を抱える必要もないんだ」
「え……」
ミルファは顔を上げた。頭の中を見透かしたような言葉に動揺して、潤んだ瞳を揺らす。
「マルコの件はそもそも、下級使用人にまで目が行き届いていなかった俺の落ち度でもある。ミルファは自分のせいで悪いことが起こると心配しているかもしれないが、侯爵家ともなると見えない敵は多い。正直俺のほうが、ミルファに迷惑をかけることになると思う」
「そんなこと……」
「あるんだ。俺はヤーヌスに……前侯爵に嫌ってほど聞いたからな。領地経営も部下に任せきりではいけないし、王都で他の貴族とのやり取りも避けては通れない。金はあってもこんな立場なんていらないと、平民に戻りたいとずっと思っていた」
「じゃあ、なんで?」
ルシアーノが侯爵位を継いだ理由を聞くのは初めてだ。元々その予定だったのなら、ミルファに嫁入りする真似事なんてしなくてよかったのに。やっぱり平民に戻りたかっただなんて、変な話だと思った。
「ヤーヌスが口にしなかった希望を叶えたかったんだ。というより、寂しかったんだろうな……。ひとりになるのはもう三度目だった」
親を亡くし、養い親とも別れ、セリオ侯爵を亡くした。スッマは生きているとはいえ大切な人を見送るばかりでは、ミルファには想像もつかないほどの孤独感を生んだに違いない。
他人事とは思えず眉尻を下げたミルファを見遣りながらも、ルシアーノは語り続ける。
「俺のことを勘違いした婚姻の申し出がたくさん来ていた。その中に、ミルファの名前を見つけて……友人としてでもいいから、パートナーになれないだろうかと思ったんだ」
「え……」
「ヤーヌスから聞いて、気が合いそうだと思っていた。だから手紙を貰えたのが嬉しかったし、内容も自分を飾らないところが面白くて温かくて……どうしてか、惹かれた」
「…………」
「共に過ごしていれば、惹かれる気持ちは強くなっていくばかりだったよ。仮の結婚生活は、温かくて穏やかで……幸せだった。友人に留まらず、本当の伴侶になりたいと思うまではそうかからなかった」
その頃には色々と吹っ切れて、貴族位継承の手続きを進めることにした。ルシアーノが侯爵家に通っていたのは、残務処理のためだけではなかったということだ。侯爵としての仕事も山ほどあるだろう。
まだミルファもベータだったし、準結婚ではなく今度はミルファを養子にしてしまうことも考えていたという。まさかオメガになるなんて、誰も想像しなかった。
正式に手続きが終わるまでは何も言えず、解雇した下級使用人から情報を仕入れたクィリナーレ家が余計な干渉をしてきたせいで、関係は拗れてしまった。
ルシアーノもミルファも傷つき、離れてしまった。
さらに、ルシアーノが領地に引きこもっている間にミルファの拉致事件が起きた。
気を利かせたミルファの上司と宰相、おそらく国王様の判断もあって、真っ先に情報を受け取ったルシアーノは、権力と金の使い所を知った。
「そのとき初めてミルファが後天性オメガだったと聞いたんだ。驚いたけど、なんだか納得したよ。君からはいつも、芳しい香りがした」
「か、芳しいって……そんなわけないのに」
自分も常にルシアーノからいい香りがすると思っていたなんて言えず、恥ずかしくなり頬に熱が上る。黙って聞いていれば、これは愛の告白でもあるのだ。
「危機に陥ったミルファを見て、一度でも離れた自分を呪ったよ。何があっても、嫌われても忘れられても、もう二度と離せないと思った」
「っ……」
「ミルファの望みはなんでも叶えたい。俺のことは下僕だとでも思ってくれていい。どうしてもそばにいたいんだ。可能なら……嫌われたくない。――もう、一人になりたくない」
「ルシアーノ……」
切羽詰まった声に、こちらの方が苦しくなった。まっすぐとミルファを見つめる夜明け色の瞳は薄い涙の膜に覆われ、縋るような必死さを訴えている。
ルシアーノの飾らない、全てをさらけ出した本音だ。心の柔らかい部分をキュッと掴まれて、自分はなにを躊躇っていたんだろうと馬鹿馬鹿しくなった。
ミルファは相手を慮 るふりをして、自分が傷つくのを恐れていただけなのだ。これほどまでに求めてくれている人を、無視できる人がいるのだろうか?
あと一日でも、いや一分一秒でも、ルシアーノに孤独を感じさせたくない。自分一人でいいのなら、寄り添っていたい。
ミルファは席を立ち、テーブルを回ってルシアーノのそばに立つ。座っているからこちらが彼を見下ろす形になって、不思議と「守りたい」と感じた。
その思いのまま、両手で優しく抱き寄せる。ルシアーノの頭を胸に抱くと、いっそう愛おしさが増す。彼はミルファの胸の中で、小さく呟いた。
「愛してる……」
声は、振動となってミルファの真ん中に届く。言葉にしがたい感動と多幸感でいっぱいになり、ミルファは衝動的に行動した。
ルシアーノの顔を両手で包み、持ち上げるように上向かせる。潤んで見える彼の目が、閉じる暇もないほど前触れもなく――唇を重ねた。
「〜〜〜っは、」
技巧も何もない押し付けるだけのキスに、ミルファ自身が息切れする。
伸びた自分の髪が彼の耳にかかっているのをくすぐったい気持ちで眺めつつ、ミルファは悪戯っぽく伝えた。
「僕だって愛してる。気づいているんでしょう?」
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