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第4話

翌朝。まだ腫れの残る足を引きずりながら、マイロはそっと部屋を出た。 時間的に、チルはちょうど朝食中のはずだ。ジークは毎朝、チルとの朝の時間を大切にしている。だから邪魔をしないように、朝食が終わるまで控え室で待とうと思った。 廊下の壁に手をつきながら、ゆっくり歩いていると、後ろから声が飛ぶ。 「マイロ!」 振り向けば、カイルが小走りで近づいてくる。珍しく、どこか慌てているようだった。 「あ、カイル。おっはよーう」 「お前、足、腫れてるだろ。なんで連絡しない。朝起きたら俺に連絡しろって言ったの、忘れたか?」 昨日、部屋まで送ってもらった時に、確かにそう言われた気がする。けれど、そこまで大げさなことでもないと思っていた。 「別に大丈夫だって。ほら、歩けてるし」 「壁つたいに歩いてる奴が何言ってんだ。 ダメだ、部屋まで送る。今日は休んどけ。チル様には俺が、」 「だーめだよ!」 マイロは慌ててカイルの言葉をさえぎった。 「爺さん来てるじゃん、あのモーリス爺! チルをひとりにしておけないって」 昨夜、モーリスが現れて、チルには王妃としてふさわしいかどうかを見極める試練が課されているようだった。 そんな時こそ、近くで支えたい。それがマイロの気持ちだった。 カイルはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐き、くるりと背を向けて、そのまま膝を折った。 「……は?」 「乗れ。歩けないなら、これしかないだろ」 「は、はぁ!? や、やだやだやだ、恥ずかしい!」 「選択肢は二つ。おんぶされるか、引き返すかだ」 マイロが抗議するが、カイルも譲らない。次の瞬間には、ため息をつき、手が伸びてきた。 「仕方ない…」 「わっ、ちょ、や、やめっ……!」 そのまま、ぐいっと抱き上げられてしまった。 「……もう……最悪だ……」 顔を真っ赤にしたまま小声で文句を言うマイロをよそに、カイルは堂々と歩き出す。まるでそれが、当然の任務であるかのように。 こうしてマイロは、カイルの腕に抱えられたまま、国王陛下の控え室へと運ばれていった。 控え室の扉をノックすると、誰もいないかと思ったが、中からすぐに声が返ってきた。 「入っていい」 ジークの声が聞こえた。カイルが扉を開け、マイロを抱えたまま、何のためらいもなく中へ入る。 ジークは一瞬、書類から顔を上げ、そして、眉をひそめた。 「……どうした、その姿」 「足を挫いているので、運搬中です」 カイルは、あくまでも淡々と答える。日課の報告でもしているような調子で、マイロをそのまま椅子の上に下ろす。 「ちょ、ちょっと!もっと優しく降ろしてってば!」 ジークの前で恥ずかしいため、優しく降ろせと小声で文句を言ってしまう。 「…どうした痛むか?」 「い、いや!ちょ、ちょっと!いいって!もう大丈夫!だいじょうぶっ!」 カイルはハッとし、またマイロを抱き上げようとした。椅子に座らせるより、自分で抱き上げてる方がいいと、思ったようだ。 バタバタするマイロの横で、ジークは口元をゆるめ、何かを察したように、ニヤッと笑った。 「ふーん……朝からずいぶん、仲がよろしいことで」 「いや、陛下、違……っ!」 慌てて否定しようとしたマイロの声を、ジークはすっと手を上げて制した。 「言い訳はいらないよ、マイロ。顔がもう全部しゃべってるから」 「……陛下…もう…違うんです…」 マイロはうつむき、赤く染まった耳を隠すように視線を落とした。するとジークは、ことさら真面目な顔で言った。 「いやぁ、カイルに運ばれて来るとか、王宮ではかなり上級だよ?あれだね、次はぜひ、朝食でも食べさせてもらえ。な?」 「えぇぇっ!? や、や…あの…陛下」 顔を覆って赤面をごまかすマイロを、ジークはニヤニヤと眺めながら、上機嫌で言った。 「いや〜、ほんっと、いいねぇ。青春って」 その横では、カイルが変わらぬ無表情のまま控えている。けれど視線だけは、じっとマイロに向けられていた。 マイロは照れたまま視線を泳がせながら、ふと思い出したように尋ねる。 「あの……陛下。チルはどこですか? まだ部屋に?」 マイロがはっとして立ち上がろうとするや否や、隣のカイルがすかさず手を差し出した。 ……まただ。ひとりで歩かせてくれない。 そして、視線を感じた方を見ると、相変わらずジークがニヤニヤと笑っていた。 もう、八方塞がりである。 「コホン…あ〜、チルか? 部屋でモーリス爺とお茶してるぞ」 「うぇぇ!? もう来てる?あの爺さん」 「ああ、朝食も一緒にとったからな」 モーリスが部屋にいるなんて聞いてない。しかも朝食まで一緒だなんて。 昨夜みたいに、またチルに意地悪しているんじゃないだろうかと、焦ったマイロは、カイルに支えられながらチルの部屋へと向かう。 部屋の扉を開けると、そこには向かい合ってゆっくりとお茶を飲んでいる二人の姿。 まるで、仲のいい祖父と孫のような穏やかな空気に、マイロは唖然とした。 「あ、マイロ! おはよう」 「……あ。おっはよぅ……」 拍子抜けして、返事も尻すぼみになる。 「おお、若者!まだ足が腫れておるのか?こりゃ、すまんかったな」 モーリスが、カイルに支えられているマイロを見て、心配そうな顔を向けてきた。 「モーリス様!おはようございます!足は…だ、大丈夫です!」 「そうかそうか。なら結構!さあて、このあとは、第一の試練に入ろうかの!」 モーリスはお茶を飲み干し、満足そうにうなずいた。 「へっ……試練!?」 マイロがすかさず聞き返すが、モーリスはどこ吹く風で続ける。 「馬術じゃ!馬に乗る!」 「王族に嫁ぐ以上、王妃たる者は馬に乗らねばならんのじゃ。特に、同性が王妃となる以上は、なおさらじゃ!己の足で並び立つ覚悟、それが問われる!」 「そ、そんな伝統あるんですか!?」 チルが驚いたように目を丸くする。 「わしが今、決めたことじゃ!」 「い、今!?」 モーリスの無茶苦茶な言い分に、マイロはまたしても絶妙なタイミングで聞き返す。 「モーリス爺、それはだめだ。チルに無理はさせない。馬なんて……ダメ! 絶対ダメ!なし!」 ジークが真顔でぴしゃりと否定し断る。 「だめじゃ! これはやるぞ!馬に乗れぬ王妃など論外じゃ!」 だがモーリスは全く引かない。むしろ楽しそうに続ける。 「……ところで若者、お前さんは馬に乗れるじゃろ?お前さんも一緒に乗るぞ」 「お、俺〜!?乗れますけど…」 いきなり矛先を向けられ、マイロは目を丸くし答えた。しかし、その横から、カイルにすっと口を挟さまれる。 「モーリス大公。マイロは足を負傷しております。代わりは私が、」 「違う! お前さんはええ! わしが言っておるのはこの二人じゃ!」 モーリスはチルとマイロを交互に見て、どこか嬉しそうに言った。 「よいか、これは必要なんじゃ!二人とも一緒に乗ってみい!うーむ、だがそっちの若者は足を怪我しとるからダメか」 「そうです!今のマイロには無理です」 「チルもダメ!危ないからダメ!ダメったらダメ!」 カイルが冷静に阻止し、ジークは必死に止めている。 そんな中、チルはぽかんと皆を見渡し、モーリスだけが「かかかっ!」と豪快に笑っている。 賑やかな朝の始まりに、マイロが静かに頭を抱えていると、その前で、理解をし始めたチルがジークを制して一歩前に出た。 「あの……挑戦してみます。乗ったことはないけれど、知ろうとすることはできます。それが王妃になるってことなら……やるべきだと思います!」 その言葉に「……よろしい!」と言い放ち、チルだけが馬に乗ることになった。モーリスの目は、キラリと光っている。 それから午前中はというと、チルは図書室にこもり、ひたすら馬術の本を読み漁っていた。 「まずは知識からだからね……それが司書の基本!」 鼻息荒くページをめくるその姿に、「なんか違う気がする……」と、マイロはぽつりと呟くが、聞こえもせず。 それからは、あっという間に午後となり、いよいよ馬に乗ることになった。 だが、いざ馬小屋に行くと、王宮には初心者向けの穏やかな馬など残っていなかった。 「今、フリーで使えるのは……ああ、ジルですね」 「ジル?……うわ〜、ジルか……」 またしてもマイロは頭を抱える。 ジルと呼ばれるその馬は、騎士たちの間でも有名な暴れ馬。つまり、いつも空いているのは、誰も乗りたがらないからだった。 馬小屋には、騎士たちが集まっていた。 皆、明らかに不安そうな顔をしている。 「ジルは……めっっちゃ気性荒い馬なんです。暴れん坊で、騎士でも乗りこなせなくて……。先週も落とされたって話が……」 ジークの前で、皆が恐る恐る説明を始める。 「……そりゃ、だめだな」 ジークは渋い顔で即答し、チルを乗せる気はさらさらない様子。 「そんな馬に、チルを近づけるなんて正気の沙汰じゃない」とでも言いたげに、顎に手を当てて眉をひそめた。 「命に関わる。チル、やめておけ」 その低く静かな声には、王としての責任と、何よりチルを案じる強い想いがにじんでいた。 マイロも隣で真剣な顔つきでうなずいていたが、チルは小さく息を吸い、一歩前へと踏み出す。 「……ううん、やってみる。乗ってみるよ。大丈夫、きっと……平気」 ジークの言葉を胸に受け止めながらも、チルはまっすぐに馬へと近づいていく。 「チ、チル! よせって!」 マイロは慌てて止めようとするが、またしても隣のカイルがぴったりと身体を支えていて動けない。 「落ち着け。チル様は、やると決めたら引かないぞ」と、カイルは小声でマイロに囁いた。 ジタバタするマイロをよそに、チルはするっと馬小屋の柵の前へ歩み寄る。 ジークは歯噛みしつつも、すぐに駆け寄って声をかける。 「……無理はするな。何かあったら、すぐに引け……チル!」 小さく放たれたその声には、怒りも苛立ちもない。そこにあるのはただ、深い心配とチルを信じて見守る眼差しだった。 ジルは、前足を打ち鳴らし、耳をぴくりと動かしてチルを見据えていた。 だが、その眼差しに、どこか興味のようなものが宿っていた。 「……ジルさん。初めまして。チルと言います。似てる名前だね」 しばし無反応だったジルは、チルが柵の中に入っても暴れなかった。 「怖くないよ。私、下手くそだけど……今日だけは、お願い。仲良くしてね」 そう言って、チルがそっと鼻面に手を添えると、ジルはふん、と低く鼻を鳴らし、その手に頬をすり寄せた。 「……え?」 その瞬間、場にいた騎士たちがざわめく。 「ジルが……自分から懐いた……?」 「うそだろ……あのジルが、あんな顔を…」 「初対面の人間に、あんな穏やかな仕草、ありえない……」 普段は誰の手も受けつけない暴れ馬が、まるで甘えるように身を寄せている。その光景は、信じがたいほどに優しく、静かだった。 「……嘘だろ……」 ジークは小さく息を呑んでいる。 ぽつりと漏れた声は、驚きと、そしてほんの少し誇らしさを含んでいた。 モーリスが大声で笑った。 「かかかっ!やるではないか、チル王妃!まさか一発で心を開かせるとはな!」 「王妃……」 ジークが、どこか照れくさそうにその言葉を繰り返した。 「あはは……くすぐったいなぁ。ジルさん、案外いたずら好き?」 チルはにこやかに笑いながら、そっとジルのたてがみを撫でていた。

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