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37.嫉妬

 ルシアーノが快癒を告げられ、侯爵邸に戻る日取りも決まった。向こうから執事が訪れ、ミルファの屋敷で仕事をすることも何度かあった。  時期を見て、ミルファはルシアーノの王都邸に移り住む予定だ。その際使用人たちも、ルシアーノに再雇用されることになる。 「(わたくし)たちは、どなたに雇用いただこうとミルファ様に忠誠を誓っております。それでもよろしいですか?」  ディードーを筆頭に、使用人たちはルシアーノに向かってそう告げた。侯爵様相手にとんでもなく失礼な発言だ。  うちの使用人たち、こんなに頑固だったの!? とミルファの方が慌てて「え!? ……いいからっ。何言ってるの駄目に決まってるでしょ〜〜〜!」と間に入ってワタワタした。 「もちろんそれでいい。ありがとう」  しかしルシアーノは快諾だった。心の広さに感謝して、こっそりと惚れ直した。  ミルファの屋敷も残しておいていいと言ってくれたが、けじめとして売却するつもりだ。  侯爵邸と比較すればあまりに小さく、素朴な屋敷。思い出は詰まっているけれど、の持ち物としては見苦しいだろう。  ――そう、ミルファは覚悟を決めた。彼のパートナーとして、今後彼のそばから離れるつもりはない。 (僕が侯爵夫人って……いまだに実感湧かないし、不思議なんだけどなぁ)  自分たちも周囲も、そのつもりで現在動いている。ぐずぐずと悩んでいたミルファが認めてしまえば、驚くほどスムーズに話は進みはじめた。  恥ずかしがっていられたのは最初だけで、結婚と引越しが迫って来れば目が回るほど忙しくなったのだ。せっかく想いが通じ合ったのに、ルシアーノともゆっくり話す時間がなかなか取れないくらい。  考えることがいっぱいでずっと心の中が忙しなく、ポプリに落ち着くブレンドの精油を垂らしても、いまいち効果はない。  ふと気づけば「ルシアーノの香りに包まれて安心したい」なんて気持ちがむくむくと芽生えてきていて、自分でも驚いた。いつの間に彼のそばが安心できる場所になっていたんだろう。  ちょっとでいいからハグでもしてもらおうかな……なんて考えつつ、恋人らしい接触もあれ(キス)以来ないのが現実だ。寂しいと思うけれど、経験値のないミルファにはどうしたらいいのかなんて分からない。  かつてルシアーノに付きっきりでお世話されていた穏やかな日々が懐かしかった。  今日も遅くまで執務をしていた。なんだか身体がそわそわと落ち着かず、このまま寝る気分にはなれない。ミルファは寝室に向かわず厨房へと足を向ける。  こんな時間にまで使用人に頼るのも申し訳なく、自ら寝酒を確保しに行こうと思ったのだ。しかしふと、廊下で足を止めた。 (ルシアーノ、もう寝ちゃったかな? 少しだけ、会いたいかも……)  半分無意識に、ルシアーノの部屋へと足が動く。春も深まってきたからか、少し歩くだけで肌が汗ばんだ。今日、蒸し暑くない?  部屋の前に到着し、扉をノックしようとした時だった。ガチャン! と陶器のぶつかったような音が聞こえ、びくっと肩を揺らす。 「どうしたの!?」  ルシアーノが倒れたのかもしれない。ミルファは許可も得ずに扉を開けた。  ――どこかで嗅いだような、甘い匂い。鼻の奥から記憶がちくちくと刺激された。  目を向けるとそこにいたのは、うずくまるアルヴィンだ。お茶を下げようとして落としたのか、床に割れたカップが散乱している。 「アルヴィン! 大丈夫!?」 「み、ミルファさま……」  あの日、エトワの領主の館で感じた香りよりはかなり弱い。しかしその潤んだ瞳には色気があって、発情であることは間違いなさそうだ。  そんなことは今しなくていいのに、アルヴィンは慌てて割れたカップを拾おうとする。案の定すぐに「痛っ」と手を押さえた。  ミルファは慌てて駆け寄ろうと足を踏み出した。が、先に駆け寄ってアルヴィンを抱き起こしたのはルシアーノだった。 「何をしてる、危ないじゃないか!」 「あ……」  声を漏らしたのは自分だったのか、アルヴィンだったのか。ミルファたちはそこにいるの存在を認識した。 「だめです、ルシアーノさま……」 「大丈夫だ。すぐそこに運ぶだけだから」  アルヴィンも自分がアルファに与える影響を危惧しているに違いない。あるいは、本格的に発情すれば主人であろうがなかろうが誘ってしまうからだろうか?  拒否はしていたもののアルヴィンに抵抗する力はなく、ルシアーノにさっと抱き上げられた。  ルシアーノは近くにあったソファへとアルヴィンを寝かせる。薄いブランケットを身体にかけてやると、一瞬アルヴィンの手がルシアーノの方へ縋るように伸びた気がした。  ミルファは自分も動かなければと思うのに、その場から動けなかった。 (……嫌だ!!)  醜い感情が溢れかえり、心が捩れる。思わず自分の手もルシアーノの方へ伸びそうになって、もう片方の手で押さえながら目の前の光景を眺めていることしかできない。  ルシアーノがアルヴィンのフェロモンの影響を受けることも、アルヴィンがルシアーノに触れることも、どうしても嫌で仕方がなかった。  立ちすくんでいる間にルシアーノは部屋の扉を開け、他の使用人を呼んだ。すぐに誰かが駆け寄ってくる足音がする。ルシアーノがアルヴィンを彼の自室へ運ぶから、部屋へ案内してほしいと話しているようだ。 (なんでっ、ルシアーノが……!)  確かに番のいないオメガのフェロモンは、相手がベータであっても多少影響する。アルヴィンがいくら華奢とはいえ、ルシアーノは女性に運ばせるなんて考えてもいないだろう。だからって、わざわざルシアーノが運ぶ必要ある?  まさか、もうアルヴィンの発情の影響を受けているのだろうか。彼の部屋に行って、そのあとどうするの?  嫌な想像が膨らむ。呆然としているミルファの元へ、いつの間にかルシアーノがやってきていた。 「ミルファ、部屋に戻って大丈夫だ」 「え……」 「俺は抑制薬を飲んでいるから、発情につられたりしない。彼は安全に発情期を過ごせるよう、使用人たちが手配してくれるから。君は安心して休んでいい」 「そ、そうなんだ。……うん、ありがとう」  ふわり、と肩にガウンを掛けられて優しく背中を押される。ミルファは促されるままルシアーノの部屋を出て、ガウンが落ちないよう胸の前で端をぎゅっと握りしめた。 (僕ってば、最低……)  頭の中は自己嫌悪でいっぱいだ。  アルヴィンが苦しんでいたにもかかわらず、ミルファは嫉妬に駆られて何もできなかった。嫌だ、なんて子供のように駄々を捏ねて叫びたくなってしまった。  ルシアーノも、他のみんなも冷静に行動していたのに……情けないし申し訳ない。  ルシアーノが抑制薬を飲んでいただなんて知らなかったな。人口が少ないためかアルファやオメガ向けの薬は総じて高級品で、ほとんど市井に出回っていない。  しかしオメガとの事故を防ぐために、立場のあるアルファは抑制薬を服用することもあるという。  まさかその相手にはミルファも含まれてる? いや、考えすぎだよね?  ふるふると頭を振って、地味にショックを受けている自分を誤魔化す。  ミルファは後ろ髪を引かれながらも、ひとりで自室に戻った。  いつの間に眠っていたんだろう。ふと夜中に意識が浮上して、ミルファは自分が寝汗をかいていることに気づいた。シーツの間で身を捩り、身体の熱さを自覚する。 「あ、れ……?」  覚えのある感覚に、まさかと思う。しかしむくむくと自分の意志とは関係なく性的欲求が湧いてくると、確信せざるを得なかった。 (発情期だ……。うそでしょ……?)  時期的にはもう少し先だと思っていたのに。こんなのまるで、アルヴィンに嫉妬した身体がルシアーノの気を惹こうとしているみたいだ。なんて、浅ましい。  ミルファは涙ぐんで、ぎゅっと自分の身体を抱きしめた。しかし堪えようとしても下腹部が疼き、否応もなく思考が緩んでくる。  もはや無意識に下肢へと手を伸ばす。  ――会いたい人を、脳裏に思い浮かべながら。

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